食い尽くし夫の処刑日~妻と娘の取り分まで奪った男の末路~ 作:桐山さくらこ
電話を切って、旅行鞄を出した。
一度に全部は運べない。まず数日分の衣類を畳み、仕事の制服を入れた。花の学校用品と、暮らしの手続きに必要になりそうな書類をまとめる。
何かを忘れても、また取りに来ればいい。
そう考えるたび、本当にここを出るのだと実感した。
花の服を選んでいると、遠足の日に着た上着が出てきた。
あの朝も、私は弁当を作った。夫が何を食べたかより先に、娘が何を着て笑っていたかを思い出せたことに、少し救われた。
この家のすべてが、嫌な記憶なのではない。
それでも、今の暮らしは続けられない。
*
帰宅した花は、荷物を見ると立ち止まった。
「どこか行くの?」
私は娘の前にしゃがんだ。
「今日から、しばらくおばちゃんの家に泊まろうと思って」
「パパは?」
「パパは、おうちにいるよ」
「一緒に行かないの?」
「うん。パパとママ、少し離れて暮らすことにしたの」
花は私の顔をじっと見た。
ふざけているのでも、旅行の話でもないと、分かったようだった。
「けんか、したから?」
「……うん。ちゃんと話さなきゃいけないことがあるんだ」
娘の目線を追いながら、言い足した。
「花が何かしたからじゃないよ。ママとパパの話だからね」
花はうなずいた。それから、私の腕に手を添えた。
「ママも、おばちゃんの家にいる?」
「いるよ。花と一緒に」
「学校は?」
「今の学校に行けるよ。明日の持ち物も、ちゃんと持っていこうね」
娘の顔が、少しだけ緩んだ。
私が何日も考えていた家賃や勤務の話とは違うことを、この子は心配している。朝になったら私がそばにいるか。いつもの教室へ行けるか。
一つずつ答えて、一緒に学校の鞄を確かめた。
家を出るとき、鍵を掛ける手が一度止まった。
何年も、ここへ帰るために持ち歩いていた鍵だった。
私は花の手を取り、姉の家へ向かった。
*
「来たね。おなか空いた?」
姉は玄関で、花の鞄を受け取った。
「うん」
「ご飯、もうすぐできるよ」
靴を脱ぐ娘の後ろで、私は立っていた。
「お姉ちゃん……」
姉が肩に手を置いた。
「入って。荷物、そこに置いていいから」
言われた場所へ鞄を下ろすと、手に食い込んでいた持ち手の跡が赤く残っていた。
私はその指を開いた。
花が姉と連絡帳を見始めてから、直樹にメッセージを送った。
『花と私は無事です。しばらく別に暮らします。連絡は私にしてください』
送信したあと、すぐに電話が鳴った。
私は廊下へ出て、リビングの戸を閉めた。
「何だよ、これ。今どこにいるんだよ」
「花と一緒に、泊めてもらってる」
「何で勝手に出ていくんだよ。昨日、分かったって言っただろ」
スマートフォンを持ち直した。
「あなたが、何をしたいのか分かったの」
「は?」
「私が働けなくなって、あなたを頼るしかなくなればいいんでしょう」
「家族のことを考えて言ってるんだよ」
「仕事をやめるとは言ってないよ」
夫の声が大きくなった。
「いいから帰ってこい。花も連れて」
目を閉じた。
以前なら、どうして帰れないかを、もう一度初めから説明していたと思う。理解してくれるまで、違う言葉を探し続けたと思う。
でも、説明している間も、姉の家には温かい食事があった。花が待っていた。
「今日は帰らない。今は、これ以上話せないから」
「おい、遥――」
「必要なことは、連絡するね」
電話を切った。
指が震えていた。強くなったから平気なのではなかった。怒鳴られるのは、今も怖かった。
それでも、戸の向こうへ戻ることができた。
「ママ、明日これ、持っていくんだって」
花が連絡帳の一行を指した。
「大丈夫。持ってきてるよ」
「よかった」
「明日の朝、一緒に鞄に入れようね」
娘の隣に座った。
姉が食卓へ料理を運び、私も立って手伝った。花は連絡帳を閉じて、自分で机を拭いた。
まだ、何一つ終わってはいない。勤務の返事も、住む部屋も、夫との話も残っている。
けれど、今夜帰らなくていい。
食事を始めてしばらくすると、スマートフォンがまた震えた。
私は伏せて置いたまま、花の茶碗にご飯をよそった。
「ママも食べようよ」
「うん」
今度は、自分の茶碗も手に取った。
*
妻と娘がいなくなった家で、直樹は朝、二度寝しかけた。
台所から物音がしなかった。食器の音も、花を急かす声もなく、時計を見てようやく体を起こした。
冷蔵庫には食材が残っていたが、すぐ口に入れられるものは少なかった。
遥に電話をしようとして、やめた。
昨夜も、帰るように言っている途中で切られた。こちらが何度頼んでも同じことしか言わない。
それでも、いつまでもよその家にいるわけにはいかないだろう。仕事が増えないのなら、暮らしの見通しだって立たないはずだ。
少し冷静になれば帰ってくる。
そう考えて出社した直樹を、営業部長の三浦が会議室へ呼んだ。
机の上には、見覚えのあるメールが置かれていた。
その横に、取引先本部から届いた照会がある。
「先方の本部から、確認が来ている。どういう話になってるんだ?」
直樹は椅子に座ったまま、書類を見た。
「妻のことで、店長に少し相談をしていまして」
「相談?」
「家庭で、ちょっと問題がありまして。今は勤務を増やす時じゃないと、伝えただけなんです」
三浦はメールを直樹の前へ寄せた。
「これは、君が送ったんだな」
「はい」
「特売への協力を見直すと書いてあるけど、誰に確認した?」
直樹は書面から目を上げた。
「それは……店長に、分かってもらうためで」
「会社として、そういう話はしていないよな」
答えられなかった。
メールを打ったときには、それほど長い文章ではないと思った。店長が読めば意味が分かり、勤務の話を止めれば済む。
いま机に載っている同じ一文は、その説明では収まらないものに見えた。
「奥さんの勤務と、うちの特売協力を、どうして一緒にしたんだ?」
「こちらの事情も、少しは聞いてもらいたかったんです。今まで、ずっと協力してきた先ですし」
「だから、協力をやめると言ったのか」
「実際にやめるつもりはありませんでした」
三浦は、もう一枚の紙を寄せた。
「先方は、そうは受け取っていない。会社としての方針だと言われたと、記録も来ている」
店舗側が残した電話の記録だった。
御社として決まった話かと聞かれ、自分がどう答えたか。直樹は覚えていた。
「そんな、本部にまで……」
「こちらでも確認する。それまで、先方への個別の連絡は控えてくれ」
「私から店長に説明すれば、分かってもらえます」
「今は、私が窓口になる。君からは連絡しないように」
もう一度言おうとして、三浦の顔を見てやめた。
何年も自分が担当してきた店なのに、その店へ連絡することさえ止められた。
「……はい」
*
会議室を出たあと、直樹は人のいない廊下へ向かった。
遥の名前を押す。数回の呼び出しのあと、声が聞こえた。
「お前、店に何を言ったんだよ」
遥は少し黙った。
「勤務を増やしたいのは私の希望だって。夫から連絡があっても、私に確認してほしいって言ったよ」
「先方の本部から、うちの部長に連絡が来たぞ」
「店長、会社に確認してるって言ってた」
「何で止めなかったんだよ」
自分の声が廊下に響いた。
「……何を?」
「こんな大ごとにすることないだろ。お前がシフトを増やさないって言えば、それで済むんだよ」
「私、増やしたいって何度も言ったよ」
直樹は壁の時計を見た。
こんな話をしている間にも、営業部では仕事が進んでいる。いつもなら自分に回ってくる取引先の確認が、今日は部長のところへ行く。
「俺の立場がどうなるか、分かってんのか」
電話の向こうで、遥が息を吸った。
「私が仕事に行けなくなるのは、よかったの?」
「それとこれとは――」
「違うって言うんだね」
続きを遮られ、直樹は口を閉じた。
自分は、家族が暮らせるだけ稼いでいる。遥は今の勤務のままでもいい。そう説明しようとしたが、さっき三浦に聞かれた言葉が頭に残っていた。
誰に確認した。
遥に確認したところで、同じ返事しか来ない。それは、もう分かっていた。
だから店長に頼んだのだ。
「……もういい」
電話を切った。
画面が暗くなっても、直樹はしばらくその場を動けなかった。
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