インスタ夫の処刑日~私を悪者にして「いいね」を集めた夫の末路~   作:桐山さくらこ

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あなたの投稿では

数日後、美咲は休憩室で理恵に声を掛けた。

 

「少し、読んでもらえますか。私が書いたものなんです」

「藤沢さんが?」

 

 理恵は差し出されたスマホを受け取り、一行目を読んだ。

 顔を上げる。

 

「……あの奥さんって、藤沢さん?」

「はい」

 

 由紀には話していた。

 理恵には、まだ直接伝えていなかった。夫の写真や投稿から知る前に、できれば自分の言葉を読んでもらいたかった。

 

 理恵は両手でスマホを持った。

 途中で、指が止まった。

 

『職場の休憩室で、私はその投稿を見せてもらいました』

 

 美咲は、相手を責める文章にはしなかった。

 それでも、そこで何も言えなくなった自分を、省くことはできなかった。

 

「……私、あなたの目の前で、あんなこと」

 

 理恵がスマホを返した。

 

「ごめんね。知らなかった。本当に、ごめんなさい」

 

 美咲は湯飲みを両手で包んだ。

 知らなかった。それは本当だろう。

 でも、あの日の言葉がつらくなかったことにはならない。

 すぐ気にしていないと笑わずに、少し間を置いた。

 

「読んでくれて、ありがとうございます」

 

 由紀が、隣の椅子を引いた。

 

「二人とも、こっちおいで。お弁当、食べよう」

 

 三人の前に、弁当箱が並んだ。

 美咲は卵焼きを一切れ、口に運んだ。

 冷めた卵焼きは、自分が朝につけた味がした。

 

*

 

 その後も、美咲は少しずつ書いた。

 夫のことを書かない日もあった。莉子のことを詳しく載せない日もあった。

 

『今日は、仕事中にスマホを気にせずにいられた』

 

 その短い文章に、返事が来た。

 

『こういう日が来たって聞けて、うれしいです』

 

 美咲は画面を見て、少し笑った。

 何かひどい出来事が起こらなくても、書いていいらしかった。

 

 数週間後、編集者を名乗る森川沙織から連絡が届いた。

 投稿を読んだこと、経験を連載として書いてもらえないかということ。原稿料を含め、条件を相談したいとあった。

 

「私に……?」

 

 食卓の向かいで、健太が顔を上げた。

 

「何?」

「連載にしませんかって。編集の方から」

 

 画面を向けると、健太は金額の記載がないか探すように読んだ。

 

「お金、出るんだ」

「うん」

「やるの?」

 

 美咲は、開いたノートを見た。

 何度も消した跡がある。最初の一行は、今も娘が金賞を取った日の話だった。

 

「……やってみたい」

 

 怖さは残っていた。

 けれど、その返事をするために、夫のうなずきを待つことはなかった。

 

*

 

 森川との最初の打ち合わせで、美咲は用意したメモを何度も見た。

 

 どこまで家族のことを書くのか。

 娘の名前や顔を出さずに書けるのか。

 仕事と子育てをしながら、どのくらいの頻度なら続けられるのか。

 

 聞いておきたいことばかりだった。

 森川は急がせず、一つずつ確認してくれた。

 

「娘さんが話題になるための連載にはしたくないんですね」

「はい。私がどうだったかを、書きたいです」

 

 言ってから、美咲は少し落ち着いた。

 これだけは最初に伝えたいと決めていた。

 

 原稿料と掲載回数、締切の目安を聞いた。

 その場で何でもできますとは言わず、一度持ち帰った。カレンダーを開き、パートの勤務と莉子の予定の間に、書ける時間を探した。

 

 それから、引き受けたいと返事を送った。

 

 最初の原稿は、何度も直した。

 書けば伝わると思っていた箇所に、森川から質問が戻ってきた。

 

『写真を見て、何に気づきましたか』

 

 美咲は原稿を机に広げた。

 家の工作だと分かった、と書いていた。けれど、読者はまだ、莉子の作品を見たことがない。

 

「星の形が、気になったんだよね……」

 

 観覧車を見に行った。

 一つだけ角の短い星が、今も輪の上についている。

 

 星を切り直した日のことを書き足した。

 お好み焼きについても、ハート形だったことだけでなく、右上の丸みが崩れていたことを書いた。

 自分には当たり前に見えているものを、知らない人へ渡すには、もう一度見直す必要があった。

 

 何も起こらない一晩の方が、書くのが難しいことも知った。

 夫の声を聞いて怖くなった、と書いたあと、どんな声だったのかと聞かれた。

 

 いつもと同じ声だった。

 

 そう書き直したとき、ようやく自分でも、怖かった理由が分かった。

 

「ママ、音読、聞いて」

 

 莉子が国語の教科書を持ってきた。

 

「あ……ごめん。あと少しだけ」

 

 返事をしてから、美咲は顔を上げた。

 娘は開いた教科書を両手で抱えていた。その姿を見て、急に申し訳なくなった。

 

 健太が椅子を寄せた。

 

「今日はパパが聞くよ」

「ここからだよ」

 

 莉子が最初の行を指した。

 健太は音読カードを手元へ引き寄せた。

 

「あさ、ことりが、まどに、きました」

 

 娘の声が居間に響いた。

 美咲は健太を見た。

 

「……ありがとう」

 

 頼らなければ間に合わない。

 頼れば、また何か書かれるのではないか。

 その不安は、すぐには消えなかった。

 

 それでも、美咲は机へ戻った。

 莉子の母親でいることと、一人で全部を引き受けることを、同じにしたくなかった。

 

*

 

 締切の日、夕食を作った健太が言った。

 

「ご飯、作ったから」

「ありがとう。あと、片づけもお願いしていい?」

「え、そこも?」

 

 流しには、使った食器とフライパンが残っていた。

 健太にとっては、料理を出したところで今日の担当が終わったのだろう。

 

「今日、原稿を送らないといけないの」

「……分かった」

「明日は私が夕飯をやるから」

 

 健太はスポンジを手にした。

 美咲は席を立たなかった。

 

 これまでなら、もう自分で洗ってしまったかもしれない。

 その方が早いと思いながら、自分の用事を後回しにして。

 今日は、原稿へ戻った。

 

 送信を終えたときには、肩が固まっていた。

 少し遅れて、森川から受け取りの連絡が来た。

 

『ありがとうございました。今回の最後の場面、よく伝わりました』

 

 美咲は短い返事を書いた。

 うれしかった。

 たくさんの人に見られた数字より先に、約束したものを届けられたことに、ほっとしていた。

 

 打ち合わせをし、直し、次の原稿を書く。

 書く気になれない日には、ノートに短く残すだけにした。

 うまくいかない回もあった。美咲が読み返して削った文章も、森川に待ってもらった日もあった。

 

 少しずつ、頼まれる仕事が増えた。

 連載をまとめて本にする話が決まってからも、終わりではなかった。最初に書いた文章を、何度も読み直す時間が続いた。

 

 健太とは、相変わらず同じ家にいた。

 それをもって夫婦が元に戻ったのだとは、誰にも書かなかった。

 今日できたことと、まだできないことを、区別して暮らしていた。

 

*

 

 半年後、机の上に、本の見本が届いた。

 

 書名は『私の話を、私の言葉で』。

 

 美咲は表紙に触れ、最初のページを開いた。

 娘が賞状を持って帰った日が、活字になっていた。

 

 隣で健太が見ていたのは、家計のノートだった。

 

「今月、こんなに入ったの?」

 

 美咲の欄には、原稿料と書籍分を合わせて三十八万円。

 健太の欄には、三十二万円とある。

 

「本の分も入ったから」

「俺の給料より……」

「毎月同じじゃないよ。でも、続けて頼んでもらえる仕事は増えた」

 

 健太はノートを閉じた。

 今度はスマホで、美咲のアカウントを開いていた。

 

「三十四万……」

 

 美咲は森川からの連絡を確かめていた。

 次の打ち合わせは、日曜日の午後二時。

 カレンダーに入れて、資料を用意する時間を考える。

 

「俺、三十万で止まったのに」

「え?」

「……何でもない」

 

 健太は画面を伏せた。

 美咲は聞き返さなかった。

 

 その夕方、莉子が新しい工作を持ってきた。

 

「ママ、できた!」

 

 小さな紙の家だった。

 前側の壁がなく、部屋の中が見える。中央には、三人分の椅子を並べたテーブルがあった。

 

「おうち?」

「うん。こっち、ママのお仕事する机」

 

 隅に、小さな机と、紙を折ったノートが置いてある。

 美咲は身をかがめた。

 

「私のも、作ってくれたの?」

「ここで書いてるから」

 

 莉子にとっては、説明するほどでもないことらしかった。

 美咲が机に向かう時間も、この家の中にある。

 娘はそれを見て、紙の家に入れてくれた。

 

「……ありがとう。うれしい」

 

 両手で持ち上げると、紙の机が少し揺れた。

 美咲はすぐに水平へ戻した。

 

「観覧車の隣に置いていい?」

「うん」

 

 莉子がテレビ台へ運んだ。

 青い星のある観覧車の隣に、新しい家が並ぶ。

 美咲はその前に立ち、しばらく見ていた。

 

*

 

 日曜の午後、美咲は打ち合わせの資料を鞄に入れた。

 ページが揃っていることを確かめ、玄関へ向かう。

 

「今日は夕飯と、娘のお風呂をお願いね」

「洗濯も、まだあるんだけど……」

「うん。私、帰ったら畳むね」

 

 健太の足元には、洗う前の衣類が入ったかごがあった。

 流しには皿と鍋が残っている。

 美咲は帰宅後の予定を考え、鞄の持ち手を握り直した。

 

「夕飯と風呂と洗濯か……」

 

 健太が、かごと流しを見比べた。

 一つ終えても、別の仕事が待っている。見栄えのいい皿を一枚撮れば済むわけではない。

 

 美咲は夫を振り返った。

 

「あなたの投稿では、いつも一人でやってたよね?」

 

 健太の口が、わずかに開いた。

 

 けれど、言葉は出てこなかった。




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