インスタ夫の処刑日~私を悪者にして「いいね」を集めた夫の末路~ 作:桐山さくらこ
数日後、友人の松井奈緒から連絡が来た。
『日曜、こっちに帰るよ。久しぶりにランチしない?』
美咲は休憩室で画面を見ながら、返信を書きかけた。
『会いたいけど、日曜日は莉子が』
そこで止まる。
奈緒と最後にゆっくり話したのが、いつだったか思い出せなかった。買い物の途中で会うのとは違う、座ってお茶を飲んで、話の続きを急がずに済む時間。
断る前に、一度聞いてみてもいいのではないか。
『奈緒が日曜に帰ってくるんだって。お昼、誘われたんだけど』
健太へのメッセージは、すぐ既読になった。
『日曜、行っておいで』
『いいの? 休みの日なのに』
『莉子は俺と遊んでるから。たまにはゆっくりしておいで』
美咲は、息を吐いた。
お昼を作っておこうかと尋ねても、二人で作るから大丈夫だという。
奈緒への返信を消して、書き直した。
『会いたい。何時にする?』
日曜の朝、美咲が玄関で靴を履くと、莉子がハートを描くように両手を動かした。
「パパとお好み焼き作る!」
「そうなの?」
「丸くなるかは分からないけどな」
「ハートにするの」
健太が困ったように笑った。
美咲も笑い、バッグを肩に掛ける。
「お昼、本当に大丈夫?」
「大丈夫だって。何かあったら連絡する」
「帰ったら聞かせてね」
「時間、気にしなくていいから」
扉を閉める前、莉子がもう一度手を振った。
奈緒とは、話が尽きなかった。
昔よく行った店のこと。共通の友人のこと。今の仕事の、誰に聞かせるほどでもない失敗のこと。
美咲がふとスマホを見ると、奈緒は「大丈夫?」と聞いた。夫に任せてきたのだと答えながら、美咲は少し誇らしかった。
夕方、食卓には白い皿が一枚、取り分けてあった。
「ママの分!」
莉子が指したお好み焼きは、ちゃんとハート形をしていた。
右上の丸い部分だけ、少し欠けている。
「わあ、ちゃんとハートだ」
「パパが早く返そうとしたから、ここ、崩れたの」
「ごめん、ごめん」
「二人ともありがとう。うれしい」
健太は向かいに座り、奈緒の様子を尋ねた。
「話、全然尽きなくて」
「よかったじゃん。また会えばいいよ」
美咲はうなずいて、お好み焼きを切った。
久しぶりに外で過ごした時間も、帰ってから聞く娘の声も、どちらも自分の暮らしにあっていいのだと思えた。
*
翌日の休憩室で、由紀が言った。
「あのパパ、昨日も大変だったみたい」
美咲はペットボトルの蓋に手を掛けたまま、顔を上げた。
「また奥さん?」
「子どもを置いて、一日遊びに行っちゃったんだって」
「昨日……ですか」
「うん。休みの日まで一人で全部」
差し出された画面に、白い皿が写っていた。
ハート形のお好み焼き。右上の丸い部分が、欠けている。
『妻は友達と遊びに。残された娘と昼食作り。ハート形にしたいというので挑戦したけど、片方が崩れてしまった』
星だけなら、まだ別の誰かの作品だと言えた。
でも、この欠けたハートを、美咲は昨日食べている。
「ちゃんと娘さんの希望を聞くんだね」
「こんなにやってくれる旦那さん、なかなかいないよ」
蓋を握った手に力が入った。
開けようとしていたのか、閉めようとしていたのか、分からなくなった。
「その投稿……私にも、送ってもらえますか」
「うん。ちょっと待ってね」
由紀から届いたリンクを、美咲は開かなかった。
仕事中に読めば、もう立っていられない気がした。
深夜、隣で健太が眠ってから、ようやく画面に触れた。
『パパの休憩室』
フォロワー、三十万人。
見間違いかと思い、数え直した。
こんなに多くの人が、夫の書いた妻を知っている。
写真を一枚ずつ開く。
白いタオル。莉子の体操服。見慣れた流しと、重ねて置いた茶碗。
『夕飯、風呂、洗濯。今日も全部、俺一人。妻はソファでスマホを見ている』
その体操服を畳んだのは、美咲だった。
袖を内側に折り、学校で使いやすいように袋へ入れる前の写真。自分が少し席を外した間に撮ったのだろうか。
『奥さん、結婚に向いてないんじゃない?』
『よその家庭のことは分からないけど、これはひどい』
画面を閉じて、夫とのやり取りを開いた。
『日曜、行っておいで』
『たまにはゆっくりしておいで』
何度読んでも、同じ言葉が並んでいる。
美咲は昨日の自分を思い出した。奈緒に夫の話をしたときの、少し得意になった自分を。
「ねえ……」
「ん……?」
声を掛けた途端、胸が詰まった。
何を聞けばいいのだろう。
これを書いたの、と聞くのか。
私のことが嫌いなの、と聞くのか。
「……何でもない」
「寒い? 布団、取っちゃってた?」
健太は目を閉じたまま、美咲の肩まで布団を掛けた。
その手つきも、いつもと同じだった。
翌晩、食器を運ぶ美咲に、夫はまた言った。
「置いといて。俺が洗うから」
「いいよ。私がやる」
「昨日、あんまり寝てないんじゃない?」
「そんなことないよ」
「目、赤いぞ」
美咲は盆を抱え直した。
洗ってもらったら、今夜もまた、自分は何もしない妻になるのだろうか。
「ちょっと、スマホ見すぎたかも」
「珍しいね」
夫のスマホは、食卓の端にあった。
美咲はその横を通るとき、自分でも気づかないうちに、盆で顔を隠すようにしていた。
*
「パパ、これ取れそう」
莉子に呼ばれて、健太がテレビ台の前へ行った。
観覧車の青い星が、斜めに下を向いている。片端だけが紙の輪につながっていた。
「ここ。触ってないのに、下がっちゃう」
「のりが取れてるだけだよ。直しておく」
「ほんと?」
「乾くまで触らなければ、ちゃんと付く」
美咲は廊下から、そのやり取りを見ていた。
あのアカウントを知ってから、夫を見る時間が増えた。何かを確かめようとしているのに、優しいところばかりが目に入り、そのたびに何も言えなくなった。
「もう寝る時間だよ」
「明日の朝、見てもいい?」
「うん。それまでは触らない約束」
莉子は何度も振り返りながら、寝室へ向かった。
布団に入っても、まだ星が気になるらしい。
「落ちちゃわない?」
「パパが直してくれるって」
「うん」
美咲は娘の髪を撫でた。
目を閉じた顔を見ながら、自分も今は同じように信じられたらと思った。
廊下へ戻ると、小さな作業机のある部屋に明かりがついていた。
健太の背中が見える。手元にあるのは、観覧車だった。
少し見るだけ。
のりをつけているところを見れば、安心できる。
そう思って近づいた美咲は、入口で足を止めた。
机の横に、ゴミ箱があった。
白い紙くずの中へ、観覧車が差し込まれている。
健太はスマホを構えていた。
小さな撮影音がした。
画面を確かめ、健太が手を伸ばす。青い星の手前に引っかかっていた赤い折り紙を押さえた。作品を取り出すためではなかった。
紙くずが、星の一部を隠す。
もう一度、撮影音がした。
美咲は壁に手をついた。
何をしているの、と声にすればいい。それだけで済むはずなのに、息が喉の手前で止まっていた。
夫は、写真を撮り直している。
娘が明日の朝を楽しみにしている、その作品を使って。
健太がようやく観覧車を取り出した。
こちらを向く前に、美咲は廊下から離れた。寝室へ入り、ベッドの端に座る。指先が冷たく、スマホを持つ手に力が入らなかった。
隣の部屋で小さな物音がした。
廊下を歩く音がして、やがて家の中が静かになった。
美咲は『パパの休憩室』を開いた。
『また捨てられていた。娘が寝てからでよかった。今度こそ、見つからない場所に置いておこう』
新しい写真には、赤い折り紙があった。
さっき夫が押さえた位置で、青い星の前に重なっている。
『何度もひどすぎる』
『そんな母親から、娘さんを守ってあげてください』
涙が一粒、スマホを持つ手に落ちた。
自分は今、寝室で座っている。ただ、それだけなのに。
画面の中では、また娘の作品を捨てたことになっていた。
美咲は投稿を保存した。
何のために、と考える余裕はなかった。消えてしまったら、自分が見たものまで分からなくなりそうだった。
「まだ起きてたんだ」
入口に健太が立っていた。
美咲はスマホを膝に伏せた。
「直ったよ。明日の朝、喜ぶかな」
「そうだね」
「どうした? 泣いてる?」
「目が、痛くて」
「だから、あんまり見すぎるなって」
健太が隣に座り、美咲の肩に手を置いた。
美咲はその指から目を離せなかった。
この手が、赤い紙を押さえていた。
娘の宝物が、もっと捨てられたものらしく見えるように。
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