インスタ夫の処刑日~私を悪者にして「いいね」を集めた夫の末路~ 作:桐山さくらこ
翌朝、莉子は観覧車の前で歓声を上げた。
「パパ、取れなくなってる!」
「よかった。もう引っ張るなよ」
「うん。ありがとう!」
「大事にしような」
美咲は弁当箱に布を掛けようとしていた。
「ママ?」
「何?」
「蓋、まだだよ」
手元を見ると、おかずがむき出しになっている。
莉子に眠いのかと聞かれ、少しだけとうなずいた。
娘が出かけてから、美咲は夫の前に弁当を置いた。
「健太、今夜、話したいことがあるの」
「何?」
「莉子が寝てから」
「今じゃ駄目?」
「ちゃんと、話したいから」
健太は一度時計を見て、分かったと言った。
美咲はその返事を聞くまで、椅子の背を握った手を離せなかった。
その夜、テレビを消して向かい合った。
夫の顔を見るより先に、美咲は写真を差し出した。
「この写真、昨日あなたが撮ってたよね」
健太の視線が止まった。
「私、見てたの」
「……部屋に来てたの?」
「入口にいたよ。工作、直してくれてると思って」
「違うんだ。これは」
「何が違うの?」
健太は口を開け、そのまま閉じた。
少しして、ごめん、と言った。
別の投稿を見せる。洗濯物の写真。全部一人でやっている、と書かれた文章。
「これも、あなたが書いたの?」
「……うん」
「私のこと、そんなふうに思ってたの?」
「思ってないよ」
「何もやらないって。娘のことも、大事にしてないって」
「本気で書いてるわけじゃないんだって」
美咲は、膝の上で両手を重ねた。
「じゃあ、どうして?」
「投稿のために、ちょっと大げさに……」
「私、捨ててないよ」
「分かってる」
分かっている。
それを聞いて、胸のどこかが一度、軽くなった。
嫌われていたのではなかった。
けれど、その軽さはすぐに消えた。
分かっていて、書いたのだ。
「最初の写真も、あなたが入れたの?」
健太は答えなかった。
「金賞を取って、三人で喜んだよね」
「喜んだよ。俺だって」
「それを、ゴミ箱に入れたの?」
「すぐ戻した。汚れてないし、莉子も知らない」
「そういうことじゃない」
涙が出た。
泣かずに話そうと、昼間から何度も言葉を考えていたのに、肝心のときには役に立たなかった。
「私は、あなたに聞くのも怖かった」
「俺に?」
「本当に嫌われてたら、どうしようって」
健太が椅子から下り、美咲のそばに膝をついた。
「嫌ってない。そんなわけないだろ」
「……じゃあ、あの人たちにも、そう言って」
夫の手が止まった。
美咲はコメント欄を開いた。
ひどい妻。娘を守って。母親失格。
夫に聞いてほしかった言葉を、ようやく口にする。
「これを書いた人たちに。私が捨てたんじゃないって」
「え……今すぐ?」
「うん。本当のことを書いて」
「ちょっと、説明の仕方を考えさせて」
美咲は夫を見た。
ゴミ箱に入れたのが誰なのか。それほど説明の難しいことだろうか。
「今も、みんな信じてるよ」
「分かってる。だから、ちゃんと考える」
「お願い。絶対、あのままにしないでね」
許すとも、終わったとも、美咲は言わなかった。
その夜、夫と交わした約束は、ただ一つだった。
娘の作品を捨てたのは妻ではない。
その事実を、夫自身の言葉で伝えてもらうことだった。
*
妻が娘の作品を捨てたというのは、嘘でした。
健太はそこまで入力し、親指を止めた。
送信するだけだった。美咲の前では出なかった一文が、一人になるとあっさり書けた。それなのに、画面の下のボタンには触れられなかった。
通知が一つ増えた。
『娘さんには、お父さんがいてよかった』
その下には、ずっと応援しています、という言葉がある。
健太は投稿作成画面を閉じた。
この人たちが、自分をどう見るようになるのか。
想像すると、腹の底が冷えた。
*
八か月前、最初に載せた朝食の写真には、少し焦げた卵焼きが写っていた。
「こっち、黒い」
「ちょっと焼きすぎたな」
「そこ、私がもらうよ」
「いいって。俺が食べる」
美咲が伸ばした箸より先に、健太は焦げた一切れを取った。
莉子は黄色いところを口に入れ、うなずいた。
「黄色いとこ、おいしいよ」
「本当? よかった」
写真を撮ろうとすると、美咲が笑った。
「じゃあ、焦げてない方から撮れば?」
「そうする」
朝の光が当たる方へ皿を寄せた。
娘に褒められたことを、そのまま残したかった。
『今日は俺が朝食担当。娘がおいしいと言ってくれたので、成功ということで』
通勤電車で投稿を開くと、「いいね」は三件だった。
少し待ってから見直した。三件のままだった。
似たような写真を載せた、別の人の投稿も目に入る。
卵焼きとおにぎり。その下には、三千二百件。
何が違うのだろう。
写真の角度か。文章が短すぎたのか。
仕事中も、そんなことを考えた。莉子が褒めてくれた朝食なのに、画面で見ると、物足りないものに思えた。
ある休日、風呂掃除を終えると、娘に工作を手伝ってほしいと呼ばれた。
「パパ、この耳、どこに貼るの?」
「ちょっと待って。手が濡れてる」
「ママが見るよ。貸して」
美咲の足元には、洗い上がった衣類のかごがあった。
猫の顔を描いた紙皿を押さえ、娘に貼る位置を教えている。
健太は椅子に座り、スマホを開いた。
『休みの日も風呂掃除。やっと座れたと思ったら、娘の工作のお手伝い。パパに休憩はないらしい』
風呂を洗ったのも、工作を頼まれたのも、本当だった。
すぐにコメントがついた。
『お疲れさまです。奥さんは何をしているんですか?』
健太は返信を書いた。
妻も洗濯とか夕飯を。
そこまで打ったところで、新しいコメントが届いた。
『旦那さんがここまでやってくれるなんて、うらやましい』
『少しは休ませてあげてほしい』
顔を上げると、美咲と莉子が向かい合っていた。
娘の小さな指が、のりのついた紙の耳を押さえている。
「もう少し上。そう、そこ」
「押さえててね」
健太は書きかけの返信を消した。
『ありがとうございます。そう言ってもらえるだけで救われます』
嘘をついたわけではない、と、そのときは思った。
大変ですねと言われ、ありがとうと返しただけだ。
「いいね」は三十件になった。
前の十倍だった。
「お茶、飲む?」
「あ、うん」
美咲が置いた湯飲みを、健太は笑顔で受け取った。
妻に何もしない人間でいてほしいわけではなかった。今日もよくやったと、もう少し言ってもらえたら、それでよかった。
数日後には、その「もう少し」が変わっていた。
『夕飯、風呂、洗濯。今日も全部、俺一人。妻はソファから動こうとしない』
隣で、美咲が洗濯物を畳んでいた。
確かに、ソファからは動いていない。
全部は、言いすぎか。
そう思って文章を読み返した。
けれど「分担して」に直すと、何の変哲もない一日になる。そこに誰が足を止めてくれるだろう。
健太は投稿した。
翌朝の電車で、通知が画面を埋めた。
『娘さんのために頑張っていて、本当に立派』
『私なら毎日ありがとうって言います』
「いいね」は三百件になっていた。
また十倍だった。
美咲も、ありがとうと言っている。
そのことが頭をよぎったが、健太は返信を続けた。
料理だけの写真より、疲れたという文章の方が読まれた。
疲れたという文章より、妻に何もしてもらえないという文章の方が、長い返事をもらえた。
やがて、名前を変えた。
『パパの休憩室』。
ここなら自分を気遣ってくれる人がいる。家では言えない話をしているだけだと、健太は思うようになった。
莉子と絵合わせのカードを並べていても、通知が来れば目が逸れた。
「パパ、次だよ」
「ん? ……これ?」
「それ、さっきもめくったよ。バナナだった」
指を置いたカードを戻す。
「何見てるの?」
「趣味の仲間が増えてさ」
「そうなんだ。よかったね」
美咲は疑わなかった。
フォロワーが五万人になった画面を、健太は見せなかった。
名前も顔も出していない。
家でちゃんとやっていれば、問題はない。
美咲が食事を作れば、食後の皿を洗った。
娘に呼ばれれば、できるだけ応じた。
それらは同時に、ネットで少し大げさなことを書いてもいい理由になっていった。
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