インスタ夫の処刑日~私を悪者にして「いいね」を集めた夫の末路~ 作:桐山さくらこ
莉子が金賞を取った夜も、最初の投稿は嘘ではなかった。
『娘の作品が金賞に。何度も作り直した甲斐があったな』
観覧車を見て、本当にうれしかった。
自分の雑誌をどけたことも、美咲と笑ったことも、娘を褒めたことも、全部本当だった。
『奥さんも、褒めてくれましたか?』
健太は「妻も喜んで」と入力した。
だが、続けて届いた言葉に、また手が止まった。
『奥さんに邪魔とか言われないか心配。大事にしてあげてほしい』
妻も喜んでいた。
そう答えたら、この人たちは安心するだろう。
そして、それで話が終わる。
健太は観覧車を持ち上げた。
大きな座席に三人の人形が並んでいる。娘が一緒に乗りたいと言って作ったものだった。
作業部屋のゴミ箱には、紙くずしか入っていなかった。
健太は一度、手を引いた。
これは、さすがに。
スマホが震えた。
『パパさんが守ってあげてください』
健太は箱の内側を見直した。
食べ残しも水気もない。撮ったら、すぐ戻せばいい。娘が起きる前に、元の場所へ。
観覧車を入れると、青い星が紙くずに触れた。
撮影音が、静かな部屋に響いた。
その写真には、四万二千件の「いいね」がついた。
千件を超えるコメントが、娘を救った父親を褒めた。
健太は、その夜のどの写真よりも長く、ゴミ箱の写真を眺めた。
*
現在の居間で、健太は投稿の下書きを開き直した。
妻が娘の作品を捨てたというのは、嘘でした。
三十万人。
積み上がった数字を、そんな一文でなくしたくなかった。
投稿をやめれば、美咲も少しは落ち着くだろう。
今は何も足さない方がいい。日にちがたてば、娘の工作の話をする人も減る。
健太は一文を消した。
代わりに、別の文章を打った。
『妻にこのアカウントが見つかりました』
それなら嘘ではない。
そう思ったところで、健太は続きを書き始めた。
*
『妻にこのアカウントが見つかりました。家庭のことを考え、しばらく投稿を控えます。心配してくださった皆さん、ありがとうございました』
美咲は、その文章を最後まで読んだ。
その下に続きがあると思って、画面を動かした。
なかった。
『奥さんにやめろと言われたんですか?』
『唯一の居場所まで奪わないであげてほしい』
『パパさんは悪くない。戻ってくるのを待っています』
「……これだけ?」
寝室を出ると、健太がソファに座っていた。
スマホを見せる前に、美咲の顔で分かったらしい。
「見た? しばらく休むことにした」
「私が頼んだのは、そういうことじゃないよ」
「もう投稿しないって書いただろ」
「工作の話は?」
「今ここで蒸し返したら、余計に騒ぎになるよ」
美咲は立ったまま、夫を見下ろした。
「そのままなら、私が捨てたって思われたままでしょ」
「誰も君のことだって知らないじゃないか」
「私の職場でも、見てる人がいる」
健太の表情が変わった。
「……話したの?」
「まだ」
「なら、言わない方がいい。わざわざ自分から」
自分から何も言わなければ、誰も知らない。
夫は、それで解決すると思っているらしい。
「私が黙ってれば、終わりなの?」
「そういう言い方しないでよ。俺だって、やめたんだから」
美咲は昨夜の夫の返事を思い出した。
嫌っていない。そんなわけがない。
あれを聞いて、ほんの少し安心した自分がいた。
「しばらくすれば、みんな忘れるよ」
夫は慰めるつもりで言ったのかもしれない。
美咲は返事をせず、寝室へ戻った。
会話だけでは、違う意味にされる。
そう思って、昼間のうちに送っておいた確認を開いた。
『工作はあなたがゴミ箱に入れて撮った、私は捨てていないと書いてくれるんだよね』
『そう。俺が撮るために入れた。悪かった』
美咲の手の中にだけ、夫の認めた事実が残っていた。
*
翌日の休憩室で、由紀が心配そうに言った。
「あのパパ、投稿休むんだって」
「奥さんに見つかったんでしょ」
「家で大丈夫かねえ」
美咲は弁当箱を開けた。
昨夜の煮物を詰め、卵焼きを焼き、隙間に小さなトマトを入れた。朝は、食べるつもりで作ったのだった。
「こういうとき、余計にきつく当たられたりしない?」
「それが心配だよね」
箸が手から落ちた。
弁当箱の縁に当たり、硬い音がした。
「大丈夫?」
「すみません」
拾おうとして、手が止まった。
夫が心配されるたびに、自分が誰かを苦しめている気がしてくる。事実ではないと分かっているのに、否定する言葉を飲み込むたび、体の中にその話が残った。
「顔色悪いよ。気分、悪い?」
「……少し」
「ちょっと座ってて。売り場、私が先に戻るから」
「大丈夫です。行けます」
「無理して倒れられる方が困るって」
由紀が、美咲のそばへ水のボトルを寄せた。
「あとで大野店長には言っとく」
「……ありがとうございます」
由紀は意地悪な人ではなかった。
むしろ、具合の悪い人を放っておけない人だった。
だからこそ、美咲は怖かった。ひどい妻だと信じているのが、特別に冷たい誰かではないことが。
退勤後、休憩室に由紀が一人でいるのを見つけた。
美咲は入口で一度立ち止まり、エプロンの紐を握り直した。
「少し、聞いてもらってもいいですか」
「うん。体、まだつらい?」
「体じゃなくて」
写真を探す指が、思ったように動かなかった。
ようやく開いたのは、金賞を取った夜の写真だった。
賞状を持つ莉子。隣で笑う健太。
手前には、一つだけ角の短い青い星。
「ああ、これ。前に言ってた工作?」
由紀は笑いかけ、それから黙った。
画面へ少し顔を近づける。
「……え?」
「あの工作、うちの娘のなんです」
言った途端、もう引き返せない気がした。
健太に言われた言葉が浮かぶ。わざわざ自分から。
それでも、美咲は続けた。
「私、捨ててません」
由紀が美咲を見る。
「でも、あの写真」
「夫が入れて、撮ってたんです」
「ご主人が?」
「見たんです。目の前で」
工作を直すと言った夜のことを話した。
娘の星を直すと言って持っていったこと。ゴミ箱に入れたこと。赤い折り紙を押さえて、撮り直していたこと。
由紀は途中で口を挟まなかった。
美咲は夫とのメッセージも見せた。
『そう。俺が撮るために入れた。悪かった』
由紀の指が、机の上で止まった。
「訂正してって頼んだら、あの休止の投稿が出て」
「……うん」
「今度は私が、取り上げたことになってて」
スマホを膝へ下ろした。
証拠を見せるために来たはずなのに、最後まできちんと話せる自信がなくなった。
「どこで何を言われてるのか、もう分からなくて」
由紀が、深く息を吸った。
「ごめん」
「え?」
「知らなかった。私、あなたの前で」
「知らなかったんですから」
「それでも。ごめんね」
何か言おうとして、美咲の口元が歪んだ。
その謝罪を聞きたくて来たわけではなかった。それでも、自分に向けて謝ってくれる人がいることに、こらえていたものがほどけた。
「……もう、聞いてるのがつらくて」
「うん」
「夫には、黙ってれば忘れるって」
「あなたは、忘れられないのにね」
美咲はうつむいた。
机の木目がにじんだ。涙が落ちる前に拭こうとしたけれど、間に合わなかった。
由紀は自分のバッグからティッシュを出し、袋ごと置いてくれた。
「今日は急いで帰らなくても平気?」
「莉子、今は学校の預かりで」
「迎えの時間まで、ここにいようか」
「……はい」
由紀は、今すぐ夫を問い詰めろとも、すぐ別れろとも言わなかった。
ただ向かいに座っていた。
迎えに行く頃には、涙は止まっていた。
何も解決していない。それでも休憩室の扉を出るとき、美咲は朝より深く息を吸えた。
*
夜、娘が寝てから、もう一度休止の投稿を開いた。
やめた方がいい、と分かっていた。
けれど、自分について書かれた嘘を、自分だけが知らずにいることの方が怖かった。
一つのコメントで、指が止まった。
『メッセージを読んで心配しています。これまで頑張ってきたことを全部否定されるのは、つらいですよね』
表示名は、すみれ。
本人らしい顔写真が、小さな丸の中に収まっていた。
美咲は、最初の一文を読み返した。
メッセージを読んで。
みんなが見ている休止の投稿とは別に、この人は夫から何かを聞いている。
過去の投稿にも、同じ名前があった。
『昨日はありがとうございました。少しはゆっくり休んでくださいね』
『こちらこそ。話せてよかったです』
夫の返信を、美咲はしばらく見ていた。
自分が何もかも否定したことになっている、この人との会話では。
すみれのプロフィールを開く。
画面の中の女性は、柔らかく微笑んでいた。
健太は、この人に何を話しているのだろう。
美咲はまだ、それを夫に尋ねるための言葉を持っていなかった。
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