インスタ夫の処刑日~私を悪者にして「いいね」を集めた夫の末路~ 作:桐山さくらこ
美咲があのアカウントを知る、数か月前のことだった。
フォロワーが三十万人になった日、健太は会社の休憩スペースで、画面を見つめていた。
「……三十万」
「何がです?」
隣にいた田辺亮介が顔を上げた。
「いや、何でもない」
「昼、行きません?」
「ああ。先、行ってて」
田辺が離れると、健太はスマホを持ち直した。
誰かに言いたかった。
三十万人もいる。自分が何かを書けば、それだけの人に届くかもしれない。そのことを、顔を見ながら驚いてほしかった。
美咲から連絡が来た。
『明日のお迎え、お願いできる?』
『分かった。行けるよ』
返信して、また自分のプロフィールへ戻る。
ここで妻に数字を見せれば、投稿も見られる。
すごいね、という一言の前に、聞かれたくないことを聞かれるだろう。
そんな頃、すみれという女性からメッセージが届いた。
『いつも投稿を読んでいます。私も、人に頼まれると断れなくて』
『自分の仕事が終わらなくて、毎日残業です。もう疲れちゃって』
いつもの励ましとは違っていた。
彼女の方が、返事を待っている。
健太は上司に相談したかと聞いた。
返ってきたのは、自分が遅いと思われそうで言えていない、という答えだった。
『頼まれた仕事も見せて、どちらを先にすればいいか聞いてみたらどうでしょう』
少し考えてから送った。
会社で後輩に言うのと、それほど違わない。けれど彼女は、何通もお礼を返してきた。
『こんなにちゃんと答えてもらえると思ってませんでした。ありがとうございます』
健太の口元が緩んだ。
「もう寝る?」
「あと少し」
「電気、お願いね」
「うん」
美咲が寝室へ入っても、画面を閉じなかった。
向こうでは、まだ誰かが自分の返事を待っていた。
数日後、すみれはまた、上司に言い出せなかったと報告してきた。
『責められると思うと、言いづらいですよね』
『そうなんです。何から話せばいいか、分からなくなって』
健太の返信を待つ間にも、言葉が続いた。
『一度、直接お話を聞いてもらえませんか』
『すみません。会ったこともないのに、図々しいですよね』
健太は少し迷った。
ネットで知り合った女性と二人で会う。美咲にそのまま言えば、いい顔はしないかもしれない。
ただ、仕事の相談だった。
人目のある店で、一時間くらいなら。
『土曜の午後、一時間くらいなら大丈夫です』
*
高瀬すみれは、カフェの入口に近い席で待っていた。
「すみれさんですか?」
「はい。『パパの休憩室』の?」
「ええ。藤沢健太っていいます」
名乗ると、彼女は姿勢を正した。
思ったより若い、というより、思ったより緊張している人だと思った。
「本当に、来てくれたんですね」
「そんなに驚かなくても」
「だって、三十万人もフォロワーがいる方に、こんな相談……」
健太は向かいに座った。
鞄を椅子の背に掛ける手が、少しゆっくりになった。
「三十万って、何か実感ないんですよ」
「すごいことですよ。私、百人もいないですから」
「……そう言ってもらえると、うれしいですね」
これを聞きたかったのだと、健太は思った。
文字ではなく、向かいにいる人の声で。
すみれは折りたたんだメモを取り出した。
自分の担当の月次集計。ほかの人から頼まれた伝票入力と資料修正。締切は、全部来週の金曜日。
「これ、全部?」
「はい。自分の集計も、まだ途中なんです」
「それは、先に言っておかないと。上司は知らないんでしょう?」
「でも、断れない私が悪いって、言われそうで」
健太はメモをテーブルに置いた。
「手伝わないとは言ってないんだから。どっちからやるか決めてもらえばいいんですよ」
「……そう言えばいいんですね」
すみれが目を伏せた。
涙が浮かんでいることに気づき、健太は慌てた。
「あ……すみません。偉そうに」
「違うんです。怒られると思ってたから」
彼女は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「ちゃんと聞いてもらえて、ほっとしちゃって」
健太はコーヒーに伸ばしかけた手を戻した。
急いで話を終わらせる必要はない気がした。
翌週、上司に相談できたという報告が来た。
頼まれた分は、別の人に振り分けてもらえたという。
『背中を押してくださって、ありがとうございました』
『また何かあれば、いつでも』
返事を送って、健太は満足していた。
実際に人の役に立った。少なくとも、このやり取りに嘘はなかった。
それから二日、すみれから連絡は来なかった。
仕事の悩みがなくなったのなら、いいことだった。
そう思うのに、深夜、通知を確かめている自分に気づいた。投稿には、相変わらずたくさんの反応がついている。
その中に、彼女の名前を探していた。
最後の「また何かあれば、いつでも」を読み返す。
何もなければ、もう返事は来ないのか。
『その後、大丈夫ですか?』
健太は自分から送った。
すぐに既読になった。
『はい! 気にかけてもらえて、うれしいです』
『よかったら、お礼にお茶をごちそうさせてください』
健太は、次の休日の予定を思い出した。
*
二度目のカフェには、飲み物と一緒にケーキが運ばれてきた。
すみれは前よりよく笑った。頼まれた仕事のメモも、今日は持っていなかった。
「今日は、相談じゃないんです」
「それが一番でしょう」
「でも、会いたくて……お礼も、言いたかったから」
健太はフォークを置いた。
「俺も、また話せたらと思ってました」
「本当ですか?」
「うん。投稿のことも、普段は誰にも話せないから」
「奥さんには?」
「興味ないと思うよ」
その返事を、すみれは疑わなかった。
健太が妻にアカウントを隠している理由を、彼女は投稿から知っているつもりでいた。
「私、毎日見てます。昨日のも」
「どうだった?」
「仕事の帰りに読んで、私だけじゃないんだって」
すみれが、健太の方へ顔を上げた。
「今日も頑張ったねって、言いたくなります」
「……それ、今、すごくうれしい」
彼女の言葉を聞いている間は、訂正すべきことが頭に浮かばなかった。
その後も、二人は会った。
最初は近況を聞き、仕事の話をし、店を替えた。そのうち、次の予定を決めてから別れるようになった。
一か月ほどたった日、カフェで美咲から連絡が来た。
『莉子、支度して待ってるよ。何時ごろ帰れそう?』
「ごめん。そろそろ行かないと」
「娘さん?」
「公園に行く約束してて。朝から張り切ってたんだ」
すみれはうなずいた。
けれど、ケーキにはもう手を伸ばさなかった。
「私、もう会わない方がいいですよね」
「え?」
「帰るって言われるのが、嫌になってるんです」
健太は鞄を持ちかけたまま、動けなくなった。
「奥さんも娘さんもいるって、分かってるのに」
「……」
「困らせて、ごめんなさい」
彼女の目に涙があった。
最初に会ったときと同じように、顔をそらしていた。
ここで席を立てばいい。
娘が待っていることを、健太は知っていた。
それでも、鞄から手を離した。
「……俺も、会いたくて来てるよ」
すみれが顔を上げる。
自分の一言を待っていた顔だった。
「相談なんか、もうなくても」
机の上で、美咲のメッセージが表示されたまま、画面だけが暗くなった。
*
公園へは、結局行った。
健太が帰宅すると、莉子は靴を履いたまま待っていた。約束の時間には遅れたが、滑り台も、ブランコも、十分に付き合った。
その夜、娘は食卓で笑っていた。
「パパ、またあの滑り台しようね」
「うん」
「いっぱい遊べてよかったね」
美咲が、莉子の前に茶碗を置く。
「おなか空いたでしょう。おかわり、あるから」
「……ありがとう」
健太のスマホが震えた。
膝の上で開くと、すみれからのメッセージだった。
『帰ってからも、ずっと思い出しています』
目の前で、娘が味噌汁を飲んでいた。
美咲は立ったまま自分の茶碗にご飯をよそっている。
健太は、テーブルの下で返信した。
『俺も。また会いたい』
公園へ連れていった。
夕食の席にもいる。
家族との約束は守っているのだから、という考えが、まだ自分の中に残っていた。
翌週の夜、健太はすみれの部屋の玄関にいた。
「……健太さん、本当に、いいんですか」
すみれが袖をつかんだ。
引き留めているのではなかった。そこにいていいという返事を、彼女も待っていた。
「うん」
健太は靴を脱いだ。
一時間だけ相談を聞いた日と同じ言い訳は、もう使えなかった。
分かっていたが、扉を閉めた。
その後、部屋着姿でソファに並んでいたとき、すみれがスマホを持ち上げた。
「少し、こっち向いて」
健太は彼女の肩に手を回した。
近すぎる顔が画面に収まり、二人で笑った。
「俺、変な顔してない?」
「大丈夫。送りますね」
娘の工作を撮るときと違って、背景を気にする必要もないと思っていた。
公開する写真ではない。二人だけが持っていればいい。
そこへ着信が入った。
美咲、と表示されている。
「ちょっと、ごめん」
健太はソファの端へずれた。
「もしもし。……うん、ごめん。まだ仕事で」
『そっか。夕飯、残してあるからね』
「ありがとう。先に寝てていいよ」
通話を終えると、すみれは膝の上で手を握っていた。
「……普通に、話すんですね」
「心配させても、面倒だから」
「私にも、そうやって嘘ついてるのかなって……」
「何で?」
「今の声、いつもと同じだったから」
健太は彼女の顔を見た。
ここまで来て、そんなことで不安になってほしくなかった。
「お前には、そんなことしないよ」
「……本当に?」
「会いたくなきゃ、ここに来ないって」
すみれの手が、健太の手に重なった。
「信じますよ」
健太はうなずいた。
美咲にも同じ声で話したことは、もう考えなかった。
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