インスタ夫の処刑日~私を悪者にして「いいね」を集めた夫の末路~   作:桐山さくらこ

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玄関に来た「理解者」

八月二十八日、健太は会社を出る前に、美咲へ連絡した。

 

『仕事で遅くなる。夕飯、先に食べてて』

『分かった。何か食べてね』

 

 すみれとの画面へ切り替える。

 

『妻と揉めた。帰ってくるなって言われた』

 

 返信は、すぐに来た。

 

『えっ。今、どこですか?』

『まだ会社の近く』

『うちに来てください。一人でいないで』

 

 ただ会いたいと書くよりも、すみれは熱心に返事をくれた。

 忙しくないか確かめる必要も、遅くなると謝る必要もなかった。傷ついた自分を迎えるために、彼女の方から予定を空けてくれる。

 

 健太は駅へ向かいながら、口元を緩めた。

 

 その夜は雨になった。

 帰ると言うと、すみれは車で送ってくれた。

 

「この辺でいいんですか?」

「あの角の家だから」

「傘、使って」

「助かる。今度、返すよ」

 

 車の扉を閉め、健太は家へ向かった。

 玄関には明かりがついていた。

 

 すみれは運転席から、その家を見ていた。

 帰ってくるなと言った妻が、そこで待っている。家を出ても追いかけてくるわけではなく、健太はまた自分から戻っていく。

 

 ハンドルを握る手に力が入った。

 健太が嫌なことを断れないのは、自分と同じなのだと思った。だからこそ、放っておけなかった。

 

 彼の靴が玄関の中へ消えるまで、すみれは車を出さなかった。

 

*

 

 美咲にアカウントが見つかり、休止のお知らせを出したあとも、健太はすみれとの約束を取り消さなかった。

 

『今までやってきたこと、全部否定された』

 

 届いたその一文を、すみれは何度も読んだ。

 相談を聞いてくれた人。上司に言えず泣いた自分を、責めずに待ってくれた人。

 その人が今、助けを必要としている。

 

 レストランの奥の席で、健太はため息をついた。

 

「もう、ひどいもんだよ」

「何を言われたんですか?」

「今までやってきたこと、全部否定された」

「そんな……」

「あんな嫁、もう嫌だ。離婚したい」

 

 すみれは、箸を置いた。

 

「本当に?」

「そりゃそうだよ。家にいても気が休まらないし」

「それなら、ちゃんと話した方が」

「話が通じる相手なら苦労しないって」

「でも、このままじゃ」

「今日は、その話は忘れたい」

 

 健太の指が、すみれの手に触れた。

 

「俺のことを分かってくれるのは、君だけだよ」

 

 すみれは顔を上げた。

 その言葉がうれしかった。けれど、帰る時刻までの数時間だけ言われることには、もう満足できなくなっていた。

 

「私でよければ、何でも聞きます」

「ありがとう。やっと落ち着いた」

 

 健太は料理へ箸を伸ばした。

 妻と今後どうするのかという話は、それで終わってしまった。

 

「三十万人も待ってるのに。奥さんは、何とも思わないんですか」

「さあね」

「そんなに簡単に、やめさせていいものじゃないのに」

「また、そのうち考えるよ」

 

 健太は一口食べ、皿を彼女の方へ寄せた。

 

「これ、うまいな。食べてみて」

 

 すみれの前の料理は冷めかけていた。

 健太はすっきりした顔をしている。自分に話せてよかったのだろうと、すみれは思おうとした。

 

「明日、午後の休みを取ってるんです」

「明日は無理だな。会社だし」

「夜も?」

「妻がパート休みで、ずっと家にいるから。遅くなったら、またうるさい」

「……奥さん、お休みなんですね」

「そんな顔しないで。また会おう」

 

 すみれはナプキンを膝の上で握った。

 

 離婚したい。

 そう言ったばかりなのに、明日も妻のいる家へ帰る。

 本人が強く言えないのなら、誰かが代わりに話すしかないのではないか。

 

 帰宅すると、健太から連絡が来ていた。

 

『今日はありがとう。君がいてくれてよかった』

 

 すみれは二人で撮った写真を開いた。

 肩を抱く彼の顔が、こちらへ傾いている。

 妻の知っている夫より、自分の知っている健太の方が、本当の彼なのだと信じたかった。

 

 以前、雨の中で送った家の玄関を思い出す。

 

 明日の午後なら、妻が一人でいる。

 

 すみれは翌日の予定を確かめて、スマホを置いた。

 健太には、まだ知らせなかった。止められるかもしれないと思ったからだ。

 

*

 

 昼食を食べ終わったところで、インターホンが鳴った。

 美咲は器を流しに置き、画面をのぞいた。

 

 知らない女性が立っていた。

 髪も服もきちんとしている。荷物の配達でも、近所の人でもなさそうだった。

 

「はい」

『ご主人のことで、お話があります』

「夫は仕事ですけど」

『奥様と、お話したいんです』

 

 美咲は扉を少し開けた。

 女性はスマホを手に、背筋を伸ばして立っていた。

 

「どちら様ですか」

「ご主人と親しくしている者です」

「……親しく?」

「『パパの休憩室』、ご存じですよね」

 

 扉の縁を握る指が固まった。

 職場の人に知られることばかり考えていた。その名前を、自宅の玄関で、知らない人から聞かされるとは思っていなかった。

 

「どうして、あんなことをするんですか」

「どういうことですか」

「あの人から、何もかも取り上げて」

「ちょっと、待ってください」

「ご主人がどれだけ頑張ってきたか、分からないんですか?」

 

 声が少し大きくなった。

 隣家の玄関が見える。美咲は反射的にそちらへ目をやった。

 

「ここで大きな声を出さないでください」

「聞かれたら困るんですか」

「娘も暮らしている家なので」

 

 女性の口が閉じた。

 美咲は扉を握ったまま、深く息を吸った。

 

「夫から、何を聞いたんですか」

「中でなら、聞いてもらえるんですか」

 

 帰ってほしかった。

 けれど、そのまま扉を閉めれば、何をされたと言い出すのだろう。ここでも自分が何かを否定する前に、話だけが広がっていく気がした。

 

 莉子が帰るまでには、まだ時間がある。

 美咲は廊下へ一歩退いた。

 

「……どうぞ。ここで話すのは、やめましょう」

 

 居間のテーブルを挟んで座った。

 女性はバッグを膝に置いたまま、すぐに口を開いた。

 

「私、引き下がるつもりで来たんじゃありません」

 

 何から、と尋ねるより先に、次の言葉が落ちてきた。

 

「ご主人、もう離婚したいと言ってます」

「離婚?」

「私に、言ってくれました」

「あなたに?」

「私しか、分かってくれる人がいないって」

 

 目の前の顔を、美咲は見直した。

 

 見たことがある。

 小さな丸の中で微笑んでいた顔。全部否定されるのはつらい、と夫に書いていた人。

 

「すみれ……さん?」

「そうです」

「コメントしていた」

「コメントだけじゃありません」

 

 すみれがスマホを差し出した。

 テーブルの上を滑ってきた画面に、健太の言葉が並んでいた。

 

『また会いたい。昨日みたいに、ずっと一緒にいたい』

『次は朝までいられますか』

『何とかする』

 

 美咲は、文章を最初から読み直した。

 読む場所を間違えているのかと思った。同じ言葉の並びが、二度目もそこにあった。

 

 すみれが画面を動かす。

 部屋着姿の二人が写った。

 

 健太の手が、彼女の肩を抱いている。

 背後には、家のものではないソファがあった。

 美咲に何か説明しようとするときの顔でも、疲れて帰宅したときの顔でもない。夫はくつろいで、彼女へ体を寄せていた。

 

「……いつからですか」

「え?」

「夫と、いつから付き合ってるんですか」

「……三か月くらい、前からです」

 

 美咲は机の縁に指を置いた。

 何かにつかまっていなければ、座った姿勢も保てない気がした。

 

 三か月。

 その間の休日を、残業の日を、誕生日でも記念日でもない普通の夕食を、頭の中で数えようとした。

 数えられるほど少なくはなかった。

 

 すみれは、美咲の顔を見ていた。

 用意してきた次の言葉が出ないようだった。

 

「でも、健太さん、もう離婚したいって。昨日も、そう言ってました」

「私には、そんなこと……一度も」

「家にいるのがつらいって。帰ってくるなと言われた日も、私が」

「帰ってくるな?」

 

 美咲は顔を上げた。

 

「そんなこと、言ってません」

「でも、ここに」

 

 すみれが別の画面を見せた。

 八月二十八日。

 

『妻と揉めた。帰ってくるなって言われた』

『えっ。今、どこですか?』

『まだ会社の近く』

 

 その日付を、美咲は覚えていたわけではなかった。

 ただ、同じ日なら、自分との会話も残っているはずだった。

 

 スマホを取り、夫とのやり取りを遡る。

 膨大な言葉ではない。迎えに行けるか。何時に帰るか。牛乳がない。そうした短い連絡の中に、八月二十八日があった。

 

『仕事で遅くなる。夕飯、先に食べてて』

『分かった。何か食べてね』




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