インスタ夫の処刑日~私を悪者にして「いいね」を集めた夫の末路~ 作:桐山さくらこ
美咲はスマホを、すみれの隣に置いた。
「私には、仕事だって」
二台の画面が並んだ。
同じ日付。同じ人が送った、違う理由。
すみれの視線が、二つの画面の間を行き来した。
「……そのあと、喧嘩したんじゃ」
「してません。ご飯も、残してました」
美咲は少し下へ動かした。
夜に送った、自分の言葉が出てきた。
『莉子が、パパにも見せたいプリントがあるって。テーブルに置いてあるよ』
帰ってくるなと言った相手へ、こんな連絡をするだろうか。
美咲は尋ねなかった。すみれも何も言わなかった。
あの日の台所が、ようやく思い出せた。
夫の分を皿へ取り分け、乾かないように覆いをかけた。莉子のプリントを、汚れない場所に移した。
何時に帰るか聞くのを、忙しいだろうからとやめた。
「この日、あなたと会ってたんですか」
「……うちに、来ました」
美咲は口元を押さえた。
泣きたくなかった。この人の前では、せめて落ち着いていたかった。
「私、何も知らずに……」
すみれが何か言いかけた。
美咲はティッシュを取り、涙を拭いた。すぐにまた濡れた。
「仕事が大変なんだって、思ってた」
目の前の女性は、美咲に夫を解放させに来たのだ。
帰る場所のない、気の毒な男性を助けるために。
その男性の帰宅を、美咲は何度も待っていた。
翌朝も同じ家から送り出して、働きに行って、また夕飯を作っていた。
テーブルに置かれた二台の画面が暗くなった。
すみれは、自分のスマホを持ち上げなかった。
やがて彼女の視線が、美咲の後ろへ動いた。
「あれ……投稿に出てた、観覧車?」
テレビ台に、青い星があった。
美咲は振り返り、小さくうなずいた。
「娘の作品です」
「ご主人が、隠しておくって」
「ずっと、そこにあります」
「でも、捨てた写真……」
美咲はもう一度スマホを手に取った。
この家には、すみれが信じていたものも、知らなかったものもあった。
ただ、娘の作品を捨てた母親だけは、どこにもいなかった。
*
「その写真のことも、夫と話しました」
美咲は健太とのやり取りを開き、すみれの方へ向けた。
由紀にも見せたのと同じ画面だった。
『工作はあなたがゴミ箱に入れて撮った、私は捨てていないと書いてくれるんだよね』
『そう。俺が撮るために入れた。悪かった』
すみれは顔を寄せ、読み終えても動かなかった。
「……撮るため?」
「私が捨てたんじゃないと、書いてほしかったんです」
口にすると、こんなに短い話だった。
それだけのことが、夫には頼んでも伝わらず、今は知らない女性に説明している。
「それだけ、頼んだんです」
「じゃあ、休止したのは」
「訂正してって頼んだのに、あの投稿だけでした」
すみれの指が、膝の上で固まった。
「全部、否定されたって……」
「全部って、何を?」
「ご主人が頑張ってきたことを」
美咲は彼女を見た。
夫のことを何も分かっていない、と玄関で責めた人だった。なのに、夫がしてきたことの中身を聞くと、自分の言葉では答えられない。
「家でしてくれていることまで、なかったとは言ってません」
「……」
「助かってたし、ありがとうとも言ってました」
風呂を洗う夫も、娘の話を聞く夫もいた。
そのすべてを否定した方が簡単なのかもしれない。最初から何もかも嘘だったと決めつけたら、ここまで迷わずに済んだのかもしれない。
けれど、美咲はそうは思っていなかった。
「でも、私が娘の作品を捨てたことには、してほしくなかった」
テレビ台の観覧車は、二人から見える場所にあった。
この場所を空けてくれた健太と、あれをゴミ箱へ入れた健太は、同じ人だった。
美咲には、そのことがいちばん苦しかった。
「この日も、子どもを押しつけて遊びに行ったって、書いてるでしょう」
ハート形のお好み焼きを見せた。
すみれは小さくうなずいた。何を写した写真か、説明はいらなかった。
「でも、私にはこう言ってたんです」
外出を相談した日の画面に切り替える。
『日曜、行っておいで』
『いいの? 休みの日なのに』
『莉子は俺と遊んでるから。たまにはゆっくりしておいで』
すみれの目に涙が浮かんだ。
「……私には、一日押しつけられたって」
「帰ってからも、楽しかったならよかったって」
「どうして、そんな」
「私が、聞きたいです」
すみれは口を閉じた。
美咲はスマホを自分のそばへ戻した。
相手の目に涙があるからといって、慰める言葉は出てこなかった。
この人は、妻に何を言えば傷つくかを考えずに、夫との写真を差し出したのだ。今度は自分が傷ついたからといって、その痛みまで美咲が引き受けることはできなかった。
「すみません」
すみれが肩をすぼめた。
「奥さんがひどいから、あの人は……」
「だから、付き合ったんですか」
すみれはうつむいた。
その説明の続きを、美咲は待った。
返事はなかった。
「私がひどい妻だったら、それでよかったんですか」
部屋が静かになった。
すみれのスマホはもう光っていなかった。彼女をここまで連れてきた言葉は、どれも画面の中へ消えていた。
「……いいえ」
「今日は、もう帰ってください」
「でも」
「娘が帰ってくる前に、一人にしてください」
今は、何も決められなかった。
夫に何を言うかも、明日どう暮らすかも。
それでも、これ以上ここにいてほしくないということだけは、はっきりしていた。
すみれは立ち上がった。
「本当に、すみませんでした」
美咲は玄関まで送った。
扉が閉まると、その場にしゃがみ込みそうになった。廊下の壁に手を添え、居間まで戻る。
昼食の器が、流しに残っていた。
インターホンが鳴る前の自分は、これを洗おうとしていたのだった。
*
家の外に出たすみれのスマホに、健太から連絡が来ていた。
『昨日はありがとう。今日は何してる?』
その気軽な一文が、美咲の泣いていた顔とどうしてもつながらなかった。
すみれは電話をかけた。
『どうした? 今、長くは話せないんだけど』
「奥さんに会いました」
『……は?』
「今、家に行ってきました」
『何してるんだよ!』
耳から少しスマホを離した。
向こうで誰かの声がして、健太の声が低くなる。
『勝手に、何でそんなこと』
「工作も、帰ってくるなって話も、全部嘘だったんですね」
『待てって。何を聞いたか知らないけど』
「メッセージ、見ました」
『そういうのは、前後があるだろ』
「自分でゴミ箱に入れたって書いてました」
返事が途切れた。
すみれは、この沈黙を聞くまで、まだ何か説明があるのではないかと待っていた。
写真を見れば信じられると思った。文字が残っていれば、本当だと思った。
その両方を作ったのが健太なら、自分は何を確かめたことになるのだろう。
「私にも、ずっと嘘をついてたんだ」
『少し、大げさに言ったことはある。でも、お前のことは』
「それも、同じなんでしょ」
『違うって。夜、会って話そう』
「もう会いません」
『待って』
通話を切った。
手が震えていた。健太の返事を先に聞けば、また自分の言葉を変えてしまいそうだった。
帰宅すると、次々にメッセージが来た。
『落ち着いて。誤解してる』
『二人の話を、外に出さないで』
すみれは、その二通目で顔を上げた。
「外に出さないで……?」
健太は妻の話を、三十万人に向けて書いていた。
してもいないことまで写真にして、何度も。
けれど自分の話になった途端、外に出すなと言う。
すみれは二人で撮った写真を開いた。
ここに写っている自分は、彼が美咲に電話したときも、同じソファに座っていた。
妻に嘘をつく声を、すぐそばで聞いた。
自分にだけはしない、と言われて、信じる方を選んだ。
投稿作成画面を開いた。
写真とメッセージを添付し、一行書いた。
私は彼の嘘を信じていました。
その先が続かなかった。
美咲の声が、頭の中に残っていた。
私がひどい妻だったら、それでよかったんですか。
すみれは唇を噛んだ。
騙されたとだけ書けば、ほかの誰かは慰めてくれるかもしれない。
けれど、既婚者だと知らなかったことにはならない。
彼は既婚者で、私はそれを知っていました。
もう一行、書いた。
送ってしまえば、消したくなっても、誰かの手元には残るだろう。
自分が信じた写真も、そうして届いたものだった。
健太から着信が入った。
すみれは出なかった。
画面の上に、さらにメッセージが重なった。
『頼むから黙ってて。これ以上、話を大きくしたくない』
すみれは投稿の下書きへ戻った。
今度は、「彼は既婚者で」の一行を消さなかった。
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