インスタ夫の処刑日~私を悪者にして「いいね」を集めた夫の末路~   作:桐山さくらこ

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三十万人の前で、顔が出た

すみれが公開した文章は、言い訳から始まってはいなかった。

 

『「パパの休憩室」の男性と、交際していました。彼は既婚者で、私はそれを知っていました』

 

 二人で肩を寄せ合った写真をつけた。

 部屋着の健太の顔には、何も被せなかった。

 

『今日、奥様に会いに行き、彼の言葉を信じて責めました。でも、見せてもらったメッセージは、私に話していたことと全く違いました』

 

 添付したやり取りには、妻に帰ってくるなと言われたという言葉も、二人の話を外に出さないでほしいという言葉もあった。

 

『私にだけは嘘をつかない、と言っていた人です。もう、彼には会いません』

 

 送信後、すみれはしばらく画面を見ていた。

 自分のアカウントだけなら、健太は知らないふりをするかもしれない。気づく人も少ないかもしれない。

 

 すみれは健太の休止のお知らせを開いた。

 つい先日、心配する言葉を書いた場所へ、もう一度コメントを残す。

 

『私との関係と、奥様についての嘘を投稿しました。メッセージと写真も載せています』

 

 それから、スマホを机に置いた。

 やり終えたと思ったのは、ほんの短い間だけだった。

 

*

 

 美咲に知らせたのは、由紀だった。

 

『これ、ご主人だよね。大丈夫?』

 

 送られてきた投稿を開く。

 さっき居間で見せられた、あの写真だった。

 

 健太の顔が、隠されずに出ていた。

 

「……顔まで」

 

 夫の嘘が明らかになった。

 それなら喜べばいいのかもしれない。

 だが、美咲は写真を前に、莉子を知る人がこれを見たらと考えていた。

 

 夫の顔を知る人は、美咲のことも知っているかもしれない。

 娘が学校で、父親について何か聞かれたら。

 

 急いでコメント欄へ目を落とした。

 

『この人、いつもコメントしていた人だ』

『パパさんも、親しく返事してたよね』

『娘の工作を捨てたっていう話も嘘?』

『励ましてたのに。何だったんだろう』

 

 読む間にも、表示が増えていく。

 美咲は、それを止める方法を知らなかった。

 今まで夫が妻について書いてきたことも、こうして届いていたのだ。

 

『既婚だと知って付き合ったのは、この人も同じでは』

 

 その一文を読んでいたとき、玄関が開いた。

 

「ただいま!」

 

 美咲はスマホを伏せた。

 

「おかえり」

「ママ、どうしたの?」

「……ちょっと、目が痛くて」

「スマホ、見すぎ?」

 

 少し前に、健太にも言われた言葉だった。

 莉子はただ心配して、顔をのぞき込んでいる。

 

「そうかもしれないね」

 

 美咲は立ち上がり、娘の水筒を受け取った。

 まだ冷たさの残る水筒を、両手で包む。帰ってきた娘が、ここにいる。

 そのことを確かめるように、莉子の話を聞いた。

 

 すみれの投稿は、美咲の知らないところで出たものだった。

 この日もまた、自分の暮らしについての話が、自分の手の届かない場所で進んでいた。

 

*

 

 すみれの画面にも、コメントが増えていた。

 

『既婚だと知って付き合って、奥さんに文句まで言いに行ったの?』

『だまされたからって、あなたがしたことも消えないよ』

 

 胸が痛んだ。

 健太に嘘をつかれたことを書いたのに、自分まで責められている。

 すみれは反射的に返信を書きかけた。

 

 でも、私は。

 

 そこで手が止まった。

 

 その続きに、何を書くつもりだったのだろう。

 奥さんがひどい人だと思ったから。

 自分だけを好きだと言ってくれたから。

 どちらも、美咲の前では言い終えられなかった言葉だった。

 

 入力欄を空にした。

 スマホを膝に置き、両手で顔を覆う。

 

 健太を信じたことと、自分が選んだことを、同じ一文で済ませることはできなかった。

 

*

 

 翌朝、健太が会社へ入ると、若手の石井拓海と中村航が一台のスマホを見ていた。

 

「これ……」

「声、大きい」

 

 健太に気づいた石井が、スマホを伏せた。

 

「おはよう」

「あ……おはようございます」

 

 それだけのやり取りだった。

 それなのに、健太は席に着いてからも、あの手の動きが気になった。

 

 すみれから返事は来ていない。

 昨夜、何度も頼んだ。せめて写真だけでも消してほしいと。

 彼女の公開投稿には、まだ自分の顔があった。

 

 別の部署の人も見たのだろうか。

 妻を悪く書いていたことまで、読んだのだろうか。

 

 通知を開けば、以前とは違う言葉が続いていた。

 自分を理解してくれるはずだった場所へ、今は怖くて入れない。

 

「藤沢さん、ちょっといいですか」

 

 田辺が机のそばに立った。

 声を抑え、スマホをこちらだけに見せる。

 

「今朝、聞かれて。あれ、藤沢さんですかって」

「誰に」

「別の部署の人です」

「……」

「違うなら、違うって言いますけど」

 

 健太は画面を見なかった。

 

「家のことだから」

「分かりました」

 

 田辺はそれ以上聞かなかった。

 かばってくれるとも、信じているとも言わず、自分の席へ戻った。

 

 昼休みになると、数人が立ち上がった。

 いつもなら健太にも声を掛ける田辺が、今日は出口へ向かった。

 

「じゃあ、行こうか」

 

 健太が顔を上げても、目は合わなかった。

 

 机の上には、買ってきた昼食があった。

 包装を開けようとして、遠くの席から笑い声が聞こえた。

 

 俺のことか。

 

 目を向けると、社員たちはこちらを見ていなかった。

 だが、見ていないことすら、健太には気になった。自分が顔を上げたから逸らしたのかもしれない。

 

 ペットボトルを握る手に力が入った。

 どこまで広まったのか、誰が知っているのか。誰にも聞けなかった。

 

 美咲が、職場でも見ている人がいると言ったことを思い出した。

 あのときは、名前が知られていないなら黙っていればいいと思った。

 自分の写真が出た今は、黙って座っていることさえ苦しかった。

 

 すみれへ、もう一度送った。

 

『会社の人間にも見られてる。写真だけでも消して』

 

 返信は来なかった。

 

 帰宅すると、莉子が今日の出来事を話し始めた。

 健太は聞こうとした。相槌も打った。けれど、娘が話している途中で、膝の上のスマホを確かめてしまった。

 

 夜、莉子の寝室の扉が閉まった。

 美咲は居間で、何もついていないテレビの方を向いていた。

 

 健太には、謝るべきことがいくつもあった。

 彼女が何を見せられたのかも、分かっていた。

 

 それでも、口から最初に出たのは、自分を苦しめていることだった。

 

「何で、あの女を家に入れたんだよ」

 

 美咲が、ゆっくり顔を上げた。

 

*

 

「最初に言うのが、それなの?」

 

 美咲の声は低かった。

 健太は立ったまま、スマホを握っていた。

 

「会社にも広まってる。どうすればいいんだよ」

「私は昨日、あの人が来るまで、不倫してることも知らなかった」

 

 健太の口が閉じた。

 少しして、ごめん、と言った。

 

「三か月前からだって、聞いたよ」

「……うん」

「残業って言ってた日も?」

「……うん」

 

 美咲は膝の上で両手を握った。

 

「ご飯、何度も温め直した」

「悪かった」

「仕事、大変なんだと思ってた」

 

 仕事帰りに、何か食べられただろうか。

 遅い時間に冷たいものを食べさせたくない。

 そんなことを考えていた自分を、もう思い出したくなかった。

 

 健太がそばに膝をついた。

 

「本当に、ごめん」

「今、何に謝ってるの」

「全部だよ」

「私に? 会社で知られたことに?」

「美咲に決まってるだろ。もう会わない」

 

 美咲はスマホを開いた。

 すみれの投稿の末尾を、夫へ見せる。

 

『もう、彼には会いません』

 

「向こうが、会わないと言ってるんでしょう」

 

 健太は何も言わなかった。

 

「まだ、私が何も知らないと思ってる?」

「違う。もう、嘘はつかない」

 

 その約束を聞いても、美咲の体から力は抜けなかった。

 優しい声も、膝をつく姿も、もう一度信じる理由にはならなかった。

 

「……じゃあ、本当のことを書いて」

「投稿に?」

「私が捨てたんじゃないって、最初からお願いしてるよね」

「今、何か書いたら、また騒がれる」

「もう騒がれてるよ。あなたが私に何をされたって話ばっかり」

 

 健太が顔をしかめた。

 

「これ以上、ひどくなったら……会社にも行きづらいのに」

 

 美咲は夫の顔を見た。

 初めて自分に起きたことのように、困り果てている。

 

「私も、職場でずっと聞いてたよ」

「美咲は何もしてないじゃないか」

「そうだよ。何もしてないのに」




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