インスタ夫の処刑日~私を悪者にして「いいね」を集めた夫の末路~ 作:桐山さくらこ
健太の視線が落ちた。
美咲は、休憩室で落とした箸を思い出した。
夫が娘を守っていると褒められる隣で、笑うことも否定することもできずにいた。
「もう、黙って聞いていたくない」
「……何て書けばいい」
「何をしたのか、自分で書いて」
健太はしばらくスマホを見ていた。
美咲は助け舟を出さなかった。今まで何度も伝えている。夫は、事実を知らないわけではない。
やがて差し出された画面に、文章があった。
『誤解を招く投稿をしてしまい』
「誤解?」
健太が顔を上げた。
「……いや、言い方として」
「あなたが入れて、撮ったんだよね」
「うん」
「そこから書いて」
読み手が勝手に取り違えたわけではない。
妻が捨てたと書いた。拾って戻したと書いた。
そのための写真まで撮った。
「嘘を残したままで、私に普通に暮らせと言わないで」
「……分かった」
健太は最初の一文を消した。
『妻が娘の工作を捨てたという投稿は』
美咲は、その先が書かれるのを待った。
つらくないわけではなかった。自分を傷つけたことを、夫に一つずつ書かせている。だが、書かれなければ、明日も同じ嘘が残る。
「私も、書く」
健太の手が止まった。
「私がどうだったか、私が書くから」
「また、広めるの?」
「あなたの顔を見て、もう私に連絡が来てる」
由紀からのメッセージを見せた。
これ、ご主人だよね。大丈夫?
心配してくれた言葉さえ、知られたという事実を含んでいた。
「この先もずっと、あなたの話だけ信じられるのは嫌」
健太は、美咲の手元を見ていた。
「書いたら、あなたの投稿を読んでた人にも知らせて」
「俺から?」
「私をひどい妻だと思ってる人に、読んでほしいの」
自分の知らないところで作られた妻の代わりに、本当の自分の話を届けたかった。
夫がどう書けば読まれるかを考えている間、美咲がどう暮らしていたのか。それは、夫には書けない。
「……分かった」
健太は、今度はすぐにうなずいた。
*
翌朝、健太のアカウントに訂正が出た。
『妻が娘の工作を捨てたという投稿は、私が作った嘘です。私自身がゴミ箱に入れて撮影しました』
美咲は一文目を読んで、一度スマホを膝に下ろした。
ようやく書かれた。
それだけで涙が出そうになったが、まだ続きを読まなければと思った。
『家事も育児も、実際は妻と分担していました。妻を悪く書いて同情を集め、個人的に会っていた女性にも同じ嘘をつきました。不倫をしていました』
『休止のときも訂正せず、妻にやめさせられたと思われる書き方をしました。申し訳ありませんでした』
コメント欄の言葉が変わっていた。
『自分でゴミ箱に? 娘さんが頑張って作ったのに?』
『こんなに頑張るお父さんを応援してると思ってた』
『奥さんを悪く言ってしまった。申し訳ない』
健太は画面を見続けていた。
プロフィールの数字は、二十一万八千人になっていた。
減った人数を、美咲は数えなかった。
夫が欲しかったものの大きさより、そのために書かれた一文の方が、自分には重かった。
健太がスマホを伏せた。
その顔を見ても、今は何も言ってやれなかった。
*
その夜、美咲はノートを一冊、食卓に置いた。
何をされたのか、何を見たのか。覚えているうちに書き留めておこうと思った。
「……出ていくつもり?」
健太が、少し離れたところから聞いた。
「今すぐ、莉子の暮らしまで変える気にはなれない」
「そうだよな。だったら、少しずつ」
「でも、許せたわけじゃないよ」
健太は口を閉じた。
美咲はノートの端を押さえたまま、言葉を選んだ。
「一緒にいたら、やっぱりつらいって思うかもしれない」
「俺、ちゃんとやるから」
「今は、何を言われても……すぐには信じられない」
娘がまだ何も知らないことだけを、夫に都合よく使われたくなかった。
ここに残ることと、元に戻ることは、美咲の中で同じではなかった。
「しばらく、別の部屋で寝たい」
「……分かった」
「ここにいるからって、前と同じだとは思わないで」
「うん」
「無理になったら、出ていく。もう、黙って我慢するのは嫌だから」
健太はうつむいた。
美咲はその沈黙を、返事を変えるよう促すものとして受け取らなかった。
今夜、家を出ない。
それは今夜の、美咲自身の選択だった。
明日の自分まで、夫に約束するつもりはなかった。
*
ノートの一行目に、美咲はこう書いた。
娘の工作が金賞を取った日。
書いてから、しばらくペンを止めた。
何をされたかを並べるつもりで開いたのに、最初に思い出したのは、莉子が賞状を抱えて駆けてきた姿だった。
金賞、と口にしたときの声。
夫に先に言わないでと頼まれたこと。
いちごの大きなケーキを選ぶ、小さな指。
スマホから、あの夜の写真を探した。
三人で写った一枚を開く。肩が窮屈そうでも消さなかった写真。
あの日は、本当にうれしかった。
今となっては、写真を撮ったあとに健太が何をしたのか知っている。
けれど、莉子が笑っていた時間まで、なかったことにはしたくなかった。
美咲は続きを書いた。
夫が雑誌をどけてくれたこと。娘が眠ったあと、食器はやっておくと言ってくれたこと。
そこまで書いてから、休憩室の話へ進んだ。
言葉が出ず、同じところを何度も書き直す夜もあった。
「悲しかった」と書くだけでは、何が悲しかったのか、自分でも読み返して分からなかった。
もう少し考えて、夫に聞くことさえ怖かった、と書いた。
健太が、椅子のそばへ来た。
「それ、全部載せるの?」
「まだ途中」
「長くない? 最初に、何をされたか書いた方が」
美咲は顔を上げた。
夫はノートをのぞいていた。投稿をよく読まれる形に整えようとしている、その目をしていた。
「最初に、うれしかったことを書きたい」
「でも、それじゃ」
「私が書くから」
健太は椅子の背に手を添えたまま、黙った。
美咲はノートへ視線を戻した。
夫の意見を聞かなければ上手に書けない、と昨日までなら思ったかもしれない。
だが、何から話すかを決めるところまで、任せるつもりはなかった。
*
投稿の下書きには、写真を添えなかった。
娘の顔も、賞状に書かれた名前も、自分を信じてもらうために差し出したくなかった。
すでに出回ったものはある。
それでも、美咲の手で増やすものは選べる。
『「パパの休憩室」で、娘の作品を捨てたことにされていた妻です』
何度も読み返した。
この一文だけを見て、妻が言い訳を始めたと思う人もいるのだろうか。
怖くなり、続きへ目を落とす。
『私が知っていた夫は、娘が金賞を取ったとき、一緒に喜んでくれた人でした』
『だから、私にはなかなか聞けませんでした。あの優しい夫が、本当は私を嫌っていたらと思うと、怖かったんです』
由紀に見せてもらった写真のことを書いた。
ハート形のお好み焼きを、自分も喜んで食べたことを書いた。
訂正を求めたのに、居場所を取り上げた妻にされたことも。
夫が家事を一切していなかったとは書かなかった。
今後も必ず一緒に暮らすとも、もう別れるとも書かなかった。
分かっていることと、まだ決められないことを、無理に一つの結論にしないようにした。
公開ボタンの上で、指が止まった。
「……怖いな」
机の端に、莉子の絵があった。
手をつないだ三人。その下に、パパ、ママ、りこ、とある。
その絵を見て、家族だから黙っていた方がいいとは、もう思えなかった。
莉子が描いた母親を、夫が書いた悪い妻のままにしておきたくなかった。
美咲は投稿した。
少し後、健太の訂正投稿に案内が加わった。
『こちらは妻本人が書いた投稿です』
画面を確かめ、美咲はスマホを伏せた。
眠れなくなりそうでも、今夜はそれ以上読まないと決めた。
灯りを消す前に、ノートだけ、閉じずに置いておいた。
翌朝、玄関で靴を履こうとして、届いていたコメントを読んだ。
『優しかったときまで疑いたくなるの、つらいですよね』
『私も旦那さんの投稿を信じていました。ごめんなさい』
美咲は腰を下ろした。
息をつくと、一緒に涙が出た。
自分が書いたことを、読んでくれた人がいた。
夫についての怒りだけではなく、自分がうれしかったことも、怖かったことも。
「ママ、靴は?」
「あ……今、履く」
「泣いてる?」
「うん。ちょっと、ほっとして」
「ほっとしたのに?」
「そういうときも、あるんだよ」
莉子は不思議そうに見ていたが、少し待っていてくれた。
美咲は目元を拭き、靴に足を入れた。
漫画版もお読みいただけます。
『インスタ夫の処刑日~私を悪者にして「いいね」を集めた夫の末路~: 匿名希望の体験談⑪【コミック】 (ヴァンクール出版)』
Amazonで漫画版を見る
漫画版はKindle Unlimited対象作品です。
Kindle Unlimited会員の方は、追加料金なしでお読みいただけます。