イクメンの処刑日~妻と子どもを捨てた男の末路~ 作:桐山さくらこ
喫茶店へ向かう途中、千春は何を言われるのか考えた。
玄関で聞いた言葉は、やり直せないか、だった。
その続きを聞けば、気持ちが揺れるのだろうか。
少し前までなら、会う前から泣いていたかもしれない。
今は、迎えの予定を確かめ、帰ってから湊と食べるものを考えていた。
予定している時間までに、この話を終えて帰りたかった。
航平は先に来ていた。
千春が座ると、来てくれてありがとうと言った。
「どうして今、やり直したいと思ったの?」
千春は最初に尋ねた。
遠回りの話を聞いているうちに、また夫の気持ちを自分で補ってしまいたくなかった。
「莉奈が、陸を連れて実家に帰った」
「……そう」
「今、一人なんだ」
「それで、私に?」
航平が身を乗り出した。
「一人になって、いろいろ考えたんだよ。千春のことも」
千春は返事をせずに待った。
「やっぱり、千春が一番、俺のこと分かってくれてたんだなって」
「分かってた?」
「家事が少しくらい雑でも、最後は何も言わずにいてくれたじゃないか」
千春はカップに置いていた手を離した。
そういうふうに覚えているのかと思った。
湊と風呂へ入る夫を送り出し、皿を洗い直した夜。二人が眠ってから、仕事用のシャツにアイロンをかけた夜。
言葉にしなければ、ないことになっていた。
「言ったら怒ったでしょ」
航平の口が止まった。
「お皿に油が残ってるって言っただけで、自分でやれって」
「あのときは、仕事が残ってて……」
「私も、仕事から帰ってきたところだったよ」
航平はうつむいた。
千春は、急いでその沈黙を埋めなかった。
「それからは自分で洗い直してた。シャツも、航平が寝たあとにアイロンかけてたの」
「ごめん。知らなかった」
「怒るから、言うのをやめただけだよ」
何も言わなくなれば、家の中は静かになった。
航平は機嫌を直し、湊は父親と楽しそうに遊んだ。
自分さえ少し余分にやれば済むと思った。
その静けさを、航平は理解してもらえた証拠として覚えていた。
「今度は怒らない。ちゃんと聞くから」
千春は航平を見た。
その約束を、欲しかったときがあった。
けれど、今は先に確かめなければならないことがある。
「今度って……。莉奈さんとは、どうなってるの?」
「離婚したいって言われてる」
「まだ別れてないの?」
「うん。でも、千春とやり直せるなら、ちゃんと別れる」
千春はゆっくり息を吐いた。
「私が嫌だって言ったら?」
返事はなかった。
「向こうに戻ってきてもらうの?」
「そういうことじゃない。俺は、千春と……」
千春が受け入れるかどうかで、今の結婚を終わらせるつもりだった。
まず戻る場所を確保してから、自分の問題を片づけようとしている。
かつて莉奈と暮らすことを決めてから、離婚を切り出したときと、何が変わったのだろう。
「私がやり直したいって言ったときは、駄目だったのにね」
「本当に、悪かったと思ってる」
千春はカップへ目を落とした。
責める言葉を並べれば、まだいくらでも出てきそうだった。
けれど、それを全部聞いてもらうために来たわけではない。
自分がもう、どこに立っているのかだけは伝えて帰りたかった。
「別れたばかりの頃はね。航平から連絡が来るたびに、期待してた」
航平が顔を上げた。
「じゃあ……」
「でも、いつもお迎えの時間の話だけだった」
喜ぶ準備をして画面を開き、何事もなかったような文章に返事をする。
そのあと米を研ぎ、洗濯物を畳み、息子の寝顔を見る。
航平が戻ることを考えなくても、朝は来た。頼める人を探し、勤務を調整し、約束した時間に迎えに行った。
そうして過ごすうちに、通知を待たない夜が増えていった。
「私が一番つらかったとき、航平は莉奈さんと幸せだったでしょ」
「ごめん」
「もう、あんな思いしたくない」
「今度は絶対にしない。信じてくれ」
千春は首を横に振った。
「今はもう、戻ってきてほしいとは思ってないよ」
言い終わると、自分でも驚くほど気持ちが定まっていた。
夫に選ばれなかった日の痛みは、まだ覚えている。
けれど、選び直してもらえば埋まるものではなくなっていた。
「湊だって、喜ぶと思うんだ」
千春は顔を上げた。
「また、湊を理由にするの?」
航平が口を閉じた。
玄関で、言ってはいけなかったのかと怯えていた息子の顔を思い出した。
千春が泣いたのは自分のせいだと、父親の服をつかんでいた。
あの子は今も、父親と会う土曜日を楽しみにしている。
だからといって、その気持ちを大人の望みを通すために使ってよいことにはならない。
「私は、航平とやり直す気はない」
千春は、はっきり言った。
航平は顔を伏せた。
その肩を見ても、今度は自分の言い方が悪かったのだとは思わなかった。
千春はバッグを開き、自分の分の代金をテーブルへ置いた。
椅子から立ち上がる。
「土曜日は、予定どおりお願いね」
夫婦に戻らないことと、湊が父親に会うことは、別に決めてよかった。
千春は返事を待った。
「……ああ。迎えに行く」
航平の声を聞いて、うなずいた。
店を出ると、外の空気が頬に触れた。
スマートフォンで時刻を確かめる。予定どおり帰れそうだった。
千春はバッグを持ち直し、駅へ向かって歩き出した。
*
実家の部屋には、莉奈が昔使っていた棚が残っていた。
陸の着替えを引き出しへ入れると、自分の服をしまう場所は少なくなった。
旅行かばんを閉じ、壁へ寄せる。
ひとまず帰ってきただけだと思っていた荷物が、部屋のあちこちへ広がっていった。
母の和恵は、莉奈の話を聞いた。
航平の帰りが遅くなったこと。生活費が足りなかったこと。毎日同じ喧嘩をしていたこと。
けれど、誠司のところへ戻れないなら、ここで何をするのかという話は避けられなかった。
ある日、和恵が求人のチラシを置いた。
スーパーの品出しスタッフ。日中の短時間勤務も可能と書かれている。
「買い物のお金までは、出してあげられないよ」
莉奈はチラシを見た。
母は追い出そうとしているわけではない。布団を用意し、陸の食事を作り、帰ってきた二人の分まで洗濯をしている。
けれど、これまでどおりの暮らしを、そのまま渡してくれるわけでもなかった。
「……うん」
「お迎えは、できる日は行くから」
隣には、五万八千円で買ったバッグがあった。
買ったときは、生活費は残してあると航平へ言った。
今は、そのバッグを持って出かける予定よりも、来月何にいくら必要かを考えなければならなかった。
莉奈はチラシの電話番号へ指を置いた。
「まず、電話してみる」
働くかどうかを、誰かへの不満として話していた時間は終わっていた。
自分が働ける曜日と、迎えに間に合う時間を、母に確かめた。
*
航平と莉奈が選んだ部屋では、ベージュのソファに引っ越し業者の保護カバーがかけられていた。
二人は離れた場所に立っていた。
運び出す家具と、処分する物を確認する。あれほど楽しみにして買った物についても、今は費用と日程を話すだけだった。
「離婚の話、進めよう」
航平が言うと、莉奈は少し間を置いてうなずいた。
「……うん」
どちらかの元配偶者が受け入れてくれるなら、という条件は、もうつけなかった。
千春も誠司も、戻ってよいとは言わなかった。
二人が始めた暮らしを、二人で終わらせるしかなかった。
その後、二度目の離婚が成立した。
部屋を引き払い、航平は一人で暮らすための小さな部屋へ移った。
食卓を置く場所を決めると、残る床はわずかだった。
前の家のように廊下へ紙飛行機を飛ばす場所はない。
荷物の中から仕事の資料を出し、明日の分を机へ並べた。
*
午後十一時。
航平は仕事の資料を閉じ、以前の会社の採用ページを開いた。
収入が減るとしても、前の働き方に戻れればと思った。
通勤に使う時間が少なく、夕方に子どもを迎えに行けた。仕事が残れば、家で予定を調整できた。
千春と暮らしていた頃は、その余裕がどれほど多くのことを支えていたのか、あまり考えていなかった。
翌日の昼休み、人事の岡崎へ電話をかけた。
「高梨です。以前いた職種で、今、募集はありますか」
久しぶりだという挨拶のあと、岡崎は少し待つように言った。
航平は手元の仕事の資料を折らないよう、膝の上で持ち直した。
戻れると言われたら、どう説明しよう。
退職のときは、新しい環境で挑戦したいと話していた。
「申し訳ありませんが、現在、その職種では募集をしていません」
航平は目を閉じた。
責められたわけではなかった。以前の働き方を否定されたわけでもない。
ただ、空いていなかった。
「……そうですか。分かりました」
通話が終わった。
昼休みは、まだ少し残っていた。
航平はスマートフォンをしまい、今の会社の資料を開いた。
明日も、こちらの仕事へ行かなければならなかった。
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