イクメンの処刑日~妻と子どもを捨てた男の末路~   作:桐山さくらこ

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次のお休みに、一緒に

数週間後、莉奈はスーパーの休憩室で給与明細を開いた。

 差引支給額、六万三千円。

 売り場の場所を覚え、商品を並べ、分からないことを何度も聞きながら働いた分だった。

 

 最初は、短い時間だから何とかなると思っていた。

 実際に働くと、帰宅してから座り込んでしまう日もあった。陸の迎えまでに買い物を済ませ、夕飯を考える。

 和恵が迎えに行けない日は、自分の勤務と園の予定を確かめた。

 誰かが代わってくれれば、その人にも予定があることが分かるようになった。

 

「莉奈さん、午後、品出しを一緒にお願いしていい?」

 

 同僚の川島佳代が休憩室の入口に立っていた。

 

「はい」

「分からないところは聞いてね」

「佳代さん、ありがとうございます」

 

 莉奈は明細を机へ置き、スマートフォンを開いた。

 以前よく買っていたブランドのバッグが、画面に表示された。

 六万八千円。

 明細へ目を戻した。

 

 一か月働いても、これ一つ買えない。

 

 たった五千円の違いなのに、その間を埋めるためには、また働く時間が必要だった。

 しかも、六万三千円をすべて買い物に使えるわけではない。

 母へ渡すお金も、自分の生活に必要な物もある。

 

 航平に、多めに生活費を入れてほしいと頼んだときには、出せないと言う彼を冷たいと思った。

 今、同じことを言われても、自分もこの明細以上の金額は渡せなかった。

 

 莉奈は画面を伏せた。

 仕事用の軍手を手に取り、立ち上がる。

 午後の仕事を、一緒に進める人が待っていた。

 

*

 

 夜、航平のスマートフォンに、次の土曜日の予定が届いた。

 千春からの文章は、以前と同じように簡潔だった。

 迎えの時刻と、帰る時刻。それから、湊が外で遊びたがっていること。

 

 航平は画面を見つめた。

 もう、別の言葉が続くのを待ってはいけないのだと思った。

 千春の家へ戻る返事ではなく、湊との約束への返事を書く。

 

『分かった。十時に迎えに行く』

 

 送信してから、翌朝のアラームを確かめた。

 部屋の電気を消すと、仕事のかばんだけが椅子の背で形を残していた。

 

*

 

「高梨さん、少しいいかな」

 

 佐久間に呼ばれ、千春は手元の資料を閉じた。

 会議室へ向かいながら、今週の進捗を思い返す。

 担当していた案件は、どうにか最後までまとめられた。途中で勤務時間を変え、何度も引き継ぎ方を直した。

 反省するところも、次に変えたいところもあった。

 

「引き継ぎを工夫しながら、最後までよくまとめてくれたね」

「はい。みんなに助けてもらって」

 

 佐久間がうなずいた。

 

「推薦、通ったよ。来期からは課長として頼む」

 

 千春は顔を上げた。

 昇進の話を、忘れていたわけではない。

 けれど、夕方の定例を代わってもらいたいと相談したときから、期待しすぎないようにしていた。

 今の担当を続けさせてもらえるだけでも、ありがたいと思っていた。

 

「……ありがとうございます」

 

 声が少し震えた。

 佐久間は、勤務時間のこともまた相談しようと言った。

 

「今のやり方も続けられるように」

「はい。よろしくお願いします」

 

 誰にも頼らず、全部自分でできるようになったわけではない。

 夕方には真帆たちが引き継ぎ、朝には千春が集計する。迎えに間に合わない日は、永井が湊のそばにいてくれる。

 その中でできることを探し、続けてきた仕事を見てもらえた。

 

 席へ戻ると、机の上に引き継ぎ表があった。

 最初に作った頃より、何度も書き方を変えている。

 千春は次に確認する項目へ指を置いた。

 来期のことは、また相談する。

 まずは今日の仕事を終えて、湊を迎えに行こうと思った。

 

*

 

 その夜、食卓には二人分の夕飯が並んだ。

 千春のスマートフォンに、佐久間から改めてお祝いの言葉が届いていた。

 画面を閉じても、口元が緩む。

 

「ママ、何かいいことあった?」

 

 湊に尋ねられて、千春は顔を上げた。

 

「うん。課長になることが決まったの」

「前に言ってた、えらくなるやつ?」

「覚えてたんだ」

「うん」

 

 あのときも、ここで夕飯を食べていた。

 まだ三人で囲んでいた食卓だ。

 その頃に話したことが、湊の中に残っていた。

 

「うん。まだちょっと、信じられないけどね」

「じゃあ、お祝い」

 

 湊が箸を置いた。

 千春は笑った。

 

「何がいい?」

「クッキー作りたい」

 

 その言葉に、少しだけ昔の声が重なった。

 千春も、休みの日くらいやってみたら。

 仕事は頑張るのに、家のことになると余裕がない。

 

 台所で過ごせる休日の長さを、誰かと比べられるのが嫌だった。

 やりたいと思うことまで、できていない証拠に変えられてしまった気がしていた。

 

 けれど、今ここにいる湊は、母親に点数をつけているのではない。

 次の休みに、一緒にやりたいことを話している。

 

「今度の休みに、やってみようか」

「チョコ入れていい?」

「いいよ。何が必要か、一緒に調べよう」

 

 湊は食べ終わると、千春の隣へ椅子を寄せた。

 画面に並ぶ材料を見て、小麦粉を指す。

 家にあるものと、買うものを一つずつ確かめた。

 千春は日曜日の予定を見た。急がなくてよい午前中を、二人のために空けた。

 

*

 

 土曜日の夕方、航平が湊を送り届けた。

 その手には、どんぐりと松ぼっくりの入った透明な袋があった。

 

「これ、公園で拾ったんだ」

「工作に使う」

 

 湊が靴を脱ぎながら言った。

 

「じゃあ、洗って乾かそう」

 

 千春が袋を受け取った。

 湊は家へ入る前に、航平を振り返った。

 

「またね、パパ」

「うん。また連絡する」

 

 息子の足音が居間へ向かう。

 千春は航平へ礼を言った。

 

「今日はありがとう。次の予定、あとで送るね」

「分かった」

 

 玄関の扉が閉まった。

 航平は、その前に少しだけ立っていた。

 中から、袋をどこへ置くか相談する声がした。

 自分が靴を脱いで加わる時間は、もう終わっていた。

 階段へ向かい、一人で歩き出した。

 

*

 

 日曜日の台所に、小麦粉の白い跡が増えていった。

 千春も湊もエプロンをつけていた。

 材料を量り、生地をまとめる。湊はチョコチップを入れるところを、自分でやりたがった。

 

「全部入れる?」

「書いてある分だけにしよう。残りは、次のときにも使えるよ」

 

 湊は袋の中を名残惜しそうに見て、うなずいた。

 千春がめん棒を渡すと、両手で持って生地を押した。

 片側だけ薄くなり、二人で向きを変えた。

 

「丸い型もあるよ。使う?」

「恐竜にしたい」

「じゃあ、首の長いのにしようか」

 

 湊は丸めた生地に細い首をつけた。

 持ち上げると、途中から切れそうになる。

 

「ここ、折れそう」

「ママが押さえてるから。ゆっくりね」

 

 千春は指先で首を支えた。

 湊が慎重に動かし、ようやく天板へ載せる。

 二人で顔を見合わせて、ほっと笑った。

 

 焼いている間に、粉のついた台を拭いた。

 湊は何度もオーブンを見たがり、千春に熱いから離れていようと言われた。

 甘い匂いが部屋に広がる。

 うまく焼けているだろうかと、千春も気になっていた。

 

 出来上がった天板を出すと、クッキーの大きさはまちまちだった。

 薄いものの端が、少し黒くなっている。

 

「黒くなってる」

「焼きすぎたかな」

「こっちは大丈夫」

 

 湊は焦げていないものを指した。

 千春は天板を置き、恐竜を探した。

 

「形も、みんな違うね」

「あ、恐竜の首!」

 

 苦労して載せた長い首は、横へ曲がっていた。

 

「曲がっちゃったね」

「おなか、見てるみたい」

 

 言われてみれば、本当にそう見えた。

 

「ほんとだ。おなかすいたのかな」

 

 湊が笑った。

 千春も笑った。

 きれいにそろわなかったことより、湊が見つけた恐竜の顔がおかしくて、しばらく二人で見ていた。

 

「熱いから、少し待とう」

「次は、もっと大きいの作る」

「じゃあ、次のお休みに」

「ママも一緒?」

 

 千春はうなずいた。

 

「うん。一緒に作ろう」

 

 食卓には、形のそろわないクッキーが並んでいた。

 湊はどれから食べるか迷いながら、次の恐竜はもっと大きなしっぽをつけたいと話し始めた。




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