イクメンの処刑日~妻と子どもを捨てた男の末路~   作:桐山さくらこ

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謝ったことは、話さない

千春が、次の案件を任されたと話した夜のことを思い出した。

 推薦という言葉を口にするとき、妻の目は輝いていた。よかったと思った。その一方で、自分には来年もそんな話はないのだろうと思った。

 迎えに間に合う働き方を、嫌っているわけではない。

 ただ、それを選んでいる自分のことも、少しくらい認めてほしかった。

 

「また公園でご一緒できたら。連絡先、交換しません?」

 

 莉奈がスマートフォンを差し出した。

 子ども同士が仲良しなのだから、不自然なことではない。

 航平は、その場で彼女の名前を登録した。

 

*

 

 夜、千春は園のプリントを見ながら焼き菓子を眺めた。

 

「これ、どうしたの?」

「陸くんのお母さんがくれた。千春にもって」

「そうなんだ。今度、お礼言わなきゃ」

 

 千春は素直に笑った。

 その顔を見ているのに、航平の口からは別の言葉が出た。

 

「昨日は、陸くんとクッキー作ったんだって。千春も、休みの日くらいやってみたら?」

「うん。余裕があればね」

「いつもそれだな」

 

 プリントをめくる手が止まる。

 

「仕事はあんなに頑張るのに、家のことになると余裕がないって」

「休みの日も、たまったことをしてるでしょう」

「俺だって平日は家のことをしてるよ」

「分かってる。でも、その人と私を比べないで」

 

 別に比べていない、と航平は言った。

 子どものために少しは、と続けたとき、千春が顔を上げた。

 

「私だって、やれるならやりたいわよ」

 

 握っていたプリントの端が曲がる。

 

「航平の給料が少ないから、私も働かなきゃやっていけないでしょう」

 

 部屋が静かになった。

 千春は、言った直後に口元を押さえた。

 

「……ごめん」

「そう。じゃあ俺が悪いんだ」

「そういう意味じゃない」

「もういいよ」

 

 航平は椅子を離れた。

 いくら家のことをしていても、結局はそこなのだと思った。

 千春が追いかけるように名前を呼んだが、振り返らなかった。

 

*

 

「昨日、給料のこと、あんな言い方してごめん」

 

 翌朝、湊が着替えている間に千春が言った。

 航平は、うん、と短く返した。

 

「いつもありがとうって思ってるよ。本当に。ただ、あの人はできるのにって言われると、私も……」

「分かった」

「今日、帰ったら少し話せない?」

「今日はいい。まだ、そういう気分じゃない」

 

 謝られたことは分かった。

 それでも、すぐに気持ちを戻すのは難しかった。

 千春は少し黙ってから、分かった、と言った。もう一度謝り、湊の着替えを手伝いに行った。

 

 その夕方、莉奈は航平の顔を見るなり、疲れているのかと尋ねた。

 

「ちょっと。家でいろいろ」

「私でよければ、聞きますよ」

 

 航平は昨日の言葉を話した。

 給料が少ないから、妻が働かなければならないと言われたことを。

 

「そんな言い方されたんですか? 家のことも、これだけしてるのに」

「稼ぎの方が大事なんでしょうね」

「私は、一緒にいてくれる方がうれしいけどな」

 

 砂場では、湊が陸のバケツへ砂を詰めていた。

 航平は子どもたちを見たまま、口を開いた。

 

「今朝、妻が……」

「今朝も何か言われたんですか?」

 

 違う。

 謝っていた。話がしたいと、妻の方から言っていた。

 そこまで伝えたら、莉奈は何と言うだろう。

 ちゃんと話してあげたら、と言うかもしれない。

 

「……いえ」

 

 航平は、それ以上続けなかった。

 

「せめて、ここでは愚痴ってください。私、聞きますから」

「ありがとうございます。ちょっと、楽になりました」

 

 莉奈の優しさを、もう少し受け取っていたかった。

 千春が謝ったことは、最後まで話さなかった。

 

*

 

 寝室の明かりが消えてからも、航平は居間に残っていた。

 スマートフォンに、神崎莉奈の名前が表示される。

 

『今日は話してくれてありがとう。少しは楽になりました?』

 

 返事を考えるだけで、口元の力が緩んだ。

 

『はい。聞いてもらえて助かりました』

『いつも私の話を聞いてもらってますから』

 

 仕事の連絡とも、迎えの相談とも違う。

 今、自分がどんな気持ちでいるのか。それだけを気にかけた言葉だった。

 

『また聞いてもらってもいいですか』

『もちろん』

 

 短い返事を、航平は何度か読み返した。

 寝室へ行けば、千春と湊が眠っている。妻を起こして朝の話の続きをすることもできた。

 けれど、暗い部屋へ戻る前に、もう一通だけ送った。

 

*

 

「土曜日、友達とでも出かけてきたら?」

 

 千春からそう言われたのは、数日後だった。

 航平は、どうして急に、と聞き返した。

 

「いつも迎えとかお願いしてるし。湊は私が見てるから」

「いいの?」

「うん。二人で図書館に行く約束した」

 

 千春は湊の園のかばんを片づけていた。

 まだ、話し合いらしい話し合いはできていない。けれど、朝の挨拶も、夕食の会話も、少しずつ戻っていた。

 夫に休んでもらえば、張り詰めていた気持ちも和らぐかもしれない。

 千春には、そんな期待があった。

 

「じゃあ……少し出てくる」

「楽しんできて」

 

 返ってきた笑顔を見て、千春はほっとした。

 久しぶりに、何かうまくできたように思えた。

 

 その夜、千春が湊の水筒を洗っている間に、航平は莉奈へ連絡した。

 

『土曜日、少し時間ができました。よかったら、お茶でもどうですか』

 

 送ってから、指を止める。

 公園で話すのとは違う。自分から二人で会おうとしている。

 既読の表示がつき、間もなく返事が来た。

 

『子どもたちも一緒に?』

『湊は妻が見てくれます』

 

 その一文を打つとき、台所で水の止まる音がした。

 航平は顔を上げた。千春は水筒の細い部品を布巾の上へ並べている。

 また画面を見る。

 

『うちも主人がお休みです。二人で、ゆっくり話せますね』

 

 断られなかった。

 航平は、少し早くなる鼓動を感じながら返した。

 

『楽しみにしてます』

 

*

 

 土曜日の喫茶店は、まだ昼の混雑が始まる前だった。

 莉奈はカップを持ち上げ、湯気に目を細めた。

 

「二人だけだと、何だか変な感じですね」

「いつも、子どもを追いかけながらですもんね」

「ふふ。今日は、お茶が冷める前に飲めそう」

 

 航平も笑った。

 湊に呼ばれるたび話が途切れることも、帰ってからの献立を考えることもない。

 莉奈の声を、最後まで聞いていられた。

 

 スマートフォンが震えた。

 千春からだった。

 

『いつもありがとう。今日はゆっくりしてきてね』

 

 千春は今頃、湊と図書館にいるはずだ。

 航平は画面をしばらく見つめたあと、莉奈へ向けた。

 

「……こういうときは、優しいんですよ」

 

 莉奈は文面に目を落とした。

 

「ちゃんと感謝してるみたいですけど」

「機嫌を悪くされたら困るんでしょうね」

 

 言ってから、少しだけ居心地が悪くなった。

 そういう意味で送ってきたとは限らない。今朝、千春は湊と一緒に玄関まで見送りに来た。

 それでも、さっきの言葉を取り消さなかった。

 

「すみません。こんな話ばっかり」

「私は、嫌じゃないです」

 

 莉奈は画面から目を上げた。

 

「私だったら、毎日まっすぐ帰ってきてほしいけどな」

 

 航平は、カップを持つ手を止めた。

 家に帰るのは、当たり前のことだと思っていた。迎えや夕食があるから、そうしているだけだった。

 それを誰かが待ち望んでくれる。

 そう考えると、ひどく大切なことをしているように感じられた。

 

「……莉奈さんが待っててくれるなら、帰りますよ」

 

 莉奈は持ち手に指を添えたまま、航平を見た。

 冗談にしてしまうには、沈黙が長かった。

 

「変なこと言いました」

「変じゃないです」

 

 その言葉に、航平は目をそらせなくなった。

 

 店を出てからも、二人はすぐに駅へ向かわなかった。

 ショーウインドーの前で足を止め、また歩く。話の中身は、特別なものではない。好きな食べ物や、子どもの頃に住んでいた町のことだった。

 知らなかったことが一つ増えるたび、次も聞きたくなった。

 

「もう帰らなきゃ、ですね」

 

 莉奈が言った。

 航平は時間を確かめ、そうですね、と答えた。

 

「もう少しだけ、歩きません?」

 

 千春に帰る時刻を知らせようとしていた指が止まる。

 航平はスマートフォンをポケットへ戻した。

 

「……はい」

 

 その夜、莉奈から届いたのは、まだ帰りたくなかった、という言葉だった。

 航平も同じだったと返した。

 次に会う日を決めるときには、もう公園の予定を確かめる必要はなかった。




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