イクメンの処刑日~妻と子どもを捨てた男の末路~ 作:桐山さくらこ
別の休日、駅前で会った莉奈が尋ねた。
「今日は、何時まで大丈夫?」
「夕飯は、いらないって言ってきた」
「私も。陸は主人と出かけてるから」
莉奈の指が、航平の手に触れた。
握り返せば、何かが変わると分かった。
それでも、手を引かなかった。
「人のいるところじゃなくて……二人きりになりたい」
ホテルの廊下は静かだった。
航平の手にはカードキーがある。目の前の扉には部屋番号がついていた。
「……本当に、いいのかな」
「航平さん、帰りたい?」
莉奈は、帰らないでとは言わなかった。
ここで手を離せば、駅へ戻れた。千春には、早く用事が終わったと連絡すればよかった。
「私は、まだ帰りたくない」
航平は莉奈の手を握った。
「今日は、一緒にいたい」
カードキーをかざしたのは、自分の手だった。
扉が閉まるまで、妻から届いた感謝の言葉を思い出さないようにしていた。
*
雨の日は、公園へ行けない。
湊が傘の下から空を見上げると、隣の陸も同じ顔をした。
「今日、公園行けない?」
「雨だからね。うちに来てもらおうか」
莉奈が言うと、二人の顔が明るくなった。
「いいの?」
「航平さんの仕事が大丈夫なら」
「今日は終わってるよ」
航平と莉奈が二人で会うようになって、数か月がたっていた。
休日の予定を合わせるだけだった関係は、少しずつ平日の迎えにも入り込んでいた。
子どもたちが一緒なら、人に会っても説明はつく。
そう考えることが、航平にはもう珍しくなくなっていた。
莉奈の家には、湊の知らないブロックがたくさんあった。
床に箱を広げ、陸と車を作り始める。湊は赤い部品を集めた。陸は青いものを選んでいる。
航平はソファへ腰を下ろした。
莉奈が、その隣へ座る。
「ここなら濡れないし、ゆっくりできるね」
「子どもたちも楽しそうだしな」
肩に柔らかい重みがかかった。
莉奈が頭を預けていた。
「……子ども、いるよ」
「遊んでるから」
航平は床の方を見た。
湊が、赤い車を両手に載せてこちらを向いていた。
「パパ、できた。見て」
「うん。あとで見せて」
そう返し、莉奈に顔を戻した。
湊は車を持ったまま、しばらくそこに立っていた。
いつもなら、タイヤを回したり、もっと速く走る形を考えたりしてくれる。
けれど、今日は父親の目が、こちらへ戻ってこなかった。
「湊くん、ここ走らせよう」
陸が床を指した。
湊は座り直し、赤い車を押した。
タイヤが回る。その小さな音の向こうで、大人の声がしていた。
「航平、今日も帰るの?」
「帰るよ。まだ、家では何も話してない」
「ずっとこのまま?」
「……考えてる」
湊は車を止めた。
何の話か、よく分からなかった。
自分もここへ泊まるのだろうか。それなら、ママは迎えに来るのだろうか。
「でも、湊と離れて暮らすのは……」
「うん。そうだよね」
莉奈は子どもたちを見た。
「二人とも、こんなに仲がいいのにね」
航平の手が、莉奈の手に重なった。
湊はその手元を見て、赤い車を膝に引き寄せた。
*
夕飯はカレーだった。
熱いご飯の上でチーズが溶け、スプーンを入れると細く伸びた。
「チーズ、のってる!」
「好きだった?」
「うん!」
湊はうれしそうに食べた。
莉奈が笑い、航平もご飯までありがとうと言った。
子どもが喜んでいる。そのことが、航平には都合よく思えた。
ここへ来るのを湊も楽しみにしている。自分だけのためではない。
それから何度か、迎えの帰りに寄るようになった。
雨が降っていない日にも、莉奈は二人を家へ招いた。
床では赤い車と青い車が競争した。ソファでは、航平と莉奈の座る間隔がなくなっていた。
帰り道、湊が言った。
「今日、陸くんちで車の競走したね」
「うん」
「ママにも教えよう」
航平の足が、わずかに遅くなった。
握っていた湊の手が引かれる。
「……陸くんちに行ってることは、ママには内緒な」
「なんで?」
「ママ、疲れてるから。いろいろ気にするんだ」
湊は眉を寄せた。
千春は、幼稚園で何をしたか聞いてくれる。公園で友達と遊んだ話も、いつも聞いてくれた。
「遊びに行ったら、だめなの?」
「だめじゃない。でも、ママが嫌だって言ったら、もう行けなくなるだろ」
「陸くんと遊べない?」
航平は、その問いにすぐうなずくことはできなかった。
子どもを心配させたかったわけではない。ただ、あと少しだけ、家で面倒な話をせずにいたかった。
「そうならないように、パパが話すから」
「……うん」
湊は、握っていた手に力を入れた。
大好きな友達と遊べなくなるのは嫌だった。
ママを疲れさせるのも、嫌だった。
航平はその小さな手を引いて、家まで歩いた。
*
ある夜、莉奈は電話越しに切り出した。
「私、主人に別れたいって話そうと思ってる」
「本当に?」
「航平と暮らせるなら」
航平は黙った。
家を出たあとの部屋を、具体的に考えたことはなかった。
朝から莉奈と一緒にいられる。誰かに隠れて連絡しなくてよくなる。その先に湊の迎えや千春との話し合いがあることは、意識の端へ追いやっていた。
「航平は、まだ決められない?」
「いや。俺も、話す」
「無理して言ってる?」
「違う。ちゃんと一緒になりたい」
莉奈の声が弾んだ。
うれしい、と言われると、ためらいを口に戻すのが惜しくなった。
「ただ、俺はご主人ほどは稼いでないぞ」
「知ってるよ」
「贅沢はさせてやれないけど、それでもいい?」
「毎日、一緒にご飯食べられるんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、いい」
自分に求められているのは、それだけなのだと思った。
電話を切ったあと、航平は莉奈の言葉を思い返した。
家族に話す順番よりも、新しい家で食卓を囲む姿を先に想像していた。
*
翌日の夕飯も、カレーだった。
千春が湊の皿を置くと、息子はその上をのぞいた。
「陸くんちのは、チーズが入ってた」
「そうなんだ。いつ食べたの?」
「この前。昨日も陸くんち行った」
千春は航平を見た。
「昨日、公園に行ったんじゃなかった?」
「そのあと、少し寄った」
「夕飯までごちそうになってたの?」
「うん。言うの忘れてた」
湊が、また口を開いた。
「昨日もね、パパと……」
そこで言葉が切れた。
息子の視線は、航平の顔へ向いていた。航平の箸も止まっている。
「……何でもない」
湊は皿へ目を落とした。
千春は、その小さな横顔から目を離せなかった。
聞けば、何度かお邪魔しているのだという。
けれど、回数よりも気になることがあった。
湊はなぜ、話していいか父親の顔を確かめたのだろう。
息子が眠ってから、千春は航平を呼び止めた。
「私、お礼も言ってない。そんなにお世話になってるなら、連絡したい」
「待って。連絡は俺がするから」
「どうして?」
航平が目をそらした。
千春は、自分の声が硬くなるのを感じた。
「二人で会ってるの?」
「子どもが一緒のときもある」
「一緒じゃないときも?」
返事が遅れた。
その数秒で、聞きたくなかった問いが形になった。
「付き合ってるの?」
*
「うん」
航平は、否定しなかった。
千春は夫の顔を見ていた。聞いた言葉の意味が、まだうまく頭へ入ってこない。
「いつから」
「……数か月」
「体の関係も?」
「……ある」
膝から力が抜けた。
千春は食卓の椅子へ座った。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく聞こえた。
「ごめん」
夫が謝っている。
けれど、何に対しての謝罪なのか、すぐには分からなかった。
二人で会っていたこと。関係を持ったこと。それとも、今まで隠していたことだろうか。
「公園に行くって言って、湊も連れて会いに行ってたんだ」
「子どもたちも、遊びたがってたし……」
「そういうことじゃないでしょ」
強い声を出した途端、喉が痛んだ。
食卓には、まだ湊の空の皿があった。カレーを少し残したふちに、スプーンが載っている。
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