イクメンの処刑日~妻と子どもを捨てた男の末路~   作:桐山さくらこ

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六時までの明日

職場の会議室で、千春は予定表を佐久間へ見せた。

 

「火曜と木曜は五時に退社させていただけないでしょうか。息子の迎えがあって」

「五時か。夕方の定例はどうしようか」

 

 当然、そこが問題になる。

 千春は用意してきた紙をもう一枚出した。

 

「資料を先にお渡しして、引き継げないでしょうか。結果は議事録で確認します」

「代わってもらえるか、チームにも聞いてみよう」

「朝の集計は私がやります。今の案件も、引き続き担当したいです」

 

 最後の言葉だけ、少し強くなった。

 家が変わるからといって、積み重ねた仕事まで手放したくはなかった。

 ただ、願うだけでは他の人の負担が増える。そのことも分かっていた。

 

「分かった。一度、みんなで予定を確認しよう」

 

 佐久間はすぐに全部を約束しなかった。

 それでも、考える席を作ってくれた。

 千春は頭を下げた。

 

*

 

 園の掲示板に、送迎と、保護者が帰宅するまでの預かりについての案内があった。

 千春はスマートフォンで写真を撮った。

 家に戻って問い合わせると、利用する時間や場所の相談に加え、まず担当者と息子が会う機会を作れるという。

 

「月曜、水曜、金曜に、園のお迎えから私が帰るまでお願いしたいんです」

 

 電話を切ったあと、手帳の空白に丸をつけた。

 決まったわけではない。けれど、今まで空いていた欄に、連絡先を書けた。

 

 休日、保育支援の担当者が家を訪ねた。

 名札には、永井早苗とある。

 

「永井です。よろしくお願いします」

「高梨です。息子の湊です」

 

 湊は千春の隣で、恐竜のパズルの箱を膝に抱えていた。

 知らない大人が来ると聞いてから、何度も母親の顔を見ていた。

 永井は急いで距離を詰めず、箱の絵を見た。

 

「恐竜、好きなの?」

「うん」

「私にも、見せてもらっていい?」

 

 湊は少し考えて、ふたを開けた。

 緑色のピースを永井が手にすると、それはしっぽだと教えた。

 首の長い恐竜が少しずつつながっていく。

 千春は二人を見ながら、相談する時間や帰宅までの過ごし方を確かめた。

 

 翌週は、園から一緒に帰る練習をした。

 門の前で待っていた永井を見て、湊は千春の手を引いた。

 

「恐竜の人」

「覚えていてくれたのね。今日はママと一緒に、おうちまで歩こうか」

 

 三人で歩く道は、湊がいつも父親と帰っていた道だった。

 千春は息子へ話した。

 

「今度から、ママが遅い日は永井さんと帰ろうね」

「ママは、あとで帰ってくる?」

「うん。帰ってきたら、今日の話を聞かせて」

 

 湊は足元の石を避けて歩いた。

 少し進んでから、顔を上げる。

 

「じゃあ、パズル作って待ってる」

 

 千春は、うん、と答えた。

 手帳の空いていた欄に、永井の名前を書けるようになっていた。

 

*

 

 神崎誠司が帰宅したとき、食卓に封筒が置かれていた。

 宛名は、妻の莉奈になっている。

 

「誠司。話があるの」

 

 莉奈は書類を夫の方へ押した。

 高梨千春代理人、弁護士宮本智子。その名前の下に、航平との不貞行為について記されていた。

 誠司は書類を持ったまま、しばらく黙っていた。

 

「高梨さんと、関係があるんだな」

「……うん」

「湊くんのお父さんだろ」

「最初は、迎えのあとに話してただけ」

 

 莉奈は、二人で公園にいた頃のことを話しかけた。

 誠司はその先を聞いた。

 

「今は?」

「一緒に暮らしたいと思ってる」

 

 誠司の体が、ゆっくり椅子の背へ沈んだ。

 莉奈はその顔を見るのが怖くなり、手元へ目を落とした。

 

「誠司が、もっと家にいてくれたら……」

「こっちは、遊んで遅くなってたんじゃないんだぞ」

「分かってる。でも、寂しかったの」

「だから、この人と?」

 

 莉奈は答えられなかった。

 寂しかったことは本当だった。夕方から寝かしつけまで誰とも話せず、食事を温め直しながら夫を待っていた。

 そのことを、今なら分かってほしいと思った。

 けれど、誠司が見ているのは、すでに別の男と暮らすことを決めた妻だった。

 

「俺とは、もう別れたいってことか」

「離婚してほしい」

 

 長い沈黙があった。

 誠司は机へ書類を戻した。

 

「少し、一人にしてくれ」

「陸のことは」

「今は無理だ。あとで話そう」

 

 莉奈は立ち上がった。

 食卓を離れるとき、もう一度振り返ったが、誠司は書類から顔を上げなかった。

 

*

 

 別居に向けた話が少しずつ進み始めた頃、航平と莉奈は喫茶店で会った。

 以前は何を飲むかで笑っていたテーブルに、今は支払いの資料が並んでいる。

 

「そっちも、離婚する方向になったんだな」

「うん。でも、慰謝料も払うことになる」

「俺も」

 

 互いに弁護士へ相談し、必要なやり取りを進めていた。

 慰謝料と引っ越し費用を考えると、手元に残る貯金は当初思っていたより少なくなった。

 それでも、新しい部屋で暮らし始めれば、今の面倒な話し合いは終わる。

 航平は、その先に気持ちを向けたかった。

 

「これも、見ておいてほしい」

 

 給与明細を莉奈の前へ置いた。

 差引支給額は、二十四万円。

 結婚したばかりの頃より少し増えたが、家族を一人で十分に養えると胸を張れる金額ではなかった。

 

「毎月、手取りで二十四万くらい。ここから家賃も、湊の養育費も出す」

「……二十四万」

 

 莉奈は数字を見つめた。

 誠司ほど稼いでいないとは聞いていた。けれど、毎月いくらで暮らすのかを、具体的に並べたことはなかった。

 

「やっていけそう?」

「うん。貯金もあるし、陸の養育費も入るから」

「陸くんの分は、園とか、あの子にかかるお金で考えておこう」

「分かってるよ」

 

 航平は、前のような店へ毎回は行けないと話した。

 家具も、一度に全部そろえるのは難しい。

 莉奈はうなずいたが、家具のところでスマートフォンを開いた。

 

「そこは私が出す。気に入ったものを使いたいし」

「少しは残しとこうよ。急に何かあったら困るし」

「ソファだけ。ほら、この前見たやつ」

 

 ベージュの三人掛けのソファだった。

 価格は十八万円。

 航平は、明細から画面へ目を移した。

 

「……十八万か」

「あそこで、二人でテレビ見るの。楽しみじゃない?」

 

 莉奈が自分の手を重ねてきた。

 夜、子どもが眠ったあとも、一緒に座っていられる。時間を気にしながら別れなくてよくなる。

 そう言われると、金額だけを理由に断るのが難しかった。

 

「楽しみだけど」

「ね。ほかのは、あとでもいいから」

「分かった。その代わり、ほかは今ある物を使おうな」

 

 莉奈は笑った。

 給与明細は、二人の手元から少し離れた場所に置かれたままだった。

 

*

 

 数週間後、千春は宮本の前で合意書案を確認した。

 自分への慰謝料は、二人から合計二百万円。

 航平が百万円、莉奈が百万円を負担する。

 

「神崎誠司さんへの支払いも含めて、お二人は、それぞれ二百万円を負担することで合意されています」

 

 宮本の説明を聞きながら、千春はメモと書面を照らし合わせた。

 誰から誰へ、いくら支払うのか。話し合いのたびに確認してきた内容が、ようやく一枚にまとまっていた。

 

 湊の養育費は、月額三万円。

 親権者の欄には、千春の名前がある。面会は原則として土曜日。

 

「会う日の変更は、必ず私に連絡してもらいたいです」

「はい」

「湊に『ママに言っといて』って頼むのは、やめてほしくて」

 

 息子の口から予定を聞き、航平へ確認し直すようなことにしたくなかった。

 大人の間に立って顔色をうかがう役目は、もう負わせたくない。

 

「お二人で直接連絡を取るよう、ここにも書いておきましょう」

 

 宮本が書き足す箇所を示した。

 千春はうなずき、もう一度最初から読み直した。

 

 決めなければならないことが減るたび、終わりが近づいた。

 安心する気持ちと、戻れなくなる怖さは、まだ一緒にあった。

 それでも、書面の不明なところをそのままにせず、千春は一つずつ質問した。

 

*

 

 自宅で、千春は迎えの予定表を広げた。

 火曜と木曜は自分。月曜、水曜、金曜は永井。

 勤務の調整も、支援の利用も、来週から始められる。

 

「預け先、決まったんだ」

「うん。来週から、この予定でいける」

 

 航平が予定表をのぞいた。

 

「じゃあ、話してた日に出ていっても大丈夫?」

 

 千春はしばらく紙を見てから、うなずいた。

 

「ありがとう。助かった」

 

 思わず、夫へ目が向いた。

 自分は、湊との生活を続けるために動いていた。

 航平には、それが家を出る準備の完了に見えている。

 

「いや、手配してくれて」

 

 夫は言い直した。

 千春は何も返さず、予定表を自分のかばんへしまった。

 これから先、何度も開いて確かめるのは、自分なのだと思った。




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