イクメンの処刑日~妻と子どもを捨てた男の末路~ 作:桐山さくらこ
玄関に旅行かばんと段ボールが並ぶと、湊は航平の服の裾をつかんだ。
条件を書面にまとめ、離婚の手続きを終えた日のことだった。
「パパ、もうここで寝ないの?」
「うん。別の家で暮らす」
「なんで?」
航平は湊の前にしゃがんだ。
何度か説明はしていた。それでも、息子にとっては、荷物が本当に運び出される今日になって初めて分かることがあった。
「パパとママで、別々に暮らすことに決めたんだ」
「ぼくは?」
千春も、その隣へしゃがんだ。
「ママと、ここにいるよ。幼稚園も今までどおり」
「パパとは遊べない?」
「遊べるよ。明日の土曜日、迎えに来る」
「絶対?」
「うん。約束する」
湊は、握った手をなかなか開かなかった。
千春は待った。
早く離れてほしい気持ちで、息子の手まで急がせたくなかった。
「湊。聞きたいことは、いつでも聞いていいからね」
「ママにも、パパにも?」
航平がうなずいた。
「うん。もう、内緒にしなくていい」
湊は父親の顔を見上げ、ようやく手を離した。
かばんの持ち手が起こされる。航平が靴を履く。
何年も見てきた外出の支度なのに、今日は帰る時間を尋ねることができなかった。
*
翌日、航平は約束どおり迎えに来た。
湊はうれしそうに出かけ、夕方には公園の話をたくさん持ち帰った。
けれど、夕飯の席に父親の分はなかった。
平日になっても、それは変わらなかった。
「パパ、今日も帰ってこない?」
湊が空の椅子を見ながら尋ねた。
「うん。でも、土曜日には会えるよ」
「土曜日」
「カレンダーに印をつけようか」
千春は冷蔵庫に貼ったカレンダーを下ろした。
土曜日の欄に赤い丸をつけ、パパと公園、と書く。
湊は今日の日付から、その丸まで指を動かした。
「ここ?」
「そう。ここになったら」
紙を冷蔵庫へ戻すと、湊はもう一度見上げた。
千春も一緒に見た。
夫がいなくなった日ではなく、息子が楽しみにできる日を印にできたことに、少しだけほっとした。
その夜、航平から通知が届いた。
千春は洗濯物を置き、両手でスマートフォンを持った。
『次の土曜日も、十時で大丈夫?』
迎えの連絡だった。
うん、待ってる、と打って送る。
何を期待していたのだろう。
返信した画面を見ながら、千春は膝の上へ手を下ろした。
戻ってきて、と言うつもりはなかった。
けれど、寂しくないだろうかと思った。
自分たちのいない部屋で、夫も何かを思い出しているのではないか。
そんな期待を、通知が来るたびにしてしまった。
隣の椅子には、湊の明日の着替えがある。
千春は画面を伏せ、服を畳み直した。
*
莉奈も離婚し、陸を連れて家を出た。
神崎家の玄関で、誠司は息子の風車を直していた。
曲がった羽を少し開くと、陸が息を吹きかけた。
「回った」
「今度、パパの家で大きいのも作ろう」
「いつ?」
「次の日曜日。カレンダーにつけた日だよ」
莉奈が答えた。
陸は父親の手を握ったまま、風車を見ていた。
誠司はその手を、しばらく握り返していた。
航平と莉奈の新居には、ベージュのソファが届いていた。
食卓には婚姻届が置かれ、二人の名前が並んでいる。
「名前のところ、間違えてない?」
「うん。大丈夫」
「やっとだね」
莉奈が笑った。
航平も笑い返した。
以前なら、どちらかが帰る時刻を気にしなければならなかった。今日は、この部屋に二人とも残る。
「ちゃんと幸せになろうね」
「なろう」
婚姻の手続きも終えた休日の朝、食卓にはトーストと卵料理が並んだ。
窓辺で、航平は陸と積み木の塔を作っていた。
「航平さん、見て! できた!」
「お、前より高い」
莉奈が食事に呼ぶ。
このまま置いておいて、と陸が言うと、航平は壊さないよと返した。
「こういう朝が、ずっと欲しかった」
莉奈の言葉に、航平はうなずいた。
「これからは、毎週あるよ」
「来週、どこか行こうか」
「いいね。弁当持って」
「じゃあ、私が作る」
二人は顔を見合わせた。
来週の予定を話すことが、何よりもうれしかった。
*
千春の新しい生活は、予定表を作っただけでは落ち着かなかった。
電車が止まった日は、駅で永井へ電話をした。
帰宅が遅れると伝えると、湊は今おやつを食べているという。
息子の様子を聞けて、ようやく胸のつかえが下りた。
帰ると、恐竜のパズルが完成していた。
「一人で?」
「難しいところは、永井さんに手伝ってもらった」
湊が指したのは、首の長い緑色の恐竜だった。
千春は隣へ座り、つながったピースを一緒に見た。
永井に礼を言い、見送ってから夕食を用意する。
息子が眠ったあとも、明日の準備が残っていた。
時計は十一時を回っていた。
洗濯物を膝に載せたまま、千春は目を閉じた。
ああ、まだ米を研いでいない。
思い出すと、体がいっそう重くなった。
それでも、立ち上がれば一つは終わる。千春は服をかごへ戻し、台所へ向かった。
*
土曜日の朝、湊が千春を見上げた。
「パパに会いたいって言っても、いい?」
「いいよ。今日は来る日だよ」
「ママ、怒らない?」
千春は手を止めた。
「怒らないよ」
「パパのこと話すと、ママ、静かになるから」
しゃがんで、息子の顔を見た。
父親の話をしてはいけないと、思わせていた。
話していいと言いながら、その言葉を受け止める顔ができていなかった。
「……そうだったね。ごめん」
千春は息を整えた。
「パパが来るの、楽しみだった?」
「うん」
「帰ってきたら、何して遊んだか教えてね」
「いっぱいお話していい?」
「いいよ。いっぱい聞かせて」
湊が笑った。
千春の中の痛みは、まだ消えていなかった。
それでも、今日楽しかったことを、息子がしまい込まずに帰ってこられるようにしたかった。
*
「これで終わり」
航平はスポンジを置いた。
新居の台所には、使い慣れた物と、莉奈が選んだ新しい物が混じっている。
水切りかごへ最後の皿を立てると、隣で莉奈が布巾を広げた。
「ありがとう」
航平が手を拭いている間に、彼女は皿を裏返した。
「あ、ここ、まだ油がついてる」
聞き覚えのある言葉だった。
「もう一回、お願いしていい?」
「またそれか」
「また?」
莉奈が顔を上げた。
航平は口を閉じかけ、言い直した。
「いや。洗ったんだけど」
「うん。でも、ここ」
「気になるなら、自分で洗えば?」
前の家では、そこで話が終わった。
千春は黙って流しへ向き直り、航平は机に戻ることができた。
けれど、莉奈は皿をかごに戻さなかった。
「洗うって言ったじゃない。まだ汚れてるんだから、洗ってよ」
「一枚くらい……」
「だったら、すぐ終わるでしょ。お願い」
皿が差し出された。
航平は受け取り、蛇口をひねった。
泡のついたスポンジで裏をこすると、確かに指の感触が変わった。
莉奈は隣で別の皿を拭いていた。
手伝ってくれてうれしいと言っていた人まで、細かいことを言う。
航平はそう思い、息を吐いた。
自分が最初に言った「終わり」の方を、確かめ直すことはしなかった。
*
数週間たっても、食卓には菓子店の箱や外食のレシートが置かれた。
航平は月末の支払いを気にするようになっていた。
莉奈は買い物から帰ると、大きな紙袋を食卓へ載せた。
「何、買ったの?」
「バッグ。前から見てたの、やっと入って」
取り出した革のバッグを、莉奈は肩へかけた。
航平の目は、脇に置かれたレシートへ向いた。
「……五万八千円?」
「私のお金で買ったのよ」
「来月の支払いもあるだろ」
「生活費は、ちゃんと残してあるから」
航平は紙袋を見た。
ソファだけだと思っていた。そのあと食器を買い、今日はバッグだった。
「最初だけって言ってたからさ。この前は食器も買ってたし」
「食器は二人の物でしょ。これは自分のお金で買ったの」
「毎月それが続いたら、貯金なくなるぞ」
「航平のお金じゃないんだから、そこまで言わないでよ」
莉奈はバッグを袋へしまった。
喜んで見せたかったのに、帰ってくるなり値段の話になる。
自分の貯金で買っているのだから、何も困らせていないと思っていた。
航平は、これ以上言えば喧嘩になると思い、口を閉じた。
数日後、莉奈の方から生活費の話が出た。
「今月、少し多めに入れられない?」
「何かあった?」
「食費とか、思ったより出ていくから。足りない分、また私の貯金から出したの」
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