イクメンの処刑日~妻と子どもを捨てた男の末路~ 作:桐山さくらこ
航平は家計のメモを開いた。
手取り二十四万円から、家賃が八万円。光熱費と通信費で二万円。湊の養育費が三万円。
食費と日用品に六万円、交通費などに三万円を見込むと、残るのは二万円だった。
「俺の方も、二万しか残らない」
「二万じゃ、週末に出かけたらなくなるじゃない」
「結婚する前に、明細も見せたよな」
「見たよ。でも、結婚してから節約の話ばっかり」
莉奈にとっては、いくら受け取るかと、どれくらい買い物を楽しめるかが、まだ別の話だった。
航平は紙の数字を指した。
「だから、外で食べる回数を減らそうって言ってるんだよ」
「ご飯食べに行くだけで、いちいち気にしなきゃいけないの?」
「月に一回くらいなら行けるよ。でも、毎週は無理だ」
「バッグだって、航平に買ってもらったわけじゃないのに」
「その分、生活費を多くくれって言われても、出せないよ」
莉奈は通帳を閉じた。
「せっかくの新しい生活なのに、好きなものも買えないんだね」
航平は紙を見下ろした。
もっと大きな金額をどこかに書き足せれば、莉奈は笑ってくれるのだろうか。
けれど、何度引き算をしても、残額は変わらなかった。
*
翌晩、航平は短時間勤務の求人を見せた。
「陸が幼稚園に行ってる間、少し働くのはどうかな」
「私が?」
「うん。無理のない時間で」
莉奈は画面を受け取らなかった。
「なんで私がパートなんかに出なきゃいけないの?」
「今の買い物を続けたいなら、どこかで増やさないと」
「働くなんて、結婚する前は言ってなかった」
「贅沢はできないって言っただろ」
「少し節約すればいいくらいに思ってたの」
航平は言葉に詰まった。
明細を見せた。家賃も養育費も伝えた。それで分かり合えたつもりだった。
莉奈は、一緒にご飯が食べられればいいと言った。
航平は、その言葉を都合よく最後の答えにしていた。
「買い物を減らせるなら、無理にとは言わないよ」
「じゃあ、航平がもっと稼いでよ」
「簡単に言うなよ」
「だって、私はこの家のことも子どものこともあるのよ」
千春も、家のことと湊のことをしながら働いていた。
その記憶が浮かび、航平は黙った。
それを口にすれば、自分が千春に言われて嫌だったことを、莉奈へ返すことになる。
「誠司とは、こんなお金の話をしなくてよかったのに」
莉奈の言葉が、胸に残った。
航平は求人画面を閉じた。
深夜、今度はパソコンで自分の転職先を探した。
今より高い月給の求人には、原則出社と書かれていた。
手元の勤務予定表には、在宅勤務の文字と、五時の迎えの予定が並ぶ。
転職したら、今のようには迎えに行けなくなる。
休みの取りやすさも変わるかもしれない。
航平は、弁当を広げた休日の写真を見た。
莉奈も陸も笑っている。
もう一度、このときのように過ごしたかった。
求人の画面に戻り、応募条件を一つずつ確かめ始めた。
*
転職先は、すぐには決まらなかった。
航平は仕事の合間に応募し、面接の時間を調整した。
これまで担当した業務を書き出すと、思っていた以上に説明に詰まる箇所があった。
毎日やっていることでも、初めて会う相手には、順番に話さなければ伝わらない。
面接を終えて帰る日には、今の会社の仕事が残っていることもあった。
迎えに行き、陸を莉奈へ預けてからパソコンへ戻る。
このままでよいのではないかと思う瞬間もあった。
けれど、通帳を見ながらため息をつく莉奈の姿を思い出すと、応募をやめることはできなかった。
数か月後、ようやく内定が出た。
航平は通知と、自分で手取りを試算したメモを食卓へ置いた。
「内定が出た」
「本当?」
莉奈が顔を上げた。
「手取りで、今より五万くらい増えると思う」
「よかった。頑張ってくれたんだね」
久しぶりに、その顔をまっすぐ見られた。
航平はうなずき、続けた。
「ただ、基本は出社。帰りも遅くなる」
「毎日?」
「うん。迎えは、今みたいにはできない」
莉奈は少し黙った。
航平は、ここは話しておかなければと思った。
「お迎え、大丈夫?」
「うん。大丈夫。今までもやってたことだし」
「今の会社、休みも取りやすかったんだけどな」
「でも、お給料はずっと変わらないんでしょ?」
そう簡単には増えない。
航平が答える前に、莉奈はメモをもう一度見た。
「お迎えは私が行くから。せっかく決まったんだし」
「分かった。返事する」
航平は通知を自分の方へ引き寄せた。
今度は、条件を聞いたうえで決めてくれた。
二人で選んだことなのだから、きっとうまくいくと思いたかった。
その夜は、目玉焼きの載ったハンバーグだった。
「わ、ハンバーグ」
「好きでしょ。お祝い」
「ありがとう」
莉奈が向かいに座り、これから少し楽になるねと言った。
航平も、うん、と答えた。
陸が黄身を崩し、皿の上へ広がっていくのを面白がっている。
航平は久しぶりに、支払いの話をせずに食事をした。
「来月くらいなら、あのレストランも行ける?」
「落ち着いたらな」
うれしそうな莉奈を見て、これでよかったのだと思った。
*
同じ頃、千春は職場で引き継ぎの方法を見直していた。
火曜と木曜に五時で帰ることは、チームの協力で続けられていた。
けれど、夕方になってから確認が必要なことが見つかると、代わりに出席する同僚へ何度も説明をし直さなければならなかった。
千春は一枚の表を作った。
案件名、進捗、夕方の確認事項、担当者。
単に仕事を並べるだけでは足りず、どこまで済んでいて、何を決めてほしいのかを書くようにした。
「千春、これ助かる。前は毎回聞いちゃってたから」
同僚の三浦真帆が表を見ながら言った。
「こっちこそ。いつも代わってもらってるし」
「明日の朝の集計、お願いして大丈夫?」
「うん。出社したらすぐやるね」
佐久間が、二人の予定を確かめた。
「じゃあ、来月もこの担当でいこう」
「はい」
千春は表へ書き込んだ。
助けてもらうたび申し訳なくなり、何でも自分で引き受けたくなる日もあった。
けれど、無理をして途中で止まってしまえば、また誰かが困る。
できる時間に、引き受けた仕事を終える。
そのために必要なことを、早めに話すようにした。
五時にかばんを持ったとき、真帆がこちらを見た。
「あとは大丈夫。行ってきて」
「ありがとう。明日の朝、確認するね」
千春は職場を出た。
まだ明るい道を駅まで歩く。
今日は自分が迎えに行く日だと、湊は朝から何度も確かめていた。
その顔を思い出すと、足が少し速くなった。
*
新しい職場に移って一か月。
航平が玄関を開けたのは、午後十時半だった。
「ただいま」
「おかえり。ご飯は冷蔵庫」
莉奈は食卓に座っていた。
航平は靴をそろえながら尋ねた。
「陸は?」
「もう寝た」
「そっか。ごめん、遅くなった」
慣れない仕事で、毎日確認することが多かった。
以前ならすぐ判断できたことでも、今の会社のやり方を確かめなければならない。
家に着く頃には、頭の中に言葉を入れる余地がほとんど残っていなかった。
「今日、お迎えでずっと帰りたくないって言われて。買い物もできなかった」
「大変だったな」
椅子の背にもたれ、目を閉じた。
「ちょっと、寝ないでよ。まだ話してるんだけど」
「ごめん。聞いてる」
「転職してから、ずっとそんな顔」
「慣れるまでは、少しかかるよ」
「いつ慣れるの?」
航平は目を開けた。
「まだ一か月だよ」
「私、一人で家のことをするのが嫌だったのに」
「帰りが遅くなることは、話しただろ」
「こんなに、何もしてくれなくなるとは思ってなかった」
朝も休日も、できることはしている。
そう返すと、莉奈は、前はもっと話を聞いてくれたと言った。
航平は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
ラップのかかった皿を手に取る。
温める時間を確かめながら、何と答えればいいのか考えた。
給料を増やすために、家にいられる時間を減らした。
それは伝えたはずだった。
けれど、帰りを待つ莉奈の顔は、内定の日とは違っていた。
電子レンジが動き始めた。
その音の中で、莉奈がまた話し出した。
航平は冷蔵庫の扉を閉め、眠気の残る目を、妻へ向けた。
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