イクメンの処刑日~妻と子どもを捨てた男の末路~ 作:桐山さくらこ
新しい会社から振り込まれた給与は、ほぼ試算どおりだった。
手取り二十九万円。
航平は家計のメモへ書き込み、莉奈に見せた。
「……前より五万円か」
莉奈がつぶやいた。
航平は顔を上げた。
「話してたくらいには、増えただろ」
「誠司なら、もう少し……」
その名前を聞くと、最近は体が硬くなった。
知っている。前の夫の方が稼いでいたことは、莉奈と暮らし始める前から分かっていた。
それでも自分といたいと言ったのは、彼女だった。
「誠司さんと比べるの、やめてくれないか」
「だって、同じように帰りが遅いんだもの」
「お前が、もっと稼いでって言ったんだろ」
「誠司は、もっと家にお金入れてくれてたよ」
航平は黙った。
莉奈が、何、とこちらを見る。
その顔の向こうに、別の食卓が浮かんだ。
千春は園のプリントを持っていた。
焼き菓子を見て、今度お礼を言わなければと笑った。
その妻に、自分は莉奈が陸とクッキーを作った話をした。
『千春も、休みの日くらいやってみたら?』
『分かってる。でも、その人と私を比べないで』
あのときは、比べていないと言った。
ただ、子どものために少しは、と。
莉奈の言葉を聞いている今なら、千春が何に傷ついたのか、分からないとは言えなかった。
「聞いてるの?」
「……聞いてるよ」
航平はメモへ目を戻した。
増えた金額は、ちゃんとそこにあった。
それを確かめても、うれしい気持ちは戻ってこなかった。
*
休日、湊を迎えに行くと、千春はいつもより大きなイヤリングをつけていた。
航平が見ている間に、湊が靴を履いて出てきた。
「パパ!」
「今日はどこに行きたい?」
「大きい公園」
「いいよ」
千春が息子のかばんを渡した。
「帰りは五時で大丈夫?」
「うん。そっちは、出かけるの?」
「友達とご飯。久しぶりに予定が合ったから」
「仕事は?」
「今日は休み」
千春は不思議そうに航平を見た。
「どうしたの?」
「いや、普段。大丈夫なのかと思って」
「だいぶ落ち着いたよ。頼めるところも決まったし」
仕事も、湊の迎えも、一人でどうにかしているのだと思っていた。
自分がいなくなったぶん、疲れた顔をしているのではないかと、どこかで想像していた。
けれど、千春は次の予定を話す人の顔をしていた。
「変更があったら、連絡してね」
「分かった」
「いってきます!」
「いってらっしゃい」
イヤリングが小さく揺れた。
航平はその横顔を見ていた。
「パパ、行こうよ」
「ああ。行こうか」
息子の手を握り直して歩き出した。
千春が笑って見送ることを、少し前なら当然のように受け取っていた。
今日は、その笑顔が自分のためのものではないことを、強く感じた。
*
陸も、誠司と過ごす日を楽しみにしていた。
ある日、送り届けてきた父親の隣で、色紙の風車を回して見せた。
「パパが途中で間違えた!」
「難しかったな」
誠司が笑った。
莉奈は二人の顔を交互に見た。
「来月の発表会、日程はこれで合ってる?」
誠司のスマートフォンには、園のお知らせが表示されていた。
来月の第二金曜日、午前十時開演。
「うん。その日」
「休みを申請してみる」
「来られるの?」
「まだ分からないけど、聞いてみる」
莉奈は思わず言った。
「前は、そういうこと言わなかったのに」
「この前、見に来てって頼まれたんだ」
誠司は陸へ目を向けた。
息子が来てねと言うと、決まったら連絡するよと答えた。
できると言い切らないところは以前と同じだった。
けれど、聞いてみると口にしてくれたことが、莉奈には惜しかった。
家にいた頃に、その言葉が欲しかった。
発表会の日、誠司は本当に来た。
園のホールで、莉奈の隣の席へ座った。
「休めたんだ」
「うん」
「航平は、仕事で」
「そうか」
莉奈は膝の上の手を組み直した。
「給料が少し上がっただけで、前より全然家にいなくなっちゃった」
誠司は舞台を見ていた。
莉奈は、その横顔へ続きを話そうとした。
「……始まるよ」
誠司が小さく手を振った。
舞台の上で陸が客席を探していた。父親を見つけると、口元を緩め、すぐに前を向き直る。
誠司は、それを見て笑った。
発表会が終わると、陸が駆け寄ってきた。
「見てた?」
「最初から見てた。前に教えてくれた踊り、あれだったんだな」
「家でやったのと違うところもあったよ」
「そうだった。難しくなってた」
莉奈は二人の隣に立っていた。
かつて欲しかった景色が目の前にあるのに、そこへ戻った気はしなかった。
誠司が聞いているのは、陸の話だった。
*
夜、莉奈はお礼のメッセージを送った。
『今日はありがとう。陸、すごく喜んでた』
『こちらこそ。次に会う日は予定どおりで大丈夫?』
莉奈は画面を見つめ、少し迷って打った。
『大丈夫。私、最近少し疲れてて』
誠司なら、事情を分かってくれるかもしれない。
自分がどんなことで疲れ、何を望むのか、長く一緒に暮らした彼なら。
『会う日を増やしたいってこと?』
莉奈の指が止まった。
そうじゃなくて、私の話を。
そこまで入力し、返事を読み直した。
誠司が相談に応じようとしているのは、陸に関わることだった。
莉奈は打ちかけた文章を消し、何もない入力欄を見ていた。
*
「お母さん、少しそっちに帰ってもいい?」
夕方、莉奈は母親の大沢和恵へ電話をかけた。
航平はまだ仕事から戻っていない。陸は居間で遊んでいた。
「一人で?」
「陸も。あの部屋、まだ空いてる?」
「空いてるけど。どうしたの?」
莉奈は廊下へ出た。
「うまくいかなくて。毎日、お金の話ばっかり……」
「莉奈、この前結婚したばっかりじゃない」
分かっている。
その言葉を、誰より自分が思っていた。
幸せになると決めて家を出たのに、以前と同じように夫の帰りを待ち、以前にはなかった金の心配までしている。
「分かってるよ。帰ったら、話聞いてくれる?」
母はしばらく黙った。
「……分かった。布団は出しておくよ」
電話を切り、莉奈は息を吐いた。
少なくとも、帰れる部屋はある。
そう思うと、今の部屋を離れることが現実の予定になった。
けれど、実家でこれからずっと暮らしたいわけではなかった。
母に何から説明するのか。陸にどう話すのか。考えることは多い。
そんなとき、誠司と陸が発表会のあとで笑っていた姿を思い出した。
以前の家へ戻れれば。
陸も喜ぶはずだと考えると、その願いを自分だけの都合ではないように思えた。
*
陸を迎えに行った日、莉奈は誠司の家の玄関で足を止めた。
息子は奥の部屋で荷物をまとめている。
「少しだけ、話していい?」
「何?」
「陸、ここに来るの楽しみにしてる」
「俺も楽しみだよ」
誠司は、息子の上着を莉奈へ渡した。
前はこんなふうに、必要な物を確かめて持たせてくれただろうか。
今の彼なら、一緒に暮らしても違うかもしれない。
「帰りたくないって言ったりしない?」
誠司の手が止まった。
「……どうした?」
遠回しな言葉では先へ進めなかった。
莉奈は上着を抱き直し、顔を上げた。
「もう一度、三人で暮らせないかな」
誠司は黙っていた。
すぐに否定されなかったので、莉奈は続けた。
「前は、寂しいってばっかり言ってごめん。仕事、大変だったのにね」
「今の結婚はどうするんだ」
「誠司がいいって言ってくれるなら、別れる」
口にすると、誠司の顔が変わった。
「俺と別れて、あの人と結婚したんだろ」
「うん。だから、今度こそちゃんとする」
誠司は、視線を一度床へ落とした。
莉奈はその返事を待った。
失敗したことは謝っている。働いていた夫の大変さも、以前より分かったつもりだった。
今度なら、前と同じ間違いをしなくて済むかもしれない。
「……無理だよ」
短い答えだった。
「陸だって喜ぶと思う。一度、考えてくれない?」
「莉奈が俺を裏切ったこと、忘れられない」
莉奈は何か言おうとした。
けれど、誠司の目を見て言葉が詰まった。
陸に向けていた優しさを、自分にも向けてもらえると思っていた。
彼が今も傷ついていることを、十分に考えずに来てしまった。
「この話は、もう終わりにしてくれ」
奥から足音がした。
陸がリュックを背負って現れ、準備できた、と言った。
「……じゃあ、帰ろう」
莉奈は息子の手を取った。
玄関を出てからも、誠司が呼び止めることはなかった。
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