妹と不倫した夫の処刑日~実の妹と肉体関係を持った男の末路~   作:桐山さくらこ

1 / 10
友達のお兄ちゃん

隣の布団が、空だった。

 

「……京介?」

 

 夫の実家の客間で、沙耶は上体を起こした。枕元には二人分のスマートフォンが並んでいる。喉が渇いて目を覚ましたのだが、呼びかけても返事はなかった。

 

 トイレだろうか。

 

 廊下へ出ると、洗面所は暗かった。二階からかすかな声がする。階段を上がる途中で、それが真由の声だとわかった。

 

 夫の妹。そして、高校時代からの親友。

 

 少しだけ開いた扉へ、沙耶は何の警戒もせずに近づいた。

 

 その向こうにいた二人を見て、足が止まった。

 

 同じベッドに、京介と真由がいた。

 

 兄と妹が夜更けの雑談をしているのだと、思おうとした。けれど、二人の距離も、交わしている言葉も、その解釈を許してくれなかった。

 

 息を吸ったはずなのに、胸に空気が入ってこない。

 

 私は、すぐ下で寝ていたのに。

 

 壁についた手が滑った。声を出せばいい。名前を呼べばいい。それだけのことが、できなかった。

 

 真由。どうして。

 

 あなたにだけは、何でも話せたのに。

 

*

 

 京介を好きになった日のことを、沙耶はずっと覚えていた。

 

 高校に入ったばかりの春だった。

 

 体育館には、床を蹴る靴の音が響いていた。隣で真由が手すりに頬杖をつき、コートを指さす。

 

「ほら、七番。あれ、うちのお兄ちゃん」

 

 ボールを受けた男子生徒が、相手の脇を抜けた。軽く跳んだと思ったら、ボールはリングの中へ落ちていた。

 

 歓声が上がる。

 

 沙耶は拍手をしかけ、そのまま彼を見ていた。

 

 七番の彼は、得点を喜ぶより先に、接触して床に尻もちをついた味方へ手を差し出していた。引き起こしながら何か言い、二人で笑う。

 

 その笑顔が、妙に胸に残った。

 

「……かっこいいね」

 

「え。お兄ちゃんが?」

 

 真由がこちらを向いたので、沙耶は慌ててコートを指さした。

 

「今のシュート。すごかったから」

 

「顔、赤いけど」

 

「体育館が暑いんだよ」

 

 窓からは、まだ冷たい春の風が入っていた。

 

 真由はそれ以上からかわず、にやにやしながら前へ向き直った。その横顔を見て、沙耶まで笑ってしまう。

 

 高校に入ってすぐ、席が近かった。それだけで話し始めた相手なのに、真由とは妙に気が合った。昼休みに購買へ行くときも、帰りに寄り道するときも、どちらからともなく隣を歩くようになっていた。

 

 翌週、初めて真由の家へ遊びに行った。

 

「沙耶ちゃんね。いらっしゃい」

 

 玄関で迎えてくれた母親の恵子は、娘によく似た目元をしていた。

 

「真由から、いつも聞いてるわよ」

 

「変なこと言ってないですよね?」

 

「言ってないってば」

 

 真由が沙耶の背中を押す。その拍子に廊下の奥から人が現れ、沙耶は思わず立ち止まった。

 

 体育館で見た七番の人だった。

 

 制服の上着を脱ぎ、片手に教科書を持っている。コートにいたときよりずっと近くて、何を言えばいいのかわからなくなる。

 

「真由の友達?」

 

「そう。沙耶」

 

「こんにちは」

 

 声が小さくなった。京介は聞き返さず、同じように挨拶をしてくれた。

 

「この前、試合見に来てたよね」

 

「覚えてるんですか?」

 

「二階にいたでしょ。真由の隣」

 

 見られていた。

 

 それがうれしいのに、うれしいと知られるのは恥ずかしい。沙耶が返事を探していると、真由が横からあっさり言った。

 

「沙耶、お兄ちゃんのこと、かっこいいって」

 

「真由!」

 

「言ってたじゃん」

 

 京介も少し困った顔をした。それでも、笑ってごまかすのではなく、沙耶を見てくれた。

 

「……ありがとう」

 

「シュートが、です」

 

 慌てて付け足すと、彼はうなずいた。

 

「そっか。次も入るように練習しないとな」

 

 からかわれなかったことに、ほっとした。

 

 真由の部屋へ上がってから、沙耶は鞄を下ろすより先に抗議した。

 

「なんで言うの」

 

「だって、本当のことでしょ」

 

「そうだけど。そういうのは、勝手に言わないで」

 

「はいはい。ごめん」

 

 真由が両手を合わせるので、怒った顔を続けられなかった。

 

 部屋の小さなテーブルには、雑誌が何冊も積まれていた。恵子が持ってきてくれたマグカップを挟み、二人でページをめくる。欲しい服の値段を見て同時に黙り込み、次のページの靴を見てまた笑った。

 

 夕方、鞄を持とうとした沙耶を真由が呼び止めた。

 

「これ、半分こしない?」

 

 差し出された袋には、小さな花の形の髪留めが二つ入っていた。ピンクと、水色。

 

「二個セットだったんだけどさ。どっちも好きで、決められなくて」

 

「いいの?」

 

「沙耶、ピンク似合いそう」

 

 言いながら、真由が沙耶の前髪に留めてくれた。指先が額をかすめて、少しくすぐったい。

 

 真由は自分に水色をつけ、鏡を二人の真ん中へ置いた。

 

「どう?」

 

「かわいい」

 

「私が?」

 

「髪留めが」

 

「そこは私って言ってよ」

 

 肩が触れるほど寄り合って、笑った。

 

 鏡の中の自分たちは、昨日より少し親しい二人に見えた。学校で出会ってまだ日が浅いのに、これから先もこうしている気がした。

 

「明日もつけてきてね」

 

「うん。真由もね」

 

 玄関で靴を履くと、奥から京介の声がした。

 

「気をつけて」

 

 沙耶は振り返って頭を下げた。彼のそばで、真由が大きく手を振っている。

 

 帰り道、何度も前髪に触れた。

 

 好きな人ができた。

 

 その気持ちを、最初に話せる友達もできた。

 

 春の夕暮れの中で、沙耶はそれを疑いようのない幸せだと思っていた。

 

*

 

 京介の部屋から、少しずつ物がなくなっていった。

 

 大学を卒業し、就職先の近くで一人暮らしを始めることになったのだ。段ボールには、衣類、本、と太い字が書かれている。

 

 真由は入口に立ち、床に転がっていたバスケットボールを見た。

 

「それ、持っていくんだ」

 

「うん。向こうでも、できたらやろうかなって」

 

 京介が持ち上げると、少し空気の抜けたボールが指の下でへこんだ。

 

「まず空気、入れなきゃね」

 

「そうだな」

 

 こんなふうに話す時間が、なくなる。

 

 朝、洗面所で順番を待つことも。帰ってきた音を聞きつけて、今日あったことを話しに行くことも。

 

 就職が決まったときは、よかったねと言えた。けれど、空いていく本棚を見ていると、その先にある暮らしが急に現実になった。

 

 机の引き出しから、古い写真が出てきた。

 

「懐かしいな」

 

 京介が床に座り、真由もその隣に腰を下ろした。写真の中では、小学生の二人がボールを抱えている。

 

「このころ、お兄ちゃん、一回すごい泣いたよね」

 

「泣いた?」

 

「試合で負けたとき。庭の隅で」

 

「そんなの、よく覚えてるな」

 

 覚えていた。

 

 普段は真由の前で何でもできる顔をする兄が、その日は膝に顔を埋めていた。どう声をかけていいかわからず、隣にしゃがんだ。しばらく待ってから、明日、ボール拾ってあげる、と言った。

 

 京介は顔を上げないまま、ありがとうと答えた。

 

 泣いたことは誰にも言わないでくれと頼まれ、真由はうなずいた。自分だけが知っている兄の弱さを、大切に預かったような気がした。

 

 兄に助けてもらったこともあった。

 

 中学生のころ、同級生の井上菜穂たちに囲まれたことがある。取り返そうと手を伸ばした体操着袋を、わざと泥の上へ落とされた。

 

 笑われるのが嫌で、泣くこともできなかった。

 

 そこへ、下校途中の京介が来た。

 

「何してるの」

 

 大声ではなかった。けれど、菜穂たちは顔を見合わせ、言い訳をして離れていった。京介は汚れた袋を拾い、真由の制服に泥がつかないよう、自分で持ってくれた。

 

「また何かされたら、言って」

 

「言ったら、もっと嫌なことされるかも」

 

「そしたら、また助ける。必ず助けてあげるから」

 

 その言葉があったから、翌日も学校へ行けた。

 

 写真を箱へしまう京介の手を、真由は見ていた。

 

 優しい兄だった。それは本当だ。けれど、兄でいてくれた時間と、自分が望むものを、一緒にしていいはずはなかった。

 

「仕事、大丈夫かな」

 

 京介がぽつりと言った。

 

「何が?」

 

「研修。周り、みんなできそうだった」

 

「最初からできる人なんて、いないんじゃない?」

 

「まあ、そうなんだけど」

 

「わかんないことは聞けばいいじゃん。お兄ちゃん、わかったふりするから」

 

「しないよ」

 

「するって」

 

 言い返しながら、京介も笑った。

 

 真由の前では、こういう話ができた。情けないところを見られても、翌日にはまた普通に話せる。その気楽さが、京介には当たり前になっていた。




漫画版もお読みいただけます。
『妹と不倫した夫の処刑日~実の妹と肉体関係を持った男の末路~: 匿名希望の体験談⑬【コミック】 (ヴァンクール出版)』
Amazonで漫画版を見る

漫画版はKindle Unlimited対象作品です。
Kindle Unlimited会員の方は、追加料金なしでお読みいただけます。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。