妹と不倫した夫の処刑日~実の妹と肉体関係を持った男の末路~ 作:桐山さくらこ
けれど、入力する前に、真由の声が戻った。
もう、私に頼らないで。
京介は指を止めた。
話を聞いてくれる相手は、いつでもそこにいると思っていた。少し待てば、怒りは収まると思っていた。
沙耶との画面も開いた。
必要な荷物はすべて受け取りました。
それが、最後の連絡だった。
〈もう一度〉
そこまで打った。
続きが書けなかった。
もう一度、何をするのか。話を聞いてほしい。家へ戻ってほしい。前のように笑ってほしい。
沙耶が求めた本当のことを、自分は言わなかった。真由には、話すなと言った。どちらにも、自分の望む形でそばにいてほしかった。
画面を伏せた。
「戻ってきてくれよ」
向かいの椅子は、空いていた。
玄関で鍵が回る音を、しばらく待った。
何も聞こえなかった。
*
沙耶の新しい部屋には、午後の日差しが入っていた。
窓を開けると、カーテンが少しだけ膨らむ。広い部屋ではなかったが、どこに何を置くか、すべて自分で決められた。
「この棚、ここでいい?」
理恵に聞かれ、沙耶は台所から振り向いた。
「うん。そこが使いやすそう」
箱から白いマグカップを出した。自分で持ってきた、自分が使うためのものだった。
棚へ置き、一歩下がって眺めた。
母が、明るい部屋ねと言った。
「午前中も、結構入るんだって」
「じゃあ、朝起きるのも気持ちいいね」
沙耶はうなずいた。
新居を探すとき、真っ先に確かめたのは、会社までの距離と家賃だった。けれど、実際に見に来たら、窓のそばで立ち止まってしまった。
ここで朝を迎えたいと思った。
スマートフォンで口座を確かめると、取り決めた入金も済んでいた。金額を見て、うれしいとは思わなかった。ただ、決めたことが一つ終わったと、確認して画面を閉じた。
母と二人で箱を畳み、床が見えるようになったころには、日差しが壁の下のほうへ移っていた。
「じゃあ、お母さんは帰ろうかな」
理恵が鞄を手に取った。
沙耶は反射的に、ありがとうと言いかけた。
疲れているだろうし、これ以上引き止めるのは悪い。もう大丈夫だと笑って、見送ればいい。
けれど、まだ少し怖かった。
「お母さん」
「何?」
「もう少し、いてくれない?」
言うと、喉の奥が緩んだ。
「一人になるの、ちょっと寂しい」
理恵は鞄を下ろした。
「いいよ。お茶でも飲もうか」
沙耶はうなずき、湯を沸かした。
白いマグカップの隣に、母の使うカップを置く。今日は二つ。母が帰ったら、一つ。
その数を、自分の気持ちで決めていいのだと思った。
二人で茶を飲みながら、近所のスーパーの場所を話した。帰り道に母が見つけた花屋の話もした。何かを決着させるためではない会話が、久しぶりに心地よかった。
日が暮れる前、今度は沙耶から、もう大丈夫と伝えた。
母を見送ったあと、玄関に立って少し耳を澄ませた。
静かだった。
でも、誰かが嘘を抱えて帰ってくるのを待つ静けさではなかった。
夕飯は、卵を落としたうどんにした。
鍋の中で白身が固まるのを待ち、器へ移す。箸は一膳。座る場所を少し動かし、窓の見えるほうを向いた。
湯気が頬に触れた。
すべてが平気になったわけではない。それでも、離婚のために決めなければならなかったことは終わった。
明日は、自分の明日のことを考えればいい。
一口、汁を飲んだ。
「……おいしい」
誰に聞かせるためでもなく、声が出た。
沙耶はもう一口飲み、今度は少し笑った。
*
新しい部屋で暮らし始めて、数か月が過ぎた。
最初のうちは、休みの日に予定がないことが落ち着かなかった。誰かに会わなければ、一日中嫌なことを考えてしまいそうだった。
けれど、予定を埋めすぎると疲れた。
沙耶は少しずつ、一人で過ごせる時間の長さを知っていった。
朝、洗濯機を回す。お湯を沸かす。今日は何を食べたいか考える。昼まで何もしたくない日には、無理に出かけない。
泣く夜も、まだあった。
街で誰かの髪留めを見て、真由を思い出すこともあった。夫を失ったのとは違う寂しさが、あとから遅れてやってくる。
そんなときは、母に電話した。
毎回、つらかった話をするわけではない。夕飯は何を食べたの、と聞き、母が買いすぎた野菜の話を聞く。それだけで眠れる日も増えた。
春物の服を出すころには、駅から少し遠回りして帰るようになった。
八百屋の前では、夕方になると値札が変わる。花屋には、店の奥で丸くなっている猫がいる。公園のベンチは、午前中のほうが日当たりがいい。
この街で、自分だけが知っていることが増えていった。
*
職場に新しい人が来たのは、そんなころだった。
「今日から一緒に働く、高瀬航平さんです」
上司の村瀬に紹介され、航平が挨拶をした。
沙耶とは同い年だった。
最初に話したのは、資料の置き場所についてだった。共有しているものと、部署内だけで使うものの区別がわかりにくいらしく、航平はメモを持って聞きに来た。
「さっき説明してもらったところなのに、すみません」
「最初は、私も混乱しました」
画面を一緒に見ながら説明すると、航平は途中でわからないところを聞き直した。最後に、自分の理解で合っているか確かめた。
わからないと言われることが、こんなに話しやすいのかと、沙耶は思った。
別の日、航平が作った一覧表に、確認の必要な箇所が見つかった。
彼は言い訳をする前に手元を見直し、自分が一つ前の情報を見ていたと認めた。
「教えてくれて助かりました。直して、もう一度確認します」
特別なことではない。
仕事で間違えたところを、二人で直しただけだ。
それでも沙耶は、会話のあとで、自分の言い方が悪かったのだろうかと考え続けずに済んだ。
休憩時間に話すことも増えた。
どちらの店の弁当が温かいか。雨の日のバスがどれだけ混むか。そんな話から始まり、笑うことが増えていった。
沙耶が忙しいときは、航平は話しかける前に今いいですかと聞いた。断れば、あとにしますと席へ戻った。
その距離が、ありがたかった。
*
航平が来て二か月ほどたった金曜日、片づけをしていると声をかけられた。
「このあと、ご飯どうですか」
沙耶は手を止めた。
「もし予定があれば、また今度」
「いえ。予定はないです」
今日は母へ電話する日でもない。冷蔵庫の中に、今夜中に食べなければならないものもなかった。
何より、空腹だった。
「私もちょうど、お腹が空いてたので」
答えると、航平が笑った。
「よかった。駅の近くに定食屋があるんですけど」
店は、気取らないところだった。
沙耶は魚の定食を選び、航平は少し迷ってから唐揚げにした。注文を終え、水を飲む。
仕事以外で向かい合うと、少しだけ落ち着かなかった。けれど、急に何かを期待されているような息苦しさはなかった。
「休みの日って、何してるんですか」
「最近は、近所を歩いてます」
「散歩?」
「引っ越したので。まだ知らないお店が多くて」
航平は、どんな店があるのかと聞いた。
沙耶は少し考え、笑った。
「パン屋さんが、三軒あるんです」
「それは、いいですね」
「この前、全部回っちゃって」
「一日で?」
「一日で」
航平が驚いた顔をしたので、沙耶は自分でもおかしくなった。
「見るだけのつもりだったんです。でも、入ったら買いたくなるじゃないですか」
「わかります。焼きたてって書いてあると、特に」
「そうなんです。最後のお店を出るころには、腕が袋でいっぱいで」
二人で笑った。
定食が運ばれてきた。沙耶はいただきますと言い、味噌汁を一口飲んだ。
温かかった。
「一番好きだったのは、どれですか」
航平に聞かれ、沙耶は迷わず答えた。
「塩パンです」
「塩パン」
「小さいお店なんですけど、焼きたての底が、かりっとしてて。歩きながら食べたいくらいでした」
「食べなかったんですか?」
「家まで我慢しました。ちゃんとコーヒーもいれたかったので」
窓際で食べた日のことを思い出した。
自分で見つけ、自分で選んで買ったパンだった。袋を開けたときの匂いも、最初の一口のおいしさも、よく覚えていた。
「今度、買ってきましょうか」
自然に言うと、航平はうれしそうにした。
「ありがとうございます。でも、そんなにおいしいなら、焼きたてを食べてみたいですね」
沙耶は箸を置いた。
店までの道を考えた。駅から少し歩いて、小さな公園の先を曲がる。休日の午前中なら、棚に並ぶところを見られるかもしれない。
一人で歩いた道だった。
今度は、隣にこの人がいたら。
そう思っても、怖さより、楽しそうだという気持ちが先に来た。
「じゃあ、一緒に行きます?」
航平が顔を上げた。
「いいんですか」
「はい。私も、また食べたいので」
沙耶は笑った。
次の休日には、いつもの曲がり角を、誰かと二人で曲がる。
その朝が来るのを、楽しみにしていいと思えた。
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