妹と不倫した夫の処刑日~実の妹と肉体関係を持った男の末路~   作:桐山さくらこ

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一度きりの秘密

引っ越しを控えた夜、母は法事のため泊まりで出かけた。

 

 真由は就職祝いだと言って、煮込みハンバーグを作った。食卓には、少しだけ高いワインも置いた。

 

「飲めるようになったばっかりのくせに」

 

「去年、二十歳になったんですけど」

 

 京介は二十二歳。二つ違いの兄と二人で酒を飲むのは、真由の二十歳の誕生日以来だった。

 

 食事のあとも、真由は片づけに立たなかった。

 

「いなくなるの、寂しい」

 

「そんな遠くないだろ」

 

「距離の話じゃないよ」

 

 京介がグラスを置いた。

 

 真由は昔、いじめられたときの話をした。必ず助けると言ってくれて、うれしかったこと。ずっと忘れなかったこと。

 

「そんなことも、あったな」

 

「そんなこと、じゃない」

 

 思ったより強い声が出た。

 

 京介が黙る。真由は、今ならまだ、ただ寂しいだけだと笑えることを知っていた。兄を送り出す妹として、この夜を終えることができた。

 

 それでも、言った。

 

「私、お兄ちゃんが好き」

 

 京介はすぐには答えなかった。

 

「……兄妹だろ」

 

「わかってる」

 

 わかっていると言えば、この先へ進んでもいいわけではなかった。京介も席を立てた。妹の気持ちを受け入れず、別の部屋へ行けばよかった。

 

 その夜、二人はそうしなかった。

 

*

 

 翌朝、京介は食卓に座っていた。

 

 空のグラスが二つある。昨夜、洗っておけばよかったと思い、そんなことを考えた自分に嫌気が差した。

 

 酒のせいにはできない。

 

 何を言われ、何を選んだのか、覚えていた。妹と関係を持った。その事実は、一晩眠っても変わらなかった。

 

「昨日のことは、一度きりにしよう」

 

 向かいに座った真由が、膝の上で手を握った。

 

「……うん」

 

「もう、やめよう。俺たち、兄妹なんだから」

 

 昨夜も知っていたことを、京介は今になって口にした。

 

「お母さんたちには、言わないで」

 

 真由はうつむいたまま、もう一度うなずいた。

 

 引っ越せば、距離ができる。顔を合わせる回数が減れば、気持ちも落ち着く。京介はそう考え、話を終えた。

 

 箱を運び出す日、真由はいつものように手伝った。

 

 母の前では、二人とも普通だった。

 

 四月。研修初日を終えた京介は、一人きりの部屋でスマートフォンを開いた。

 

〈初日、どうだった?〉

 

 真由からだった。

 

 自己紹介で言葉に詰まった。周囲がすらすら話すので、余計に焦った。そんな文章を打ちかけて、消した。

 

〈大丈夫。心配いらない〉

 

 送信すると、すぐによかった、と返ってきた。

 

 京介は画面を閉じた。

 

 このまま、何もなかったように暮らしていけばいい。

 

 まだ誰も傷ついていないのだと、そう思いたかった。

 

*

 

 初めての給料日、沙耶は駅前の菓子店へ寄った。

 

 ショーケースの前で、少し迷った。いつもなら値段を見て選ぶところだが、今日は真由の好きなものを買いたかった。

 

 就職して一か月。慣れない電話を取るたびに肩に力が入り、帰宅すると何もする気になれない日もあった。それでも、自分で働いて得たお金で友達に菓子を買えることは、誇らしかった。

 

「初任給で買いました」

 

 真由の部屋で大げさに袋を差し出すと、同じ春に社会人になった友人が笑った。

 

「私にもお祝いさせてよ。次は私が買う」

 

 箱を開けながら、二人で仕事の失敗を報告し合った。会社名を言うだけの電話で舌をかんだ話。先輩の名前を間違えそうになり、妙な呼びかけになった話。

 

「私だけじゃないんだ」

 

「みんな最初はそうでしょ。たぶん」

 

 たぶん、と付け足すところが真由らしかった。

 

 夕方、一階へ下りたところで、玄関の扉が開いた。

 

「あれ、沙耶ちゃん?」

 

 京介だった。

 

 社会人になって二年。高校のころより落ち着いて見えるのに、笑うとあの体育館で見た顔に戻った。

 

「お久しぶりです」

 

 急に背筋が伸びた。真由に気づかれた気がしたが、顔を確かめる余裕はなかった。

 

 居間でお茶を飲みながら、新しい職場の話になった。沙耶は、電話を取るのがまだ怖いと打ち明けた。

 

「失敗したらどうしようって思うと、余計に言葉が出なくて」

 

「わかる。俺なんて、最初の日に名札忘れたよ」

 

「えっ」

 

「紙に名前書いて、一日それつけてた」

 

 想像して、思わず笑ってしまった。

 

「すみません」

 

「いや、笑っていい。俺も今なら笑えるし」

 

 今なら。

 

 その言い方に、沙耶は救われた気がした。今日の失敗も、いつかそんなふうに話せるのかもしれない。

 

 帰る時間になっても、まだ話していたかった。

 

 高校のころは、真由の家で会えるだけで満足していた。大学へ進んで会う機会が減ると、好きだった気持ちまで、しまい込んだつもりになっていた。

 

 けれど、顔を見ればこんなにうれしい。

 

「あの、連絡先、教えてもらってもいいですか」

 

 鞄の持ち手を握ったまま言った。

 

 京介は一瞬驚いたあと、いいよとスマートフォンを出してくれた。

 

 帰宅してから、お礼の文章を何度も書き直した。菓子のこと、仕事のこと、今日は会えてうれしかったこと。

 

 最後の一文だけ、送る前に消しかけた。

 

 それでも、残したまま送信した。

 

*

 

 食事に誘ったのも、沙耶からだった。

 

 仕事の相談がある、と書けば誘いやすかった。でも、本当は相談が目的ではない。それを隠して会っても、あとで自分が落ち込みそうだった。

 

〈今度、二人でご飯に行きませんか〉

 

 送ったあと、スマートフォンを伏せた。すぐ持ち上げ、また伏せた。

 

 返事が来たのは、風呂を出たあとだった。

 

〈いいよ。来週の土曜なら空いてる〉

 

 声が出そうになって、口を押さえた。

 

 真っ先に電話したのは、真由だった。

 

「どうしよう。着ていく服、ない」

 

「この前買ったのは?」

 

「あれでいいかな。気合い入れすぎに見えない?」

 

「似合ってたよ。大丈夫」

 

 翌日には、鏡の前で撮った服の写真を送った。真由は靴まで一緒に考えてくれた。

 

「楽しみだね」

 

「うん」

 

 誰かに背中を押してほしい気持ちを、真由はいつもわかってくれた。

 

 最初の食事では、緊張して水を飲みすぎた。

 

 二度目には、京介の言い間違いを笑えるようになった。

 

 三度目の帰り道、駅が見えてからも、沙耶は歩く速度を上げられなかった。このまま別れたら、また次の約束を待つだけになる。

 

「私、高校のときから好きでした」

 

 京介の足が止まった。

 

 沙耶も立ち止まり、顔を上げた。うつむいて言い逃げするつもりで来たのではなかった。

 

「真由のお兄ちゃんだから、よく見えたとかじゃなくて。今日みたいに、一緒にいるのが好きです」

 

 京介はしばらく黙っていた。

 

 その沈黙の間、沙耶はコートの袖をつまんだ。答えを急がせる言葉も、冗談にする言葉も、言わないようにした。

 

「……俺でよければ」

 

 最初は、意味がわからなかった。

 

「付き合うって、ことですか」

 

「うん」

 

 沙耶が笑うと、京介も少し照れたように笑った。

 

 帰りの電車の窓に、自分の顔が映っていた。口元が緩んでしまい、慌てて手で隠す。

 

 駅を出るなり、真由へ電話した。

 

 どこを歩いて、何を言って、どんな返事をもらったか。細かなことまで全部話した。真由は途中で遮らず、よかったねと聞いてくれた。

 

 このうれしさを覚えていてくれる人がいる。

 

 それが、またうれしかった。

 

*

 

 交際が始まって三か月ほどしたころ、小さな寂しさが生まれた。

 

 会おうと言うのは、いつも沙耶だった。

 

 誘えば来てくれる。食事中も優しい。だから、気にしすぎだと思おうとした。けれど、前に話した水族館のことを京介が忘れていたとき、笑って済ませられなかった。

 

「私といて、楽しい?」

 

「楽しいよ。なんで?」

 

「いつも、私からだから」

 

 京介の顔を見ながら、言葉を選んだ。

 

「会いたいの、私だけなのかなって、思うときがある」

 

 責めたいわけではなかった。寂しかったことを、知ってほしかった。

 

 京介は黙ってから、謝った。

 

「ごめん。今度は俺から誘う」

 

 翌日、土曜の午前中に水族館へ行こうと連絡が来た。

 

 画面を見て、沙耶はほっと息をついた。言ってよかった。ちゃんと聞いてくれたのだ。

 

〈楽しみにしてるね〉

 

 その返事を読んだ京介は、自室のソファへ背を預けた。

 

 沙耶といると楽だった。喜ぶ顔を見れば、自分までいい気分になれた。

 

 スマートフォンの写真を戻していくと、母の誕生日に撮った家族写真が出てきた。

 

 京介の指が、妹の顔の上で止まった。

 

 無意識に拡大しかけて、やめる。

 

 土曜日は、沙耶と水族館へ行く。

 

 京介は予定表を開き、まだ空白だったその日に、彼女の名前を入れた。




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