妹と不倫した夫の処刑日~実の妹と肉体関係を持った男の末路~ 作:桐山さくらこ
肉じゃがの匂いが、玄関まで届いていた。
付き合って一年ほどになる金曜日。京介が部屋へ帰ると、先に来ていた沙耶が台所から顔を出した。
「おかえり。もう少しでできるよ」
「ありがとう」
鞄を置いた瞬間、どっと疲れが出た。
一週間かけた仕事の資料が、ほとんどやり直しになっていた。上司の指摘はもっともだった。だからこそ、どこから直せばいいのかわからず、退勤時間まで画面を見ていた。
「疲れてる?」
沙耶が箸を並べながら聞いた。
「ちょっとだけ」
「何かあった?」
話してもよかった。
聞くよ、と沙耶は言ってくれていた。仕事の内容がわからなくても、京介が落ち込んでいることくらいはわかってくれるだろう。
それでも、口が重くなった。
高校のころから好きだったと言ってくれた人だった。沙耶の目に映る自分は、彼が思う自分より、いつも少し立派だった。
失望されたくなかった。
「大したことじゃない。それより、うまそう」
「味、濃くないといいんだけど」
沙耶が笑う。京介は肉じゃがを口へ運び、おいしいと伝えた。
それは嘘ではなかった。
彼女の料理をおいしいと思うことも、帰った部屋に明かりがあるとうれしいことも、本当だった。
ただ、いちばん話したかったことだけが、喉の奥に残った。
「無理してないなら、いいけど」
沙耶はそれ以上聞かなかった。話したくなったら話してくれるだろうと、京介を信じていた。
食後に茶を飲んでいると、沙耶が少し改まった顔をした。
「今度、うちの親に会ってくれない?」
「ご両親に?」
「うん。どんな人なのって、よく聞かれるから」
笑っているが、指先はカップの持ち手をなぞっていた。
京介はその手を見た。
毎日、こうして食卓を囲む。週末には二人で買い物をして、帰る家も同じになる。
沙耶との暮らしが、一日の大半を占めるようになれば。
妹のことを考える隙間も、なくなるのではないか。
「いいよ。いつがいいかな」
沙耶の顔が明るくなった。
その笑顔を見ている間だけ、京介は自分が正しいほうへ進んでいると思えた。
*
結婚を申し込む前に、京介は真由へ話した。
実家の居間だった。母が席を外した間に、近いうちに沙耶へ指輪を渡そうと思っている、と伝えた。
真由は一度、手元へ目を落とした。
「……そっか」
「うん」
湯飲みを置く、小さな音がした。
「沙耶のこと、大事にしてあげてね」
「わかってる」
「ずっと、お兄ちゃんのこと好きだったんだから」
真由は顔を上げ、笑った。
よかった。そう言ってもらえて、安心するはずだった。
なのに京介は、胸のどこかが沈むのを感じた。引き止めてほしかったのか。そんなことを言われたら困るくせに、何を期待していたのか。
答えを出さないまま、買う指輪の話に変えた。
真由も、サイズはわかってるの、と普通に聞いた。
二人が秘密にした夜から、何年も過ぎていた。その後は何もなかった。もう終わったことだと、互いの顔を見ずに確かめ合っているようだった。
数日後、京介は沙耶の前で、小さな箱を開いた。
沙耶はすぐには手を伸ばさなかった。
箱と京介の顔を交互に見て、唇を震わせた。
「結婚してください」
言い終える前から、彼女の目に涙がたまっていた。
「……本当に?」
「うん」
「ずっと、一緒にいられるんだね」
高校の体育館で見ていた人が、これから先の人生に自分を選んでくれた。そのことを、沙耶は両手で受け止めるように喜んだ。
京介は彼女の左手を取った。
幸せにしようと思った。
幸せにすれば、忘れられるとも思った。
二つの気持ちを混ぜたまま、指輪をはめた。
*
結婚式の控室で、沙耶は鏡の中の自分を見つめていた。
髪も、化粧も、ドレスも、自分で選んだはずなのに、どこか知らない人のようだった。
扉が開いた。
「沙耶」
真由の声を聞いた途端、いつもの自分に戻れた気がした。
「どう?」
「すごく、きれい」
真由が途中で言葉を止めた。目元が赤くなっている。
「やだ。まだ始まってないよ」
「わかってるけど」
沙耶も笑いながら、鼻の奥がつんとした。
二人で雑誌を広げていたころ、いつか結婚するとしたらどんなドレスがいいかと話したことがある。そのときには、今日のような日が本当に来るとは思っていなかった。
「これから、お義姉さんって呼ばなきゃね」
「同い年なのに?」
「沙耶お義姉さん」
「変。今までどおりにして」
笑ってから、沙耶は真由の手を握った。
「でも、うれしい」
「何が?」
「真由と家族になるの」
真由の指が、わずかに動いた。
「……うん」
「これからも、よろしくね」
沙耶は、その返事を少しも疑わなかった。
式が終わったあと、真由は二人の写真を撮った。京介の隣で、沙耶は何度も笑った。緊張が解けたのか、撮影が済んでも彼の袖を離さなかった。
真由は画面の中の夫婦を見た。
あの夜は終わった。もう何年も前に、終わっている。
今日からは、友達の夫だ。
それまでにも何度か使ってきた言い聞かせを、今度こそ最後にしようと思った。
新居での暮らしは、穏やかに始まった。
洗濯物の畳み方が違って、最初は収納の場所が足りなくなった。京介のほうが角をきっちり合わせるので、沙耶は負けたと言って笑った。
スーパーでは、どちらがカゴを持つかで手がぶつかった。帰り道、重いほうの袋を京介が持ってくれた。
特別なことのない一日が、沙耶には特別だった。
同じ家へ帰り、明日の予定を話す。
それを何十年も繰り返していくのだと、食器棚に二人分のカップを並べながら、沙耶は思っていた。
*
結婚して初めての年末、沙耶は京介の実家へ泊まりに行った。
何度も訪ねた家なのに、玄関の前でコートを整えた。手土産はこれでよかっただろうか。夕飯の支度は、どのくらい手伝えばいいのだろう。
「そんなに緊張しなくても」
京介が笑った。
「だって、今日は真由の友達として来たんじゃないから」
袖を軽く引くと、彼は大丈夫だよと言った。
そのやり取りを、扉を開けに来た真由が見ていた。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
「沙耶、なんか丁寧」
「笑わないでよ」
いつもの調子で言葉を交わせて、ほっとした。
食卓には五人分の箸が並んでいた。父の秀明が仕事の様子を聞き、母の恵子が料理を勧めてくれる。真由の隣ではなく京介の隣に座ることが、まだ少しくすぐったかった。
「京介、家のことはちゃんとやってる?」
恵子に聞かれ、沙耶はうなずいた。
「洗濯物、私よりきれいに畳むんです」
「あら、そうなの。家では真由に運ばせてたのに」
「今はやってるよ」
京介が答えると、みんなが笑った。
真由は、兄の部屋へ洗濯物を持っていった日のことを思い出していた。机の端を空けてもらい、そこへ置きながら、その日の話をした。わざわざ用事を作らなくても、部屋へ行けた。
今は、沙耶が隣で笑っている。
「クリスマスは何したの?」
真由が尋ねると、沙耶はスマートフォンを取り出した。
「ケーキ作ったんだけど、見て。ちょっと焦げちゃって」
画面には、不揃いの苺をのせたケーキがあった。
「ちょっと?」
「そこは見逃して」
「でも、うまかったよ」
京介が言った。沙耶がうれしそうに彼を見る。
真由は昔、ケーキの苺を床へ落としたことを思い出した。京介は自分の皿から一つ取ってくれた。いらないの、と聞くと、あんまり好きじゃないからと答えた。
本当は好きだったことを、あとで知った。
それは子供のころの、兄の優しさだった。思い出して懐かしがれば済むことなのに、真由は写真から目を離せなくなった。
「真由は? 最近どうなの」
沙耶に聞かれ、慌てて画面を返した。
「会社の人に、ご飯誘われた」
「えっ。二人で?」
「うん。前に仕事手伝ったお礼だって」
藤井悠人。同じ職場の人で、忙しいときも言い方が穏やかだった。疲れていると、机の端に飴を一つ置いていく。
その話をすると、沙耶は身を乗り出した。
「いい人そう。行ってみたら?」
「そうかな」
「真由は、その人と話してて楽しい?」
「まあ、楽しいよ」
「じゃあ、いいじゃん」
京介の箸が止まった。
「二人きりは、やめたほうがいいんじゃない」
真由が顔を向けた。
「なんで?」
「どんな人か、わからないし」
「お兄ちゃんが知らないだけでしょ」
「心配してるんだよ」
真由は返事をしなかった。箸を置く音が、食卓の上で小さく響いた。
沙耶は二人の顔を見比べた。
「真由だって大人なんだから、ご飯くらいいいと思うよ」
「……そうだけど」
「会社でいつも会ってる人なんでしょ」
いつも会っている。その言葉に、京介はますます黙った。
真由は話題を変えた。食事は続き、沙耶は途中から台所を手伝った。それでも、妙に気まずい空気が気になった。
夜、客間に布団を敷いてから、沙耶は京介に言った。
「ちょっと言いすぎだったんじゃない?」
「……わかってる」
「明日、謝ってあげて」
「うん」
返事を聞いて、沙耶は横になった。
義姉になったからといって、急に家族の間へ口を出すのはよくなかっただろうか。それでも、真由には楽しく恋をしてほしかった。
自分が初めて京介と食事をした夜のように、帰り道が明るくなる日を、あの子にも味わってほしい。
「おやすみ」
京介の返事を聞き、沙耶は目を閉じた。
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