妹と不倫した夫の処刑日~実の妹と肉体関係を持った男の末路~ 作:桐山さくらこ
午前零時を過ぎても、京介は眠れなかった。
同じ会社なら、毎日会う。仕事の失敗も、疲れた顔も、自分より先にその男が知るのだろう。
何を考えているんだ。
隣を見れば、妻が眠っていた。
京介はそっと布団を抜けた。謝るだけだ。食卓で余計なことを言ったのだから、それを謝って、すぐに戻ればいい。
二階の扉をノックすると、真由の返事があった。
「さっきは、ごめん」
「何が?」
「飯に行く話。余計なこと言った」
真由は机の前で兄を見た。
「じゃあ、行ってもいいんだ」
「……好きにすればいいよ」
「何、その言い方」
謝罪のために来たはずなのに、言葉が刺々しくなる。京介は自分でもそれがわかった。
「心配で」
「さっきも、それ言った」
もう戻ればよかった。
沙耶が下で眠っている。帰る部屋も、隣にいるべき人も、決まっていた。
「お兄ちゃん、本当は沙耶のこと、好きじゃないんでしょ」
京介は真由を見た。
「なんで、そんなこと」
「私のほうが好きなんでしょ」
違うと言うべきだった。言えないなら、それ以上、彼女の前にいるべきではなかった。
京介は扉のそばに立ったまま、動かなかった。
やがて、扉が閉まった。
*
翌朝、洗面所の鏡に映る自分を、京介は見ていた。
洗面台に置いた左手には、結婚指輪がある。
「おはよう。顔色悪いよ」
沙耶の声に、肩が揺れた。
「よく眠れなくて」
「布団、寒かった?」
「大丈夫」
沙耶は心配そうにしてから、思い出したように続けた。
「真由にも、今日ちゃんと謝ってあげてね」
「……それは、もう」
「話したの? 仲直りできた?」
「うん」
「そっか。よかった」
沙耶が笑った。
京介は笑い返せなかった。顔を洗うふりをして、視線を落とした。
その優しい声を、今すぐ聞こえなくしたかった。
*
年が明け、真由の机に一枚の年賀状が届いた。
京介と沙耶が並んで笑っている。その下には、今年もよろしくね、と沙耶の字があった。
真由は写真から顔を背けた。
あの夜、私のほうが好きだと言ってほしかった。
けれど、朝になった兄は妻の隣へ戻った。自分も普通に朝食を取り、帰っていく二人を見送った。
スマートフォンに、藤井から店の候補が送られてきた。食事の約束を、きちんと考えてくれていたのだ。
真由はしばらく迷い、断りの文章を打った。
〈ごめんなさい。二人で会うのは、やめておきたいです〉
こんな気持ちで会うのは失礼だから。
そう考えたとき、机の年賀状が目に入った。沙耶にはもっとひどいことをしている。その事実まで、都合よく脇へ置こうとしている自分に気づき、画面を伏せた。
藤井の返事は短く、穏やかだった。
数日後、沙耶からも聞かれた。
〈会社の人とのご飯、どうなった?〉
〈私が忙しくなっちゃって、やめたの〉
また嘘をついた。
〈そっか。落ち着いたら、また誘ってみなよ。応援してる!〉
真由はその文字を見つめた。
応援しないでよ、と胸の中で思った。
自分で本当のことを隠しておきながら、何も知らない沙耶の優しさが苦しかった。
*
春になるころには、京介が一人で実家へ行くことが増えた。
「今日、実家行ってくる」
朝食の席で言われ、沙耶は顔を上げた。
「この間も行かなかった?」
「お母さんが、パソコンの調子悪いって」
「電話で教えるの、難しいもんね」
「うん。夕飯も向こうで食べてくる」
沙耶は気をつけてねと送り出した。
夜、帰宅した京介の上着を受け取ると、ふわりと甘い匂いがした。
「……何か、いい匂いする」
「え?」
「香水?」
「つけてないけど」
そうだよね、と答えた。深く考えて聞いたわけではなかった。
けれど京介は、上着を見ながら付け足した。
「ずっと実家にいたよ」
沙耶は顔を上げた。
「別に、変な意味じゃ……」
「何か移ったのかもな」
京介は居間へ入っていった。
実家にいたかどうかなんて、聞いていない。
ハンガーへ上着を掛けても、引っかかった言葉は残った。疑うきっかけができてしまったこと自体が嫌で、沙耶はその日は何も言わなかった。
翌週、恵子から電話があった。
「この間は、京介に悪かったわね」
「パソコン、もう大丈夫ですか?」
「ええ。本当に助かったわ」
やっぱり、実家にいたのだ。
ほっとしかけて、それでも沙耶は聞いた。
「京介、夜は出かけたりしませんでした?」
「いいえ。ご飯のあとは真由とずっと話してたわ。仕事の話みたいだったけど」
「……そうですか」
「あの二人、話し出すと長いからねえ」
通話を終え、ソファにもたれた。
本当に実家にいた。お義母さんもそう言っている。嘘ではなかった。
それなら、あの匂いは何だったのだろう。
答えのない問いを、沙耶はそれ以上考えないことにした。
*
夏のカレンダーには、三つの土曜日に「実家」と書かれていた。
「たまには、私も行こうかな」
京介が車の鍵を持ったまま振り返った。
「今週、友達と会うんじゃなかった?」
「来週になったの」
「今日は、ちょっと。帰り、遅くなるかもしれないし」
「遅くても大丈夫だけど」
少しだけ、間が空いた。
「二人で行くなら、来週とかにしようよ」
京介の体はもう玄関へ向いていた。沙耶はその背中を見て、わかったと答えた。
「好きなパン、帰りに買ってくるよ」
扉が閉まった。
どうして、今日は駄目なのだろう。
洗濯物を干そうとして、手を止めた。時計を見る。車の鍵を見る。
本当に実家にいるとわかれば、安心できる。
そう言い聞かせ、沙耶も家を出た。
実家の向かいの駐車場に車を入れると、京介の車が見えた。
ちゃんと、あった。
もう帰っていいはずだった。けれど、車を置いて誰かに会いに出るのかもしれないと思うと、ハンドルから手を離せなかった。
時計は十二時十八分を示していた。
もう少しだけ。何もなければ、疑うのはやめよう。
昼食の時間が過ぎた。買ってきた水を飲み、通りを歩く人から顔をそらした。知り合いが通ったら何と説明するのか、考えるだけで頬が熱くなった。
三時二十六分。
ようやく玄関が開いた。
京介の隣には、買い物袋を持った恵子がいた。二人は何か話しながら車に乗り込んだ。息子が母親を買い物へ連れていく、ごく普通の光景だった。
沙耶は目を伏せた。
私、何をしていたんだろう。
休日を使って、夫を見張っていた。何か悪いことをしているはずだと、証拠を待つようにここにいた。
恥ずかしくて、涙が出た。
京介の車が曲がっていってから、沙耶もエンジンをかけた。見つからなかったことに安堵する自分が、さらに嫌になった。
その夜、食卓にパンの袋が置かれた。
「最後の二個だった」
「ありがとう」
好きだと言ったことを、覚えていてくれた。あの店へ寄って、買ってきてくれた。
「どうしたの。元気ない?」
「ちょっと、疲れただけ」
「明日、どっか行く?」
沙耶は顔を上げた。
「……実家は?」
「明日は行かない。二人で出かけよう」
「うん。行きたい」
パンを一口かじった。
いつもと同じ味なのに、うまく飲み込めなかった。目元に手を当てると、京介が名前を呼んだ。
「ううん。明日、楽しみだなって」
今さら、今日何をしたかは言えなかった。
疑ってごめんね。
胸の中で謝りながら、沙耶は夫の買ってきたパンを、両手で持っていた。
*
また、年末がやってきた。
夫の実家の食卓には、五人分の料理が並んでいた。沙耶が持っていった菓子を恵子が喜び、秀明が仕事はどうだと聞いてくれる。
「年内の分は、何とか終わりました」
「それなら、今日はゆっくり食べなさい」
「ありがとうございます」
沙耶は箸を取った。
去年ほど、妻としてきちんとしなくてはと身構えずに済んだ。取り皿の場所も知っている。台所を手伝うとき、いちいち何をすればいいか聞かなくてもよくなった。
少しずつ、家族になれている。
そう思いたかった。
「お兄ちゃん、これも食べるでしょ」
真由が煮物を取り分けた。
「ありがとう」
「この間の資料、やり直し終わった?」
「ああ。今度は通ったよ」
「よかったじゃん」
沙耶の箸が止まった。
「……資料って?」
京介は料理を口へ運んでから答えた。
「仕事の。ちょっと面倒なのがあって」
「そうだったんだ」
それ以上の説明はなかった。
最近、疲れているようには見えた。何かあったのかと聞いても、普通だよという返事だったので、忙しい時期なのだと思っていた。
真由は、その普通の中身を知っていた。
兄妹なのだから、話すこともある。二人が仲のいいことは、最初から知っていた。自分だって、その気安いやり取りが好きだった。
それでも、胸の奥に小さな痛みが残った。
同じ家で暮らす私には、話せなかったのだろうか。
真由が京介の湯飲みに茶を注ぐ。京介は礼を言い、さっきの資料についてもう一言付け足した。
沙耶は皿の脇へ箸を置いた。
会話に入りたいのに、今さら何を聞いていいかわからなかった。
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