妹と不倫した夫の処刑日~実の妹と肉体関係を持った男の末路~   作:桐山さくらこ

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私の見たものを消さないで

その夜、客間で目を覚ましたとき、京介の布団は空だった。

 

 枕元にスマートフォンがある。遠くへ出かけたわけではない。トイレか、水でも飲みに行ったのだろう。

 

 名前を呼びながら廊下へ出た。

 

 二階から声がした。

 

 階段は、上から二段目を踏むと小さく鳴る。高校時代に何度も上り下りしたので、体が覚えていた。

 

 真由の部屋の扉から、細く明かりが漏れていた。

 

 その隙間から見えたものを、沙耶は理解したくなかった。

 

 二人が、同じベッドにいた。

 

 声も、顔も、見間違えようがなかった。夫が妻に向けるはずの親密さを、京介は実の妹に向けていた。

 

 沙耶は口元を押さえた。

 

 私の夫だ。

 

 あなたの、お兄ちゃんでしょう。

 

 頭の中では何度も言えた。けれど、喉は閉じたままだった。

 

 扉を開ければ、二人はこちらを見る。その先に何が起こるのか想像できず、指一本動かせなかった。

 

 いつから。

 

 今日だけなのか。自分が気づいていなかっただけで、ずっと前からなのか。

 

 壁に置いた手が冷たくなった。

 

 沙耶は一歩、下がった。

 

 階段をどう降りたのか、覚えていなかった。客間へ戻ってから、膝が震えていることに気づいた。布団の上へ座り、口を押さえたまま背を丸める。

 

 夢なら、ここで終わってほしかった。

 

 けれど、頬を流れた涙も、畳の感触も、はっきりしていた。

 

 階段が鳴った。

 

 沙耶は反射的に布団へ潜り込んだ。壁を向き、目を閉じた。

 

「……沙耶?」

 

 すぐ後ろで、京介の声がした。

 

 今までなら、それだけで振り返った。何、と聞き、もう一度眠った。

 

 今は、返事ができなかった。

 

 隣の布団が音を立てた。衣擦れが止まり、やがて呼吸が落ち着いていった。

 

 沙耶は目を開けた。

 

 暗闇の中で、壁の木目を見ていた。眠ればあの部屋をもう一度見てしまいそうで、目を閉じることさえ怖かった。

 

 朝まで、一度も夫のほうを向けなかった。

 

*

 

 味噌汁から湯気が上がっていた。

 

 沙耶は器を持ち上げようとして、やめた。匂いが近づくだけで、胃の奥が縮む。

 

「沙耶、あんまり食べてないね」

 

 真由が言った。

 

 いつもの声だった。それが、何より恐ろしかった。

 

「ちょっと、胃が」

 

「昨日、食べすぎちゃった?」

 

 恵子が心配そうに覗き込む。

 

「すみません」

 

「無理しなくていいよ」

 

 京介の手が背中へ伸びた。

 

「触らないで」

 

 思うより先に、声が出た。

 

 京介の手が止まった。秀明も恵子も、箸を持ったままこちらを見ている。

 

 沙耶は膝の上で両手を握った。

 

「……ごめん。吐きそうで」

 

「大丈夫?」

 

 京介の顔を見ることができなかった。

 

 その顔で、聞かないで。

 

「薬、いる? 部屋にあるけど」

 

 真由が席を立ちかけた。

 

「いらない」

 

 今度は小さく答えた。顔を上げたら、何を言ってしまうかわからなかった。

 

 部屋にある。

 

 その何でもない言葉で、昨夜の扉が頭の中に現れる。沙耶は目の前の白いご飯を見つめ、喉の奥へ上がってきたものを飲み込んだ。

 

 帰りの車で、京介は何度も体調を尋ねた。

 

「帰ったら寝てて。夕飯、俺が買ってくるから」

 

「うん」

 

「病院、行く?」

 

「いい」

 

 信号で止まったとき、彼の横顔を見た。何かを気づかれている人の顔には見えなかった。

 

 昨日も、こんなふうに話していた。

 

 自分の知らない出来事を抱えたまま、普通に運転し、普通に夕飯の相談をしていたのだろうか。

 

 膝の上で、スマートフォンが震えた。

 

〈大丈夫? 着いたら連絡してね〉

 

 真由だった。

 

 いつもなら、ありがとうと返す。京介が心配しすぎるんだよ、と冗談も添えたかもしれない。

 

 指が動かなかった。

 

 大丈夫なわけ、ないじゃん。

 

 画面を伏せ、窓の外へ顔を向けた。流れていく見慣れた道が、今日は知らない場所につながっているように見えた。

 

*

 

 家へ帰っても、眠れなかった。

 

 目を閉じると、あの扉が現れた。真由の部屋へ上がる前に戻れたら、と何度も考えた。けれど、戻って眠り直しても、二人のしたことが消えるわけではない。

 

 京介は買ってきた食事を並べた。

 

「お粥もあるけど、そっちがいい?」

 

 沙耶はどちらでもいいと答えた。

 

 夫は困ったように笑い、食べられそうなほうでいいよと言った。

 

 こんなときまで優しい声を使えるのだと、沙耶は思った。

 

 その優しさに救われた日が、いくつもあった。残業の日に買い物をしておいてくれたこと。風邪のとき、飲み物を枕元へ置いてくれたこと。

 

 食卓に置かれたスプーンは、食べやすいよう、持ち手をこちらへ向けてあった。その気遣いを見つけても、今日はありがとうと言えなかった。

 

 あれは何だったのだろう。

 

 全部嘘だと言い切れれば、楽になるのかもしれない。けれど、うれしかった自分まで消えてしまうようで、それもできなかった。

 

 洗面所へ行ったとき、鏡に映った顔に驚いた。

 

 目の下が暗かった。頬を洗うと、水がまぶたにしみた。いつからこんなに泣いたのか、数えることもできない。

 

 京介は、体調が悪いのだと思っていた。

 

 沙耶も、そういうことにしたまま過ごした。

 

 問い詰めたら、この暮らしが終わる。問い詰めなければ、自分が壊れていく。その二つの間で、台所の湯が沸くのを見ていた。

 

 いつもの習慣で、カップを二つ出してしまった。

 

 一つを棚へ戻そうとして、やめた。そんな小さな動きまで、何かの宣言になりそうで怖かった。

 

*

 

 三日が過ぎた。

 

 ベッドの端で膝を抱え、沙耶はスマートフォンの連絡先を開いていた。

 

 真由。

 

 つらいことがあると、自然にその名前を探してしまう。

 

 仕事で落ち込んだ日も、京介からなかなか誘ってもらえず不安だった日も、話を聞いてくれた相手だった。

 

 今日、かけたら何を話すのだろう。

 

 あなたと夫を見た。眠れない。ご飯が食べられない。助けてほしい。

 

 助けてほしい相手が、苦しみの中にいる。

 

 電話の印に指を近づけては、離した。

 

 母へ話すことも考えた。けれど、口にした途端、もう二度と元の顔で実家へ行けなくなる気がした。何を見たのか聞かれたら、最後まで説明できる自信もなかった。

 

 まず、京介に聞かなければ。

 

 そう思うたびに、あの部屋で動けなかった自分が戻ってきた。

 

 居間からテレビの笑い声が聞こえた。

 

 今夜も、この人が隣で眠る。

 

 そのことを考えたら、もう待てなかった。

 

 沙耶は足を床へ下ろした。立ち上がると少しふらついたが、壁に手をつかず、居間まで歩いた。

 

「話があるの」

 

 京介が画面から目を離した。

 

「うん」

 

「テレビ、消して」

 

 リモコンの音がして、部屋が静かになった。

 

 沙耶は向かいに座った。膝の上に手を置く。手が震えているのを隠すためではなく、自分がここにいることを確かめたかった。

 

「離婚したい」

 

 京介は動かなかった。

 

「……何?」

 

「実家で、見たの」

 

「何を?」

 

「真由の部屋。あの夜、私、起きたから」

 

 リモコンを持つ彼の指が固くなった。

 

 それだけで、伝わったとわかった。

 

 沙耶は待った。

 

 否定してほしいのではない。本当のことを言ってほしかった。これ以上、一人であの夜を抱えていたくなかった。

 

 京介は唇を動かし、一度閉じた。

 

「……寝ぼけて、夢を見たんじゃないか」

 

 沙耶は、その言葉をすぐに理解できなかった。

 

「夢?」

 

「夜中だったんだろ」

 

「真由と寝てたでしょ。あの子のベッドで」

 

「ありえないだろ。妹だぞ」

 

「私だって、そう思ったよ!」

 

 声が大きくなった。

 

 沙耶は息を吸った。泣き出したら、それまで全部、まともに話せない人の言葉にされそうだった。

 

「ちゃんと聞いて。夢じゃない」

 

「落ち着いて話そう」

 

 落ち着けるようにしてほしかった。

 

 本当だと言ってくれれば、少なくとも、自分の見たものまで疑わずに済む。

 

「具合悪かったじゃないか。ろくに食べてもいないし」

 

「具合が悪くなったのは、見たあとだよ」

 

 京介の口が止まった。

 

 沙耶は彼の目を見た。高校のとき、初めて近くで見て言葉に詰まった目だった。告白したときも、結婚してほしいと言われたときも、この目を見ていた。

 

「私の顔、見て言って」

 

 京介は一瞬だけ視線を合わせた。

 

「……何もしてない」

 

 涙が落ちた。

 

 怒りより先に、信じられないという気持ちが来た。見つかったことより、自分が嘘をつくほうを選ぶのだ。この人は今、そう決めたのだ。

 

「じゃあ、私が嘘ついてるの?」

 

「そうじゃなくて」

 

「じゃあ、本当のこと言ってよ」

 

 声がかすれた。

 

 京介はうつむいた。否定を重ねることも、謝ることもしなかった。

 

 リモコンの角を、指で押している。その小さな動きばかりが目に入った。

 

 沙耶は立ち上がった。

 

「今日は、別の部屋で寝る」

 

「沙耶」

 

 追いかけようとする気配に、戸口で振り返った。

 

「来ないで」

 

 今度は、はっきり言えた。

 

 部屋へ入り、扉を閉じる。閉まる音を聞くと、ようやく肩から力が抜けた。

 

 隣に来ないでほしい。

 

 今日、初めて言えた本当の望みだった。

 

 沙耶は床に座り、泣いた。

 

 あの夜を見た自分は、ここにいる。

 

 京介が何と言っても、消えたことにはできなかった。




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