妹と不倫した夫の処刑日~実の妹と肉体関係を持った男の末路~ 作:桐山さくらこ
「それから、ずっと?」
「ごめん」
「パソコン直しに行くって言ってた日も?」
真由がうなずいた。
沙耶の目から、涙が落ちた。
実家にいたことは、本当だった。
だからこそ、あんなに簡単に送り出せた。母親に確かめても、車を見に行っても、嘘が見つからなかった。
「私、毎週、送り出してたんだ」
「沙耶」
「帰りにパン買ってきてくれたりして。……喜んじゃって」
疑ってごめんと、謝っていた。
自分の胸の中だけで、二人に都合のいい妻へ戻ろうとしていた。
真由が手を少し伸ばした。
「私も、もうやめようって言ったの」
「いつ?」
「昨日。沙耶に見られたって、お兄ちゃんが言ったから」
沙耶は真由を見た。
「見られたから?」
「前から、やめなきゃとは思ってたよ」
「私が見なかったら、やめてなかった?」
伸ばしかけていた手が、膝の上に戻った。
「ごめん」
「答えてよ」
真由は何も言わなかった。
二つの湯飲みから、いつの間にか湯気が消えていた。
「結婚する前からだなんて、知らなかった」
沙耶が言うと、真由は顔を上げた。
「待って。お兄ちゃんから、聞いてなかったの?」
首を横に振った。
「あの人、今でも何もなかったって言うの。私が夢を見たんだって」
「そんな。昨日、全部話すって……」
真由の顔色が変わった。
沙耶にも、ようやくわかった。昨夜、食卓で京介が言いかけて、飲み込んだもの。今日は休みかと、別の話に変えた理由。
「じゃあ、私、知らないことまで全部……」
「うん」
「なんで、最初に言ってくれなかったの?」
真由の声が強くなった。
沙耶はすぐには答えられなかった。
「言えなかった」
「どうして?」
「真由まで何もなかったって言ったら、私、もうどうしたらいいか」
「私が嘘つくと思ったの?」
頬に流れた涙を、沙耶は指で拭った。
今、それを聞かれるとは思わなかった。
「私、謝りに来たのに」
真由の目にも涙が浮かんだ。鞄を抱え込むようにして、言った。
「ひどい。親友だと思ってたのに」
沙耶は手を止めた。
胸の奥が、冷たくなった。
「……真由が、それを言うの?」
「だって」
「私の夫とあんなことして、そのあと私に、大丈夫って連絡して」
真由が黙った。
「何て返してほしかったの?」
「心配だったから」
「だったら、しないでよ!」
抑えていた声が、部屋に響いた。
沙耶は両手をテーブルについた。指先に力を入れていないと、そのまま崩れてしまいそうだった。
「私、本当にうれしかったんだよ。真由と家族になれて」
同じ花の髪留めをつけたこと。初めての食事の服を選んでもらったこと。ドレス姿を見て、きれいだと言ってくれたこと。
今日までのどこを切り取っても、真由がいた。
「ごめん」
今度の謝罪は、ほとんど聞こえなかった。
沙耶は顔をそらした。
「帰って」
「沙耶……」
「今は、顔も見たくない」
真由が立つ音を聞いた。椅子が床をこすり、鞄の金具が鳴った。
玄関まで見送るのが、長年の習慣だった。今日も、体だけは扉の前まで歩いた。
またね、とは言わなかった。
扉が閉まってから、沙耶は食卓へ戻った。
向かいの椅子が空いている。
「私だって、親友だと思ってたよ」
誰もいない席に向かって言った。
その言葉を最後に、沙耶は両手で顔を覆った。
*
駅前のベンチに座ってからも、真由はしばらく動けなかった。
人が行き交っている。改札へ急ぐ人、待ち合わせの相手を見つけて手を振る人。いつもどおりの駅前で、自分だけが取り残されている気がした。
帰って、と沙耶は言った。
今は顔も見たくない、と。
真由は京介へ電話をかけた。
「沙耶に、会ってきた」
「……なんで。連絡するなって言っただろ」
低く抑えていても、責める声だとわかった。
「沙耶に呼ばれたの。お兄ちゃんが話したからだと思って」
「何、話した?」
「私、帰ってって言われた」
膝の上でハンカチを握った。言うと、また涙が出そうになった。
「だから、何を話したんだよ」
聞いてほしかった言葉は返ってこなかった。
「いつからって聞かれて、二十歳のときって」
「そこまで言ったのかよ」
「全部話すって言ったじゃん」
「最初に帰省した夜のことも?」
「話した。もう知ってると思ったから」
電話の向こうで、京介が息を吐いた。
「なんで余計なことまで話したんだよ!」
真由は目を見開いた。
「余計なこと?」
「俺に任せておけばよかったんだよ」
「任せたよ。そしたら、昨日は何も言わなかったんじゃん」
通りかかった人がちらりとこちらを見た。真由は声を落としたが、手の震えは止まらなかった。
「今、責め合っても仕方ないだろ」
「責めたの、お兄ちゃんだよ」
沙耶には、謝りに来たのにと怒った。
今、兄には、なぜ話したのかと怒られている。
自分が何をしたかと、兄が何をしたか。その両方を考えなければならないのに、胸の中がぐしゃぐしゃで、言葉にならなかった。
「何て謝ったらいいか、もうわかんない」
「とにかく、もう何もしないで。俺が話すから」
真由は目元を押さえていたハンカチを下ろした。
「昨日も、そう言ったよ」
「真由」
「もう、切るね」
通話を終えた。
いつもなら、困ったときには兄が話を聞いてくれた。何を言っても、最後には自分の味方になると思っていた。
けれど今、京介が知りたかったのは、沙耶にどこまで知られたかだった。
真由が何をなくしたかではなかった。
*
沙耶は、保存した録音の名前を確かめた。
真由との話。
指で触れると、時間の表示が現れた。冒頭を少し再生し、自分の声が入っていることを確かめ、止めた。
聞き直すだけで胸が痛んだ。
それでも、残っていた。
あの会話は、自分の頭の中だけにあるものではなくなった。夫に否定されても、これを聞けば、自分が何を確かめたのかわかる。
沙耶は京介へ連絡した。
〈今日、真由と話しました。帰ってから話があります〉
送信してから、立ち上がった。
一泊用の鞄を出し、下着と着替えを入れた。充電器、財布、仕事で必要なもの。何か入れるたびに、ここから出ることが少しずつ具体的になった。
帰る場所があるか、まだ母には聞いていなかった。
でも、今夜も何もなかったふりをして、この家にいることはできなかった。
鞄を部屋の隅へ置いたころ、玄関で鍵の音がした。
*
「真由から、電話があった」
食卓に座ると、京介が先に言った。
「そう」
「俺も、話そうと思ってたんだよ」
「昨日?」
「うん」
「でも、話さなかったよね」
京介は目を伏せた。
沙耶はスマートフォンを食卓へ置いた。
「真由と話したこと、残したの」
「録音までしたのか?」
その声には、驚きのほかに、不満のようなものが混じっていた。
「また何もなかったって言われたら、困るから」
京介はそれ以上言わなかった。
沙耶は再生した。
『いつからなの?』
自分の声が聞こえた。録音を通して聞くと、思っていたよりずっと頼りなかった。
『私が、二十歳のとき』
『でも、結婚する前は、一度だけだったの』
そこで止めた。
京介の両手が、膝の上で握られていた。
「これも、私の夢?」
返事までに、長い間があった。
「……違う」
「ちゃんと言って」
顔を上げた京介を、沙耶は見た。
「真由と、関係があった。ごめん」
初めて、認めた。
安心するはずのない言葉なのに、沙耶は息を吐いた。自分の記憶を守るために張りつめていたものが、一つだけほどけた。
次に来たのは、隠していた事実そのものの痛みだった。
「なんで、もっと早く言ってくれなかったの」
「怖かったんだよ。話したら、出ていくと思って」
「だったら、なんで真由のところに行ったの」
京介は答えなかった。
「もう終わりにする。二度としない」
「一度、やめたんでしょ」
「今度は、本当に」
沙耶は食卓の木目に目を落とした。
真由が会社の人と食事に行くと言った夜。京介が反対して、自分は真由に謝ってあげてと言った。
あの翌朝、洗面所で聞いたのだ。
仲直りできた、と。
よかった、と、自分は笑った。
「あの夜、謝ってあげてって言ったの、私だよね」
京介が小さくうなずいた。
「二人が仲直りできて、よかったって、本気で喜んだんだよ」
涙が頬を伝った。
京介は謝るように顔を伏せたが、沙耶はもう、その仕草だけでは何も受け取れなかった。
「これじゃあ、私、ただのピエロじゃない」
心配し、励まし、知らないまま背中を押した。
自分のしたことが二人に利用されていたようで、思い出すたびに胸がつぶれそうだった。
左手の指輪が目に入った。
沙耶は、その上に右手を重ねた。
聞かなければならないことが、もう一つ残っていた。
「私のこと、好きだったの?」
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