妹と不倫した夫の処刑日~実の妹と肉体関係を持った男の末路~   作:桐山さくらこ

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私はあなたを選ばない

「今だって、好きだよ」

 

 京介の返事は早かった。

 

 沙耶は、重ねた手をほどかなかった。

 

「じゃあ、真由は? 私と付き合い始めたときも、好きだったの?」

 

 今度は、すぐに答えなかった。

 

「……忘れようとしてた」

 

 その言葉が、ゆっくり胸へ入ってきた。

 

「私と、付き合いながら?」

 

「ずっと、どうにかしなきゃって思ってたんだ」

 

 沙耶は思い出した。

 

 駅までの道で、勇気を出して好きだと言った。返事を待つ間、怖くて、袖を握っていた。

 

 あのとき京介が答えを迷った理由の中に、自分には知らされていない人がいた。

 

「それで、どうして結婚したの」

 

「沙耶と、ちゃんとやっていこうと思ったからだよ」

 

「真由のことは?」

 

 京介が視線を落とした。

 

「結婚して、一緒に暮らせば、もう考えなくなるって思って」

 

 指輪に触れていた手から、力が抜けた。

 

「真由を忘れるために、私と結婚したの?」

 

「それだけじゃない。沙耶を幸せにしたいとも思ってた」

 

「それだけじゃないって?」

 

 声が出なくなった。

 

 式場を決めた。家具を選んだ。カーテンの色で迷い、一緒に店を何軒も回った。これから二人で暮らす家だからと、どんな小さなことも楽しかった。

 

 その間も、京介は確かめていたのだろうか。

 

 私と暮らせば、真由を忘れられるかどうか。

 

「私、何だったの?」

 

「大事にしたかったのは、本当だよ」

 

 京介が身を乗り出した。

 

「幸せだって、言ってくれたじゃないか」

 

「幸せだったよ」

 

「だったら」

 

「何も、知らなかったから」

 

 京介が口を閉じた。

 

 幸せだった時間を、なかったことにしたいわけではない。あのころの自分は、確かに笑っていた。

 

 けれど、その笑顔を理由に、今の痛みを引き受けろと言わないでほしかった。

 

「私は、ずっと一緒にいたかった。真由を忘れられるかどうかなんて、知らないで」

 

「俺だって、離れたくない」

 

「だったら、隠したまま結婚しないでよ」

 

「そんなこと言ったら、結婚してくれなかっただろ」

 

 言い終えてから、京介の表情が変わった。

 

 沙耶は彼を見ていた。

 

 自分でわかっていたのだ。知られたら選んでもらえないことを。だから隠し、選ぶために必要なものを、沙耶の手元から取り上げていた。

 

「うん。しなかったよ」

 

 静かに答えた。

 

 今までで、いちばん迷いのない返事だった。

 

 右手の指を、結婚指輪に添えた。

 

 少し引くと、皮膚が引っかかった。そこでやめたら、また何も決めないままになる気がした。呼吸を整え、ゆっくり抜いた。

 

「待って。やり直させてほしい」

 

 指輪をテーブルへ置いた。

 

 小さな音だった。

 

「私、離婚する」

 

「今すぐ決めなくても」

 

「今、決めたんじゃない。あの日から、ずっと考えてた」

 

 真由の部屋の前から、ここまで。

 

 食べられなかった朝も、別の部屋で泣いた夜も、答えを待った食卓も、全部つながっていた。

 

 京介にとっては、今日ようやく認めた事実なのだろう。沙耶には、その前から続いている苦しみだった。

 

「今夜は、実家に帰る」

 

「……いつ、戻る?」

 

「戻らないよ」

 

 京介が顔を上げた。

 

「荷物のことは、あとで連絡するから」

 

 椅子から立つと、膝が少し震えた。決めたからといって、怖くなくなるわけではなかった。

 

 それでも、鞄を取りに行けた。

 

 玄関で靴を履く間、京介が後ろにいた。

 

「沙耶。お願いだから、もう少し」

 

「今、ここにはいられない」

 

 鞄の持ち手を握った。

 

 いつものように、いってきますとは言わなかった。

 

 扉を閉めると、外の空気が頬に触れた。冬の夜だった。息が白くなり、冷たさで頭が少しはっきりした。

 

 沙耶は母へ電話をかけた。

 

「お母さん。今から帰ってもいい?」

 

「いいわよ。どうしたの?」

 

「泊めてほしい」

 

 それだけ言うと、声が詰まった。

 

 電話の向こうで、母が何かを置く音がした。

 

「わかった。気をつけて帰っておいで」

 

 何があったのか、問い詰めなかった。

 

 沙耶はうなずいてから、電話では見えないことに気づいた。

 

「うん」

 

 ようやく、そう返した。

 

*

 

 実家の明かりは、玄関の外から見えた。

 

 母の理恵が扉を開けた。沙耶の顔を見て何かを言いかけ、先に鞄を受け取った。

 

「寒かったでしょう。入って」

 

 居間に座ると、温かいマグカップが出てきた。

 

 昔から使っているものだった。持ち手の形も、少し厚い縁も、覚えていた。

 

 沙耶は両手で包んだ。

 

「京介と、離婚する」

 

 理恵は向かいに座った。

 

「そう」

 

 驚かなかったわけではない。けれど、すぐに理由を求めたり、落ち着いて考えろと言ったりはしなかった。

 

 その静けさに、沙耶はようやく顔を上げられた。

 

「信じてもらえないかもしれないけど、聞いてほしい」

 

「聞くよ」

 

 喉が震えた。

 

 夫の実家で目を覚ましたところから、話した。途中で言葉が止まると、母は待ってくれた。真由の名前を出すところでは、何度も息をつぎ直した。

 

 最後に、夢だと言われたことを話した。

 

「私、ちゃんと見たのに」

 

「うん」

 

「ずっと、眠れなくて」

 

 理恵が、テーブルの上の手にそっと触れた。

 

 その手を避けなくていいことに、沙耶は泣いた。

 

 話が終わるころには、飲み物はぬるくなっていた。それでも、口にすると喉を通った。

 

 母が、今夜はここで眠りなさいと言った。

 

 沙耶は小さくうなずいた。

 

 すべてが済んだわけではない。明日から決めることが、まだたくさんある。

 

 それでも今夜は、あの人の帰ってくる音を聞かずに眠れる。

 

 沙耶はカップを持ち直し、もう一口、ゆっくり飲んだ。

 

*

 

 沙耶が出ていって、一週間が過ぎた。

 

 食卓の上にあった指輪を、京介は小さな箱へ入れた。しまい込む気にはなれず、棚の端に置いてある。

 

 洗濯物は自分の分だけになった。買ってきた惣菜は、皿へ移さずに食べることが増えた。

 

 静かな家で、京介は何度もスマートフォンを確かめた。

 

 沙耶から連絡が来たのは、木曜の夜だった。

 

〈土曜日に、衣類と仕事に必要なものを取りに行きます。母も一緒です〉

 

 会える。

 

 京介は、そのことを先に考えた。

 

 顔を見て話せば、わかってもらえるかもしれない。一週間離れて、沙耶も少しは落ち着いたのではないか。

 

〈そのとき、ちゃんと話したい〉

 

 返事はすぐに来た。

 

〈離婚と、お金や荷物の話をします。やり直すための話はしません〉

 

 京介は画面を見つめた。

 

 それでも、会えば何とかなるのではないかという考えを、捨てられなかった。

 

*

 

 土曜日、沙耶は母と来た。

 

 いつも玄関に置いていた靴を履いていなかった。小さな違いなのに、自分の知らない場所から来た人なのだと、京介は感じた。

 

「必要なものから運ぶね」

 

「その前に、少し話せない?」

 

「うん。話すために来たから」

 

 沙耶は食卓へ座り、鞄から紙を出した。

 

 離婚、慰謝料、預貯金、家具と家電。

 

 相談する項目が、短く整理されていた。

 

 その準備をしたのは、母の家でだった。夜中に目を覚ました翌朝も、沙耶は少しずつ必要なことを書き出した。つらくて手が止まったときは休み、気持ちが戻ったら続きを書いた。

 

「あとで困らないように、専門家にも相談して、取り決めを残したい」

 

 沙耶が言った。

 

 京介は紙ではなく、彼女の顔を見ていた。

 

「俺、ちゃんと謝ったよ。それでも許せない?」

 

 沙耶は、息を一つ吐いた。

 

 まだ、その話なのだ。

 

「謝ったら、結婚していたときに戻れるわけじゃないよ」

 

「これから変わるって、言ってるだろ」

 

「私は、終わらせるために来たの」

 

 自分の声が落ち着いていることを、沙耶は少し不思議に思った。平気になったわけではなかった。会えば胸は痛んだし、棚に並んだ食器を見るだけで、ここで暮らした日が戻ってきた。

 

 けれど、戻りたいという気持ちにはならなかった。

 

 京介が、隣の理恵へ顔を向けた。

 

「お母さんからも、もう少し考えるように言ってもらえませんか」

 

 理恵は膝に置いていた手を、静かに重ね直した。

 

「沙耶は、考えてここへ来ています」

 

「でも、まだ時間が」

 

「眠れない日が、何日も続きました。これ以上、この子に待っていなさいとは言えません」

 

 京介は口をつぐんだ。

 

 沙耶は紙を少し、彼のほうへ寄せた。

 

「今日、話せるところから話したい」

 

 長い沈黙のあと、京介がうなずいた。

 

 希望していた会話にはならなかったが、沙耶を引き止める言葉がもう見つからなかった。

 

 話し合いが終わり、沙耶は衣類を鞄へ詰めた。

 

 普段使いのブラウス、仕事の資料、充電器。棚の上の物を一つ持ち上げるたび、そこに四角い空白ができた。

 

 何を持っていくか、自分で決めていい。

 

 そんな当たり前のことを、久しぶりに確かめた気がした。

 

 京介が運ぼうとした鞄は、理恵が受け取った。

 

 玄関で、沙耶は必要な連絡はあとで送ると伝えた。

 

「気をつけて」

 

「うん」

 

 短く答え、母と外へ出た。

 

 車へ乗ってから、沙耶は膝の上で手を開いた。ずっと握っていたため、爪の跡がついていた。

 

 理恵は何も聞かず、少し待ってから車を出した。




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