ケチ夫の処刑日~500円のワンピースを返品させた男の末路~ 作:桐山さくらこ
「ママ、かわいい!」
鏡の横から顔を出した結衣が、ぱっと両手を合わせた。
三浦美咲は、淡い青のワンピースの裾をつまんだ。腰のあたりに小さなひだが寄っていて、体を少し動かすだけで、布がふわりと揺れる。
「ほんと? 変じゃない?」
「うん。お出かけするの?」
「来週ね。ママの学校のお友達と会うの」
小学二年生の娘に同窓会と言っても、まだぴんとこないらしい。香織ちゃんも来るよ、と付け足すと、結衣は「あ、芽衣ちゃんのママ!」と笑った。
その顔を見て、美咲も笑う。
古着屋の隅で見つけた服だった。
ほかの服よりずいぶん安かったので、最初はどこか汚れているのかと思った。襟も、袖も、裾の裏も確かめた。小さな毛玉が一つあったほかは、きれいだった。
五百円。
それでも、一度はハンガーを戻した。
冷蔵庫に卵がいくつ残っているか。次の給食費がいつ引き落とされるか。服を買うときに考えるには妙なことを、美咲は棚の前でいくつも思い浮かべた。
帰りかけてから、もう一度戻った。
久しぶりに友達に会う。その日に着ていく自分を想像できる服を見つけたのは、何年ぶりだろう。
「パパ、なんて言うかな」
「かわいいって言うよ」
結衣は少しも迷わなかった。
美咲も、その答えを信じたくなった。
鍵の音がした。
玄関から足音が近づき、居間の入口に亮介が立つ。仕事の鞄を片手に、鏡の前の二人を見た。
「何やってんの?」
「あ、おかえり。見て、これ」
美咲は裾を軽く広げた。
「五百円だったんだよ。古着だけど、きれいでしょう」
「……買ったの?」
褒める言葉を待っていたため、美咲は返事が半拍遅れた。
「うん。同窓会に着ていこうと思って」
「同窓会?」
「香織に誘われたの。結衣のこと、お願いできないかな。お昼の二時間くらいなんだけど」
亮介の視線は、美咲の顔には向かなかった。
ワンピースを上から下まで見て、鼻で短く息を吐く。
「誰に見せるんだよ、そんな服」
裾をつまんだ指が止まった。
「……誰って、お友達に会うから」
「枯れた主婦が、今さら着飾ってどうすんだよ」
隣で、結衣が動かなくなった。
美咲は娘のほうを見られなかった。鏡に映る自分の口元だけが、まだ笑おうとしている。
「そんな言い方……」
「返品してこい。金の無駄だろ」
「五百円だよ?」
「値段じゃない。必要かどうかだよ」
そう言われると、五百円だと繰り返すことまで、的外れになった気がした。
美咲は服から手を離す。
「必要だから買ったの。着ていく服、なくて」
「じゃあ、行かなきゃいいじゃん」
亮介は靴下のままソファへ向かった。
「会費もかかるんだろ。家の金、貯めてる最中に」
「……ずっと会ってないんだよ。みんなに」
「俺だって、暇じゃないんだけど」
テレビがついた。
明るい笑い声が部屋を満たす。さっきまでの自分たちの声は、もうどこにもなかった。
袖を引かれた。
見下ろすと、結衣が困ったような顔をしていた。
「ママ……もう、着替えよう?」
美咲は唇を結んだ。
娘にこんな言葉を選ばせたくて、見せたわけではなかった。
*
寝室で普段着に戻ると、青い服だけが急に他人の物のように見えた。
値札は切っていない。レシートも、店の袋に入っている。
きれいに畳めば、元に戻せる。
布をならしていた手が、途中で止まった。
「……似合ってたよ」
戸口に結衣がいた。
「ほんとだよ」
さっきのような弾んだ声ではなかった。母を傷つけないように、そっと差し出された言葉だった。
「うん。ありがとう」
美咲は娘の頭に手を置いた。
顔を上げていると、何かがこぼれそうだった。下を向いた途端、膝の上に涙が落ちた。
結衣は何も聞かなかった。
美咲の手の下で、じっとしていた。
*
翌日、古着屋の店員は美咲を覚えていた。
「あ、昨日の。サイズ、合いませんでした?」
「いえ。そうじゃなくて……」
レジの上には、丁寧に畳んだワンピースがある。
似合わなかったわけではない。少なくとも結衣は、かわいいと言ってくれた。
「着ていく予定が、なくなって」
ようやく言うと、店員はそれ以上尋ねず、レシートを確かめた。
トレーに置かれた五百円玉が、かすかな音を立てる。
「また、見にいらしてくださいね」
「……はい」
店の外で、美咲は手のひらを開いた。
小さな硬貨一枚になってしまうと、自分が昨日どれほど楽しみにしていたのか、誰にも説明できない気がした。
結婚前の誕生日を思い出した。
レストランの小さなケーキ。その横に置かれた、ネックレスの箱。
『これ……私が見てたの、覚えてたんだ』
『欲しそうだったから』
高かったでしょう、と遠慮すると、亮介は誕生日なんだから、と笑った。
美咲が泣きそうになると、そんなにうれしいのかと、少し照れた顔をした。
あのころは、美咲が喜ぶと、亮介も笑ってくれた。
今朝まで、どこかでそれを待っていた。
スマートフォンを開く。
〈美咲と会うの、何年ぶりだろう。楽しみ!〉
香織のメッセージの下に、何度も消した文章をもう一度打った。
〈ごめん。やっぱり行けなくなった〉
送信を押し、五百円玉を財布にしまった。
服を返せば終わるはずだったのに、家へ向かう足は、昨日よりずっと重かった。
*
香織から理由を尋ねる返事が来たのは、その日の夕方だった。
美咲はしばらく画面を見つめたあと、家の都合で、とだけ送った。
嘘ではない。
そう思っても、胸のつかえは取れなかった。
夜、結衣が眠るのを待って、美咲は居間へ戻った。
亮介はテレビを見ながら、片手でスマートフォンを操作していた。食卓の向かいに座っても、顔を上げない。
「服、返してきた」
「うん」
それだけだった。
ありがとうでも、悪かったでもない。頼んでおいた用事が済んだときの、短い返事だった。
美咲は膝の上で手を重ねた。
「……私、働こうと思う」
亮介がようやく顔を向けた。
「急に何?」
「急じゃないよ。結衣が学校に入ったころも話したでしょう」
そのときは、まだ慣れないうちは家にいてやれと言われた。
学校から帰ってくる娘を迎えたかったのは、美咲も同じだ。だから待った。二年生になれば、もう少し落ち着くだろうと考えていた。
美咲は求人の画面を見せた。
事務のパート。勤務時間は午前九時から午後一時まで。
「これなら、結衣が帰る前に帰れる」
「夏休みは?」
「学童を申し込もうと思ってる」
「金かかるじゃん」
「それを引いても、残るよ。計算した」
亮介の眉が動いた。
「熱出したら? お前が休めるの?」
「面接で聞いてみる。お母さんにも、頼める日があるか相談して」
「そこまでして、働く意味ある?」
家族のことを考えていないと言われないように、美咲なりに調べてきた。
通勤の経路も、学童の申込みも。答えを一つ用意すると、亮介は別の理由を持ち出す。
画面を引っ込めかけて、美咲は手を止めた。
「あるよ」
亮介の口が、わずかに開いた。
「自分の服くらい、自分で買いたい」
「まだ、その話かよ」
「結衣が生まれたとき、俺に任せろって言ったよね」
「だから、養ってるだろ」
亮介の言うとおり、家賃は払われている。毎月、決まった生活費も渡される。
けれど、足りない月には美咲がどこかを削った。洗剤を買う週はおかずを減らし、自分の靴は底が減っても履き続けた。
「会社を辞めたら、こんなに何も言えなくなると思わなかった」
自分の声なのに、思いがけずはっきり聞こえた。
「お金が必要だから。自分で稼いだ分なら、いいでしょう」
亮介はテレビの音量を下げた。
話を聞く気になったのかと、美咲は少し顔を上げる。
「うちの女房が、金がないから働きに出たなんて、思われたくないんだよ」
「……誰に?」
「会社のやつとか。近所とか」
この作品の漫画版は、次の収録本でお読みいただけます。
『食い尽くし夫の処刑日~妻と娘の取り分まで奪った男の末路~【合本版】: 匿名希望の体験談【コミック】第10~12巻+「ケチ夫」「介護丸投げ夫」全5作品収録 (ヴァンクール出版)』
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