ケチ夫の処刑日~500円のワンピースを返品させた男の末路~   作:桐山さくらこ

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日曜日が待ち遠しい

亮介は、狭いアパートへ移った。

 会社の家賃補助がなくなり、それまでの部屋を維持するのが難しくなったためだった。

 

 段ボールを机代わりにして、返済の予定を並べた。

 借入先への支払いと、会社への返還。離婚に伴う取り決めもある。

 金額を合計すると、何度やっても同じ答えになった。

 

 以前の収入で働ける職場は、すぐには見つからなかった。

 実績を話したあとで前職を辞めた理由を聞かれると、亮介の声は小さくなった。

 

 ようやく働き始めても、払うべきものが消えるわけではない。

 電話口で事情を説明し、頭を下げることが増えた。

 

「前の給料とは違うので……はい。もう少し、待っていただけませんか」

 

 相手の返事を聞きながら、紙に数字を書いた。

 持ち物を売って一度払えても、翌月の支払いはまた来る。相続で埋まると思っていた穴は、自分で引き受けるほかなかった。

 

 時計のない手首に目が向いた。

 部屋の隅には、営業で使っていた名刺入れがある。中に残った名刺には、もう自分の所属ではない会社の名前が印刷されていた。

 

 夕飯は、自分で用意しなければならない。

 洗った服も、自分で干さなければ乾かない。

 誰もいない部屋で、亮介は、翌朝着るシャツを探した。

 

*

 

 美咲は母の家を売ることにした。

 

 すぐに決められたわけではない。

 維持に必要なことを調べ、結衣の通学を考え、二人で暮らす場所を見に行った。売却にかかる費用や手続きも確認した。

 査定書の金額を、そのまま自由に使えるお金だとは考えなかった。

 

 広い家を残すことと、母を忘れずにいることは、同じではない。

 そう思える日と、手放すのが申し訳ない日が、交互に来た。

 

 片づけの途中で、結衣が母の使っていた湯飲みを持ってきた。

 

「これも、置いていくの?」

「持っていこうと思ってるよ」

「よかった」

 

 結衣は食器を包む紙を広げた。

 美咲は隣に座り、割れないように包み方を教えた。いつもなら母が、底を厚くしておくのよと言いそうだった。

 

「おばあちゃん、こっちからも見える?」

 

 娘が新しい部屋の写真を指した。

 美咲は少し考えた。

 

「写真、持っていこう。一緒にご飯食べるところに置こうか」

 

 結衣がうなずく。

 折り紙の花も、同じ箱に入れることになった。

 

 恵子の座椅子から、読みかけの本を持ち上げた。

 挟まっていたのは、小さく折った店のレシートだった。栞を探すより早かったのだろう。いかにも母らしくて、美咲は少し笑った。

 

 そのまま本を閉じ、持っていく箱へ入れた。

 いつか読んでみたいと思った。今すぐでなくてもよかった。

 

 引っ越しの日、空になった台所を見た。

 母が立っていた場所に、自分も何度も立った。泣きながら食べた朝も、仕事を始めた日の夕飯も、ここにあった。

 

「お母さん、ありがとう」

 

 小さな声で言った。

 帰ってきていいと言ってくれた家から、今度は自分で行き先を決めて出ていく。

 

 玄関では、結衣が靴を履いていた。

 足の先を押さえてはいなかった。

 

「ママ、行ける?」

「うん。行こう」

 

 美咲は最後に鍵をかけ、娘と並んで門を出た。

 

*

 

 新しい部屋の棚に、母の写真を置いた。

 隣には、折り紙の花。引っ越しの間に少し曲がった葉を、結衣が指でそっと直している。

 

「おばあちゃん、ここから見えるね」

「うん。ご飯食べるところも、見えるよ」

 

 美咲は写真の角度を少し変えた。

 明るい窓辺が、鏡のように写り込まない位置を探す。母の顔がよく見えるところで、結衣が、そこ、と言った。

 

 まだ開けていない段ボールはある。

 足りない物も、置き場所の決まらない物もある。それでも、二人の物が二人の使いやすい場所に収まっていくのは、気持ちがよかった。

 

 結衣は何度も、自分の部屋へ行った。

 小さな机とベッドが置かれた、明るい部屋だった。

 

「本当に、ここ、全部私のお部屋?」

「うん」

 

 結衣が笑顔で両手を広げる。

 

「何色のカーテンにしよう!」

「結衣、何色が好き?」

「ピンク!」

 

 美咲は戸口で笑った。

 

「じゃあ、一緒に探そうか」

 

 決める前に、誰かの顔色を確かめなくていい。

 予算も大きさも調べるけれど、その中で好きなものを探せばいいのだ。

 結衣は机に座り、引き出しを開けたり閉めたりした。まだ何も入っていない引き出しを見て、うれしそうにしていた。

 

 美咲はその顔を、しばらく見ていた。

 失った貯金が戻ったわけではない。母と一緒に食事に行くことも、もうできない。

 それでも、今日、娘の喜ぶ部屋を用意できたことを、喜んでよかった。

 

*

 

 香織から、メッセージが届いた。

 

〈今度の日曜、みんなでランチしよう。子どもたちも一緒に!〉

 

 美咲は予定を確かめてから、すぐに返した。

 

〈行く! 楽しみにしてるね〉

 

 送信した文を見て、少し笑った。

 前に誘われたときは、行けないと言うための文章を、何度も書き直した。

 今は、行きたい気持ちをそのまま送れた。

 

 結衣に話すと、芽衣ちゃんも来るの、と弾んだ声が返ってきた。

 

「うん。みんな一緒だよ」

「ママのお友達も?」

「そう。久しぶりだから、ちょっと緊張する」

「芽衣ちゃんのママは、よく会ってるよ」

 

 そのとおりだった。

 美咲は笑った。香織には、泣いているところも、怒っているところも、何も決められないところも見てもらった。

 今度は、楽しくご飯を食べている自分で会いたかった。

 

 その晩、クローゼットを開けた。

 仕事に着ていく服は、すぐ手に取れる場所に並んでいる。どれも使いやすく、これからも着るつもりだった。

 それとは別に、日曜日のための一着を探してみたくなった。美咲は扉を閉じ、休日の買い物の予定に、服を見る時間も足した。

 

*

 

 休日、カーテンを探しに出かけた帰り、美咲は服売り場で足を止めた。

 クリーム色の生地に、小さな花が散っている。

 派手すぎず、少しだけ華やかで、日曜日に着たら気持ちが明るくなりそうなワンピースだった。

 

 値札を裏返す。

 三千九百円。

 

 買ってもいいかな。

 

 そう思ったあと、手が止まった。

 必要か。ほかの服で済まないか。誰に見せるのか。

 亮介はここにいないのに、聞かれたことのある言葉が、先に浮かんだ。

 

 美咲はハンガーを戻しかけた。

 

「ママ、着てみないの?」

 

 結衣が見上げていた。

 

「さっきから、ずっと見てる」

 

 美咲は服へ目を戻した。

 娘に許してもらうために、値段を説明する必要はない。自分で暮らしのお金を確かめ、自分で選んでいい。

 頭ではわかっていても、まだ少し怖いのだと気づいた。

 

「……そうだね。着てみよう」

 

 店員に声をかけ、試着室へ入った。

 

 鏡の前で袖を通す。

 胸元の小さなボタンを留め、肩の位置を直す。裾は長すぎず、座っても窮屈ではなかった。

 

 美咲は鏡の中の自分を見た。

 誰かに見せる前に、少し横を向き、もう一度正面へ戻った。

 

 好きだと思った。

 その気持ちを、すぐに値札で打ち消さずにいられた。

 

 カーテンを開けると、結衣の顔がぱっと明るくなった。

 

「かわいい!」

「ほんと?」

 

 娘が大きくうなずく。

 美咲も笑い、姿見の前で裾を軽くつまんだ。

 

 あの夕方と似ていた。

 けれど今日は、結衣が母を慰めるために褒めているのではなかった。美咲も、傷つく前に笑顔をしまおうとは思わなかった。

 

「……私も、これがいいな」

 

 口にすると、決められた。

 

「いかがですか?」

 

 店員が近づいてくる。

 

「これ、お願いします」

 

 普段着に戻り、服を渡した。

 レジで支払いを済ませる。袋を受け取った手に、柔らかな重みが載った。

 

 返品する理由は、考えなかった。

 

*

 

 店を出て、美咲は香織に連絡した。

 

〈ランチに着ていく服、買っちゃった〉

 

 すぐに返事が来た。

 

〈見せてね!〉

 

 美咲は画面を見て笑った。

 服のことだけを話せるのがうれしかった。いくらだったか、誰に買っていいと言われたかを説明しなくても、一緒に楽しみにしてくれる人がいる。

 

「ママ、来週、それ着るの?」

「うん。みんなに会いに行くときに」

「早く、日曜日にならないかな」

 

 結衣が手を伸ばした。

 美咲はスマートフォンをしまい、その手を握った。

 

 服の入った袋が、歩くたびに小さく揺れる。

 隣の娘は、足に合う靴で、痛がらずについてくる。

 

「ね。ママも、待ち遠しい」

 

 美咲は、日曜日に会う友達の顔を思い浮かべた。

 今度は、自分の選んだ服で会いに行こう。




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