ケチ夫の処刑日~500円のワンピースを返品させた男の末路~ 作:桐山さくらこ
美咲は求人の画面へ目を落とした。
応募資格の欄には、基本的なパソコン操作ができる方、とある。以前の仕事で毎日使っていた。思い出せるか不安でも、やってみたいと思った。
亮介が気にしているのは、そのどちらでもなかった。
「私が困ってることより、そっちなんだ」
「生活費、渡してるだろ」
「足りないって言っても、増やしてくれないじゃない」
「去年、俺がいくら稼いだと思ってんの。一千万だぞ」
「だったら、どうして……」
「家を買うためだろ。何回言えばわかるんだよ」
食卓の端に、住宅展示場のパンフレットが置いてある。
庭のある白い家。何度も開いたため、角が柔らかく折れていた。
「……今、いくら貯まってるの?」
「ちゃんと貯めてるって」
「私が働いてたときの給料も、全部渡してたよね」
「だから、まとめて管理してるじゃん」
「通帳、見せて」
亮介が椅子を引いた。
「今? もう寝たいんだけど」
「明日でいいから」
寝室の戸口で、亮介は振り返った。
「俺のこと、信用してないの?」
美咲は言葉を失った。
お金がどれくらいあるのか知りたいだけだった。それが、夫を疑ったことになる。
「こっちは家族のために働いてるのにさ」
扉が閉まる。
美咲の手の中で、求人の画面だけが明るかった。
*
翌朝、玄関で結衣が足の先を押さえた。
「どうしたの?」
「ちょっと、きつい」
美咲が靴と靴下を脱がせると、親指が赤くなっていた。
「痛かったでしょう。いつから?」
「……体育のとき、ちょっと」
「新しいの、買いに行こう」
結衣は喜ばなかった。
自分の足ではなく、美咲の顔を見た。
「お金、ある?」
靴に添えた手が動かなくなった。
八歳の娘が、痛い足をかばいながら、家の財布を心配している。
「……あるよ。大丈夫」
「パパに、怒られない?」
美咲は娘と目の高さを合わせた。
「怒られない。ママが買うんだから」
言ってから、そんな答えでは足りないと思った。誰が買おうと、足に合う靴は要る。
けれど、今の美咲に言えたのは、それだけだった。
「痛いときは、言って。お願い」
結衣が小さくうなずく。
登校する娘を見送り、美咲は寝室の引き出しを開けた。
美容院、と書いた封筒。
生活費の残りを少しずつ入れて、ようやく三千円になっていた。
千円札を三枚、並べる。
鏡には、肩より長く伸びた髪が映っている。
自分の髪は、また今度でいい。
いつもなら、それで話を終えた。
その朝は、三枚の札を財布にしまってから、もう一度、昨夜の求人を開いた。
結衣にまで、同じ我慢を覚えさせたくなかった。
*
週末、実家の庭で、結衣は新しい靴を履いて走った。
一度端まで行って戻り、縁側に座る恵子の前で足を止める。
「おばあちゃん、見て。これ、走っても痛くないよ」
「よかったねえ」
美咲は、そのやり取りを聞いてようやく肩の力を抜いた。
靴屋で結衣は、いちばん安い棚へ行こうとした。店員に足の大きさを測ってもらい、きつくないか確かめて、何足か履いてから決めた。
箱を受け取ったときより、今、笑って走っている顔を見るほうがうれしかった。
「美咲、顔、上げて」
母が、隣からのぞき込む。
「え?」
「ちゃんと寝てる?」
頬に触れられ、美咲は笑った。
「寝てるよ。髪、切ってないからじゃない?」
「切ってくればいいじゃない。今日、結衣は見てるから」
「いいよ。また今度で」
恵子は何か言いかけ、娘の髪へ目を移した。
美咲は先に、別の話を出した。
「……お母さん。私、働こうと思って」
「そう。いいところ、あった?」
働く必要があるのかとは、聞かれなかった。
それだけで、昨夜まで何度も頭の中で並べていた言い訳が、いらなくなった。
「午前中だけの事務で。まだ、応募はしてないんだけど」
「結衣のこと?」
美咲がうなずくと、恵子も考えるようにうなずいた。
「私も、見られる日は見るわよ。毎日は無理だけど、先に言ってくれたら」
「本当? 夏休みとかも?」
「うん。予定、決まったら教えて」
全部大丈夫だと言われたわけではない。
それでも、一緒に考えてくれる人がいた。
「ありがとう。助かる」
声に出すと、ようやく面接へ行く自分が想像できた。
*
昼ご飯には、卵焼きと煮物が出た。
母の卵焼きは、美咲が作るものより少し甘い。
「どう?」
「……うん。おいしい」
「昔っから、それ好きね」
美咲はもうひと口食べた。
最近、自分の皿に十分あるかどうかを、気にしたことがなかった。結衣の分をよけ、亮介の分を並べ、余ったものを台所でつまむ日もあった。
温かいご飯と卵焼きを、座ってゆっくり食べる。
箸を動かしているうちに、かえって空腹に気づいた。
「ほら。やっぱり、おなか空いてたんじゃない」
母の声に、美咲は手を止めた。
「……おかわり、ある?」
「あるわよ。いっぱい食べていきなさい」
「私も!」
結衣が茶碗を持ち上げ、恵子が笑う。
美咲は自分の茶碗も差し出した。
誰も値段を聞かなかった。そんなことを考えてしまい、うつむいたまま、ひと口目のご飯をよく噛んだ。
帰り際、母は夕飯にと料理を持たせてくれた。
「今日は少し休んで」
容器の底が、まだ温かかった。
*
自宅で亮介を迎えたとき、美咲はその手首に目を止めた。
見慣れない時計だった。玄関の照明を受けて、金属の縁が光っている。
「それ、どうしたの?」
「時計? 買った」
亮介は革靴を脱いだ。
結衣は隣で、自分の新しい靴をそろえている。
「……いくら?」
「何?」
「その時計」
「いちいち聞くなよ」
美咲は料理の容器を持ち直した。
「私には、五百円でも返品しろって言ったじゃない」
「お前と一緒にするな。仕事で使うんだよ」
「今までの、壊れたの?」
「営業は、見た目も大事なんだって」
亮介は手首を持ち上げた。
新しい物を人に見せるときの顔をしていた。先日、鏡の前で自分もそんな顔をしていたのだろうかと、美咲は思った。
「明日も、大きい商談があるんだぞ。安物つけて行けるかよ」
「お客さんに会う服や時計は、必要なの?」
「当たり前だろ」
「私がお友達に会う服は?」
亮介は、美咲を面倒そうに見た。
「お前が着飾って、誰が金払ってくれるんだよ」
結衣が母のそばに寄った。
美咲は、容器を持つ手に力を入れた。少しでも緩めたら、落としてしまいそうだった。
「で、飯は?」
「……お母さんにもらってきた」
「じゃあ、温めてよ」
亮介は居間へ行った。
台所に立った美咲は、容器の蓋越しに卵焼きを見た。
お金を使うことすべてが、嫌いなわけではない。
自分が身につける物なら、必要だと言えるのだ。
私には、使いたくないんだ。
認めると涙が出そうで、美咲はしばらく蓋を開けられなかった。
*
週明け、美咲は求人に応募した。
入力した名前も、連絡先も、何度も確認した。送信後の画面に受付の文字が出ると、思ったほど恐ろしいことは何も起きなかった。
「ママ、今日、おばあちゃんのとこ行く?」
ランドセルを背負った結衣が聞く。
「今日は行かないよ。どうしたの?」
「また、折り紙しようって言ってたから」
「そっか。電話するとき、聞いてみるね」
娘を送り出し、美咲は応募先から届いたメールを保存した。
面接まで、行ってみよう。
そこから先のことは、行ってから考えればよかった。
その日の午後、亮介は勤務先の会議室で、取引先の田辺と向かい合っていた。
「金曜に使う分だけでも、何とかならない?」
「そちらは先に出せます。工場には確認してきました」
納期を気にする相手のために、亮介は先に手を打っていた。
田辺は助かったと言い、次の見積もりも頼んだ。
商談のあと、営業部長の高瀬が声をかけた。
「お前に任せておけば安心だな」
亮介は照れたように笑い、袖口を直した。
新しい時計が目に入り、満足する。
自分は稼いでいる。会社にも、家族にも、必要な人間だ。
その自信のまま、亮介は家へ帰った。
食卓に、開封された借入の明細が並んでいるとは思っていなかった。
この作品の漫画版は、次の収録本でお読みいただけます。
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