ケチ夫の処刑日~500円のワンピースを返品させた男の末路~ 作:桐山さくらこ
北都ファイナンス。
三浦亮介様。
借入残高、百四十二万円。
美咲は、一度読んだ数字をもう一度たどった。
桁を間違えているのかもしれないと思い、指先で区切った。何度見ても、同じ金額だった。
「百四十二万……?」
帰宅した亮介が、居間の戸口からのぞいた。
「ああ、それ。置いといて」
「借金してるの?」
「立て替えてるだけだよ。接待費」
「会社の?」
「そう。戻ってくるから」
何でもないような声だった。
美咲はもう一枚の明細を持ち上げた。みどりローン。こちらの残高は、百十八万円。
「こっちも?」
「だから、大丈夫だって」
「合わせて、二百六十万だよ」
「金額だけ見て騒ぐなよ。仕事なんだから」
美咲は二枚を横に並べた。
会社の仕事なら、なぜ個人でここまで借りるのか。けれど、今は勤めていない自分が知らない仕組みも、あるのだろうか。
「会社、いつ返してくれるの?」
「まとめて精算するから、少し時間がかかるんだよ」
「家の貯金は?」
「そっちを崩さないために、借りてるんだろ」
それらしい説明をされるたび、次の質問をするのが難しくなった。
でも、借入先の名前も、残高も、目の前にあった。
「……通帳も見たいって、言ったよね」
亮介の眉間にしわが寄る。
「一緒に確認したいだけなの。いくら残ってるか」
「アプリで管理してるから。あとで見せるよ」
「今じゃ駄目?」
「しつこいな。俺、疲れて帰ってきてるんだけど」
亮介は美咲の手から明細を取った。
「とにかく、心配しなくていいから」
そう言われて心配がなくなるなら、最初から聞いていなかった。
美咲は、紙のなくなった食卓を見ていた。金額を忘れないように、心の中でもう一度繰り返した。
*
数日たっても、口座の画面を見せてもらうことはできなかった。
「明日、接待で遅いから」
亮介が言ったのは、夜、弁当袋を受け取るときだった。
「また? 立て替えてる分、戻ってきたの?」
「まだ。言ったじゃん、時間かかるって」
寝室の扉が閉まる。
美咲が鞄から弁当袋を引き抜くと、折れた領収書が食卓の脇へ落ちた。
拾い、日付を見た。
十一月七日。クラブ・ルーチェ。
一八万六千円。
店の名前をスマートフォンに打ち込むと、華やかなドレスを着た女性たちの写真が出た。
美咲は、領収書と画面を見比べた。
自分のワンピースは五百円だった。
何着分になるか、考えかけてやめた。そんな計算をしても、知りたいことには届かない。
本当に仕事なのか。
このお金は、本当に戻ってくるのか。
領収書の写真を撮った。
日付も金額も読めるか、拡大して確かめた。先日の借入明細も、返してもらって写しを残そうと思った。
亮介の説明を聞いたあとで、自分の記憶のほうを疑わないために、手元に置いておきたかった。
香織との連絡画面を開いた。
〈同窓会は残念。またランチでもしようね〉
あれから、返事をしていなかった。
美咲は一度深く息を吸い、短い文を送った。
〈香織、今、話せる?〉
*
翌日の昼、カフェで事情を話すうちに、コーヒーはすっかり冷めた。
「それで、服を返したの?」
「……うん」
「そんなの、私に言ってくれれば」
美咲はうつむいた。
言えなかった理由を、うまく説明できなかった。同窓会の会費が惜しいと夫に言われたことも、五百円の服を叱られたことも、声に出すと自分が小さくなる気がしていた。
香織が、少し声を落とす。
「……ごめん。言いにくいよね」
「情けなくて。五百円も、自由に使えないなんて」
「美咲が悪いんじゃないでしょう」
その言葉を聞いた途端、目の奥が熱くなった。
「私も、そう思いたい。でも、毎日言われると……」
何か欲しいと思うたび、まず必要かと自分に聞く。
必要だと考えても、亮介に説明できないものは諦める。そうしているうちに、欲しいと思うこと自体が、悪い気がしてきた。
ハンカチを出す間、香織は急かさなかった。
美咲は涙が収まるのを待って、領収書の写真を見せた。
「なのに、こんなお店に行ってるの」
「……十八万?」
「接待だって。借金も、仕事のお金が戻れば返せるって言うんだけど」
「戻ってきてるの?」
美咲は首を横に振った。
「通帳も見せてくれない」
「それは、おかしいよ」
美咲はうなずいた。
おかしいと思っていいのだと、ようやく思えた。
「今日も、接待だって」
「また、このお店?」
「わからない。場所も、教えてくれないの」
画面の端に、店の住所が写っている。
電車で行ける場所だった。
「行って、確かめたい」
香織が顔を上げた。
「一人で? 結衣ちゃんは?」
「お母さんに、泊まらせてもらおうと思ってる」
もし亮介が取引先の人と出てきたら、そのまま帰ろう。
見当違いなら、安心できる。それでも貯金のことは、一緒に確認してもらおう。
美咲には、まだそんな期待が残っていた。
「帰るとき、連絡して。何時でもいいから」
香織はそう言い、美咲のカップを見た。
「冷めちゃったね。もう一杯、飲もうか」
美咲はカップを両手で包んだ。
最後まで話を聞いてもらったことが、ようやく体の中へ届いてきた。
*
十一月十四日、午後十一時十八分。
美咲はスマートフォンの時刻を確かめ、コートのポケットへ片手を入れた。
道路の向こうに、ルーチェの看板が見える。
店から出てくる人影があるたびに、顔を上げた。何人もの知らない人を見送って、足の裏が冷たくなっていた。
母からメッセージが届いた。
〈結衣、寝たわよ。遅くなるなら、明日でいいからね〉
美咲は、ありがとう、と打った。
仕事を始める相談があるときも、娘を預けるときも、母はまず話を聞いてくれる。今夜の本当の用事は、まだ言えていなかった。
〈朝、迎えに行くね〉
送信して顔を上げたとき、店の扉が開いた。
亮介だった。
隣に女性がいる。ドレスの上に上着を羽織り、亮介の腕に両手を絡めていた。
仕事相手らしい人は、ほかにいない。
美咲は口を開いたまま、息を吸い損ねた。
道路を渡った二人が、少し先を歩いていく。
美咲は離れて、その後を追った。立ち止まりたいのに、二人を見失うほうが怖かった。
女性の歩幅に合わせて、亮介はゆっくり歩いていた。
途中で何か話しかけられると、顔を近づけて聞いている。美咲が今日の出来事を話しても、テレビを見たまま返事をした人だった。
ちゃんと聞けるのだ。
そのことを知らなかったわけではない。だからこそ、今、ほかの人に向けられている姿を見るのがつらかった。
美咲は名前を呼びかけ、声にする前に唇を閉じた。
「明日も仕事なんじゃないの?」
女の声が聞こえた。
「まだ帰りたくないんだけど」
亮介は笑っていた。
家で美咲の話を聞くときの、早く終わらせたい顔ではない。相手の顔を見て、自分から言葉を重ねている。
美咲は両手でスマートフォンを持った。
震える指を、もう片方の指で押さえた。
二人が、明るい入口の前で止まる。
休憩、宿泊。料金を記した看板があった。
そこへは、入らないで。
ここまで見て、まだそう願った。
道を間違えただけであってほしかった。女の手を離し、亮介が一人で駅へ戻ってくれたらと思った。
画面の中に、二人の顔と看板が収まる。
美咲は撮影ボタンを押した。
ガラスの扉が開き、二人の姿が内側へ消えた。
スマートフォンを下ろしても、足が動かなかった。
周囲では車が走り、人が笑っている。自分のいる場所だけが、取り残されたようだった。
どれくらいそうしていたのか、わからない。
冷えた指先で香織に帰ると連絡し、美咲は駅へ向かった。電車の窓に映った自分は、古いコートの前を、ずっと握り締めていた。
*
亮介が帰宅したのは翌朝だった。
玄関の音に、美咲は食卓から顔を上げた。ほとんど眠れなかった。撮った写真を消さないよう、別の場所にも保存して、朝を待った。
「おかえり」
「……まだ起きてたの?」
亮介は水を注ぎ、立ったまま飲んだ。
「どこにいたの?」
「接待って言っただろ」
「ルーチェ?」
グラスを持つ手が止まった。
「領収書、見たんだろ。だったらわかるじゃん」
「お客さんも一緒だった?」
「当たり前だろ」
美咲はスマートフォンを食卓に置いた。
ホテルの入口。夫の顔。隣の女性。
「……この人が?」
亮介は画面を見た。
すぐには何も言わなかった。その沈黙の間に、美咲は、謝るなら今だと思った。何があったのか、自分から話してほしかった。
この作品の漫画版は、次の収録本でお読みいただけます。
『食い尽くし夫の処刑日~妻と娘の取り分まで奪った男の末路~【合本版】: 匿名希望の体験談【コミック】第10~12巻+「ケチ夫」「介護丸投げ夫」全5作品収録 (ヴァンクール出版)』
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