ケチ夫の処刑日~500円のワンピースを返品させた男の末路~   作:桐山さくらこ

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帰ってきたんでしょう

「私、見てたよ」

「お前……つけてきたのか」

「そうしなきゃ、教えてくれなかったでしょう」

「気持ち悪いことするなよ」

 

 美咲は顔を上げた。

 

「……私が?」

 

 亮介が目をそらす。

 

「嘘ついてたのは、あなたじゃない」

 

 涙が落ちた。

 泣かずに話そうと思っていた。泣いたら、また落ち着けと言われて、話そのものを終わらせられる気がした。

 それでも、止められなかった。

 

「借金も、この人に使ったの?」

「……店の付き合いだよ」

「ホテルまで?」

「一回、流れでそうなっただけだって」

「いつから?」

「だから、一回だって」

 

 一回。

 その数を守れば、ほかのことも済むと思っているようだった。

 

「じゃあ、二百六十万は、何に使ったの?」

「あれは、ちゃんと会社に返してもらうから」

 

 美咲はスマートフォンから手を離した。

 

「……私には、いらない物を買うなって」

「また、服の話?」

 

 亮介が眉をひそめた。

 

「生活費も渡してるし、家にも帰ってきてるだろ。そんなに騒ぐことかよ」

 

 家に帰ってきている。

 それで、妻を傷つけていないことになるのだろうか。

 

 美咲は目の前の夫を見た。

 昨夜、ホテルへ入っていったことよりも、今、こちらを見ようとしないことが苦しかった。

 

「朝から、うんざりするんだよ」

 

 美咲は目元を拭いた。

 

「……そう」

「わかった?」

「お母さんのところに行く」

 

 亮介の顔から、表情が消えた。

 

「は?」

「結衣を迎えに行く。そのまま、しばらく泊めてもらう」

「そこまですることかよ」

 

 美咲は答えを考えなかった。

 夫を納得させるための理由は、もう探さなかった。

 

「今、あなたといたくない」

 

 亮介はグラスを置いた。

 

「勝手にしろよ。あとで泣きついてくるなよ」

 

 寝室の扉が閉まった。

 美咲は食卓に手をついて立ち上がり、旅行鞄を取りに行った。

 

*

 

 結衣の肌着を何枚入れればいいのか、美咲は引き出しの前で迷った。

 二泊か、三泊か。一週間かもしれない。

 いつ帰るかを決められないまま、洗い替えの服を少しずつ鞄へ詰めた。

 

 教科書、筆箱、連絡帳。

 学校で困らないよう、机の周りを確かめる。結衣が明日するはずのことを考えている間は、手を動かしていられた。

 

 住宅展示場のパンフレットが目に入った。

 間取り図には、赤いペンで「結衣の部屋」と書いてある。

 

 もっと小さかった娘が、大きくなったらどの部屋で眠るか。机は窓際に置くか。亮介と、そんな話をした。

 思い出は、嘘にはなっていない。あのとき、美咲は確かに幸せだった。

 

 だから、手放すと決めたわけでもないのに、胸が痛かった。

 

 パンフレットを閉じ、机に置いた。

 持っていく物をもう一度数えて、玄関を出た。

 

*

 

「おかえり。……その荷物、どうしたの?」

 

 実家の玄関で、恵子が旅行鞄に目を止めた。

 美咲は居間のほうを見た。

 

「結衣は?」

「まだ寝てるわよ」

 

 それを聞いた途端、顔を保てなくなった。

 

「お母さん」

 

 恵子が肩に両手を添える。

 

「どうしたの。何があったの?」

 

 うまく答えられず、美咲は首を振った。

 母は責めずに、先に上がろう、と言った。鞄を受け取ってもらうと、腕が痛いほど力を入れていたことに気づいた。

 

 食卓で写真を見せた。

 恵子は画面を見つめ、低く夫の名を呼んだ。

 

「……亮介さん?」

 

 美咲はうなずいた。

 

「見せたら、つけてきたのかって。気持ち悪いって言われた」

 

 声が詰まる。

 

「私に、怒るんだよ」

 

 恵子が向かいの椅子を離れ、美咲の隣へ来た。

 

「……うん」

 

 それだけ言って、続きを待ってくれた。

 美咲は、家では最後まで言えなかったことを、少しずつ話した。

 

「ずっと、家のためだと思ってた。服も、食べるものも、我慢して」

 

 言えば言うほど、知られたくなかった日々が母の前に出ていく。

 母の目が、自分の荒れた手に向いた。

 

「結衣の靴を買うのまで、怒られないかって……あの子、聞くの」

「この間の靴?」

「うん。私の美容院のお金で買った」

 

 恵子がハンカチを出した。

 泣かせてしまったと思うと、美咲は余計に声を出せなくなった。

 

「ごめんね。うまくいってるって、言ってたのに」

「何で、私に謝るの」

 

 母の声は、責めるものではなかった。

 美咲が顔を上げると、恵子は肩をそっと抱いた。

 

「帰ってきたんでしょう。今は、それでいいから」

 

 何も解決していない。

 仕事も、貯金も、これからどうするかもわからない。それでも今、ここにいていいと言ってもらえた。

 

 美咲は母の肩に顔を伏せた。

 恵子は、泣きやむまで背中に手を置いていた。

 

 お茶は、話し終えるころにはぬるくなっていた。

 それをひと口飲むまで、美咲は、昨夜から水さえろくに飲んでいなかったことを忘れていた。

 

*

 

 起きてきた結衣は、玄関の旅行鞄を見つけた。

 

「ママも、泊まるの?」

「うん。しばらく、おばあちゃんの家にいようか」

「パパは?」

「おうちにいる」

 

 結衣は母の顔を見た。

 

「けんかした?」

 

 大丈夫だよ、と言いかけて、美咲はやめた。

 娘は、何も気づいていないわけではなかった。

 

「……うん」

 

 結衣が下を向く。

 美咲はその前にしゃがんだ。

 

「パパとは、ママが話すから。結衣のせいじゃないよ。ここから学校に行こう」

「……ランドセル、持ってきた?」

「うん。全部、ここにあるよ」

 

 結衣はピンクの肩ひもを握った。

 連絡帳を開き、昨日挟んだプリントがあるのを見て、そっと閉じる。

 

 美咲は急いで笑わせようとはしなかった。

 朝ご飯を一緒に食べて、学校へ行く道を母とも相談する。今日できることを、一つずつ整えたかった。

 

*

 

 その夜、亮介はルーチェにいた。

 隣の玲奈に妻が実家へ帰ったと話すと、彼女はグラスへ目を落とした。

 

「奥さん、見てたの? あの日?」

「もう、最悪だよ」

「……お店に来たりしないよね」

「しばらく放っとけばいいって。どうせ戻ってくるよ。働いてもないんだから」

 

 自分で言うと、亮介は安心した。

 美咲は家賃も光熱費も、自分だけでは払えない。母親のところにいつまでもいるわけにもいかないはずだった。

 

 玲奈は、以前した外で会う約束を、落ち着いてからにしようと言った。

 

「何だよ。大丈夫だって」

「だって、怖いじゃん」

 

 少し離れた席から、玲奈を呼ぶ声がした。

 彼女が立ちかけたとき、亮介はメニューを開いた。

 

「待って。今日、あれ入れようと思ってたんだけど」

 

 高額なシャンパンを指さす。

 玲奈の顔に笑みが戻った。

 

「……本当に?」

「お前の好きなやつ」

「うれしい。じゃあ、一緒に飲もう」

 

 亮介も笑った。

 家で妻に向けられた目を、ようやく忘れられた気がした。

 

 翌日、会社の机で経費精算の画面を開いた。

 同席者の欄に、取引先の田辺の名前を入れる。利用目的は、新規案件打合せ。

 

 領収書を添付し、申請を送信した。

 田辺とは何度も仕事をしている。部長も、自分が成果を上げていることを知っている。

 これまでと同じように、通るだろう。

 

 受付の表示が出たところへ、玲奈からメッセージが来た。

 

〈昨日もありがとう。楽しかった!〉

 

 亮介は、笑顔の絵文字を返した。

 

*

 

 実家へ来て数日、美咲は食卓に資料を並べた。

 借入明細の写しが二枚。十一月七日の領収書の写真。それから、十四日の夜に撮った写真。

 

 見直すたびに気分が悪くなった。

 けれど、鞄の底へしまっておけば、お金の問題までなくなるわけではない。

 

「一回だけだって。でも、領収書は何枚もあるし、借金も……」

 

 訪ねてきた香織が、隣で紙を見た。

 

「会社に聞いてみたら?」

「……会社?」

「本当に二百六十万も立て替えさせてるなら、いつ返すのか聞けるんじゃない?」

 

 美咲は明細へ目を落とした。

 亮介が話してくれなければ、わからない。ずっとそう思っていた。

 けれど、会社のお金だというなら、確かめられる相手がほかにもいる。

 

「直接、確かめたらいいんだ」

「うん。旦那さんが、見せてくれないんだから」

 

 美咲は二枚の紙を自分のほうへ寄せた。

 夫を困らせたいから電話するのか、と心の中で問うた。

 困るかもしれない。それが怖いことも、本当だった。

 それでも、何に使ったのか、どう返すのかを知らないまま、結衣の暮らしを考えることはできなかった。

 

 会社の公式サイトから、相談窓口の連絡先を探した。

 香織は庭で娘たちを見ると言い、美咲を別の部屋へ送り出した。




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『食い尽くし夫の処刑日~妻と娘の取り分まで奪った男の末路~【合本版】: 匿名希望の体験談【コミック】第10~12巻+「ケチ夫」「介護丸投げ夫」全5作品収録 (ヴァンクール出版)』
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