ケチ夫の処刑日~500円のワンピースを返品させた男の末路~ 作:桐山さくらこ
「営業部の三浦亮介の妻です。夫の立て替えている接待費のことで……」
声が上ずった。
相手は名乗りを聞き、落ち着いた声で話を促した。
「借金が二百六十万円あるんです。会社から戻れば返せると言うんですが、いつになるかも教えてもらえなくて」
「二百六十万円ですか。資料はお持ちでしょうか」
「借入の明細と、領収書の写真があります」
夫の勤務先へ電話しているというだけで、叱られそうな気がした。
担当者は叱らなかった。確認できる日付や金額を、順番に尋ねた。
「それから……」
美咲は、机に置いたスマートフォンを見た。
「接待だと言って出かけた日に、女性とホテルに入ったんです」
「その日付も、教えていただけますか」
「十一月十四日です。写真も撮りました」
言い切ると、指先が冷たくなった。
「会社に何を出しているか、私にはわかりません。でも、夫の話だけでは、もう……」
担当者は、まず資料を確認すると言った。
今この電話で借金の理由がわかるわけではない。その返事に、美咲はかえって少し落ち着いた。
知らないことは、調べてもらう。それでいいのだと思った。
案内された方法で資料を送った。
十一月十四日の写真、十一月七日の領収書、借入明細の写し。本文にも日付を書き、添付したものを一つずつ確かめた。
送信を終えると、椅子の背に体を預けた。
手が震えていたのは、そのとき初めてはっきりわかった。
*
庭では、結衣と芽衣が縄跳びをしていた。
失敗すると二人で笑い、縄を持ち直す。
「話せた?」
縁側の香織が顔を向けた。
「うん。調べてもらえるって」
「そっか」
美咲は隣に腰を下ろした。
「……怒るだろうな」
「旦那さん?」
うなずくと、香織は少し黙った。
怒らないよ、とは言わなかった。
「怖くなったら、電話して」
美咲は庭を見た。
結衣は跳べた回数を、母にも聞こえる大きな声で数えている。
「うん。ありがとう」
夫が怒るかどうかで、結衣に必要なことまでやめたくなかった。
そう思っても、怖さは残る。香織が隣にいてくれる間、美咲はそのまま座っていた。
*
一週間後、亮介は高瀬に会議室へ呼ばれた。
机には、見覚えのある経費申請書が置かれていた。
「十一月十四日の接待、田辺さんと一緒だったんだな」
「はい」
いつもの確認だと思って答えた。
高瀬は笑わなかった。
「先方に確認した。出張で、こちらにはいなかったそうだ」
亮介は書類へ目を落とした。
「……日付を間違えたかな」
「七日の分も、会っていないそうだ」
二枚とも、同席者欄には田辺の名前がある。
「確認します。手帳を見れば……」
「そこにあるだろ」
鞄の口から、手帳の端が見えていた。
亮介は持ち手を握った。開いても、その日の予定は変わらない。
「誰と行った?」
「部長、誰がこんなこと」
「先に、答えてくれ」
高瀬の声には、逃げ道がなかった。
「……店の女の子です」
亮介はすぐに言葉を足した。
「返します。この二回は、俺の方の確認漏れで」
「確認漏れで、田辺さんの名前を書いたのか?」
返事が出なかった。
高瀬は申請書をそろえ、ほかの提出記録もすべて確認すると告げた。
会議室を出た亮介は、廊下から美咲に電話をかけた。
「お前、会社に何か言っただろ」
『立て替えたお金が、いつ戻るのか聞いた』
「勝手なことすんなよ!」
声が壁に響いた。
『いつ返してくれるんだろうね』
「……何?」
『二百六十万。会社のお金だったんでしょう』
亮介は唇を噛んだ。
「俺の仕事を、めちゃくちゃにしたいのかよ」
『聞かれたら困ることだったの?』
美咲の声は、小さかった。
それなのに、いつものように黙らせる言葉が見つからなかった。
『調べてもらうから』
通話が終わった。
亮介はもう一度かけようとしたが、背後で会議室の扉が開き、スマートフォンを下ろした。
*
亮介との電話を切ってからも、美咲の心臓は速く打っていた。
窓の外を見る。玄関の音に耳を澄ます。夫が今すぐ来るわけではないとわかっていても、体の緊張はなかなか抜けなかった。
母が居間から声をかけた。
「お茶、入ったわよ」
いつもの声だった。
美咲は深く息を吐き、スマートフォンを裏返した。今日はまだ、やることがある。
翌日は、事務のパートの面接だった。
履歴書の最後の欄を確かめて、封筒へ入れる。仕事から離れていた期間を見ていると、何もできなくなっているような気がした。
けれど、応募先は履歴書を見てから会いたいと言ってくれた。
自分から断る理由を、先に作らなくてもよかった。
「明日、面接だった?」
「うん。十時から」
恵子は、美咲が用意したカーディガンを見た。
「その服で行くの?」
「……変かな」
「しわ、伸ばせば大丈夫よ。アイロン、出そうか」
美咲は、ほっと笑った。
「うん。借りるね」
母の家のアイロン台は、昔から同じ物だった。
角の布が少し擦り切れている。高校の制服も、この上で母が整えてくれた。
袖を広げていると、恵子が背後で言った。
「そういえば、面接、いつになったの?」
美咲は顔を上げた。
「……明日だよ。十時」
「ああ、そうだったわね」
聞こえなかったのかもしれない。
美咲がそう思いかけると、恵子は台所へ向いた。
「結衣、お昼まだよね。何か作ろうか」
流しには、三人で使った茶碗が置いてある。
少し残った卵焼きの皿も、その横にあった。
「お母さん。さっき、三人で食べたよ」
エプロンのひもにかけた母の手が止まった。
「……そうだった?」
美咲はアイロンを台へ戻した。
母の顔から、笑みが消えていた。
「最近、こういうこと、ほかにもある?」
恵子はすぐには答えなかった。
少しして、買ってきた物をまた買うことがある、と言った。話しているうちに、自分でも困っていたことが、ほかにも出てきた。
美咲は隣に座った。
さっきの会話を覚えていない母を責めても、答えは出ない。
一度、一緒に病院へ行こうと話した。
翌日の面接で、美咲は仕事を離れていた期間について聞かれた。
隠さず答え、以前していた事務の仕事を説明した。家庭の都合で相談が必要になる可能性も、自分から伝えた。
全部できます、と言えば採用されるのかもしれない。そう考えかけたが、続けられない約束はしなかった。
担当者は勤務の相談方法を説明し、今使っている書類を見せてくれた。
教わりながらなら、できそうなことがあった。帰り道、美咲は持参した履歴書の控えを、鞄の奥へしまった。
*
面接を終えた翌週、美咲は母の検査に付き添った。
待合室で恵子は、鞄を両手で抱えていた。
「嫌になっちゃうわ。さっき聞いたことも、忘れて」
美咲はうなずいた。
そんなことない、と打ち消すこともできなかった。
「結衣のこと、見てあげるなんて言ったのに」
「お母さん」
「これじゃ、安心して預けられないわよね」
母の指が、鞄の縁をなぞる。
美咲はその手に自分の手を添えた。
「私、帰ってきてよかった」
恵子が顔を上げた。
「一人だったら、気づけなかったから」
助けてもらうために帰ってきた。
けれど、ここにいるからできることもあった。これからは母に何もかも頼まず、別の手も借りながら暮らしを作る必要がある。
怖くないわけではなかった。
それでも、母だけに平気な顔をさせたくなかった。
美咲は診察で聞きたいことを、手帳に書いた。
通院のこと、日々の見守りのこと、仕事の日の過ごし方。まだ決まらないことを、決まらないまま尋ねるところから始めた。
*
通院や生活の支援を相談しながら、美咲は週三日の仕事を始めた。
結衣の預け先も、母一人に任せる形にはしなかった。
毎週の予定を紙に書いて冷蔵庫へ貼る。書き直すことも多かったが、空欄を一つずつ埋めていった。
初出勤の日、事務所のパソコンを前に、美咲は肩に力を入れていた。
教わった操作を忘れないよう、手帳に書き留める。以前と同じところも、変わっているところもあった。
入力を終えた書類を、二度確認して同僚へ渡した。
「頼まれていた分、これで全部です」
「ありがとう。助かった」
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