ケチ夫の処刑日~500円のワンピースを返品させた男の末路~ 作:桐山さくらこ
美咲は相手の顔を見た。
何か特別な仕事をしたわけではない。言われたとおりに入力し、そろえて持ってきただけだった。
それを、助かったと言ってもらえた。
「……ほかに、手伝えること、ありますか」
「じゃあ、こっちも頼んでいい?」
「はい」
新しい書類を受け取る手が、少し軽くなった。
帰宅すると、結衣が玄関へ来た。
「おかえり。お仕事、どうだった?」
「緊張した」
「怒られた?」
美咲は娘を見た。
真っ先にそれを聞くことが、結衣には当たり前になっていた。
「怒られてないよ。ありがとうって、言ってもらった」
「よかったね」
「うん」
抱き寄せると、結衣の頬が肩に触れた。
美咲はそのまま、少し長く腕をほどかなかった。
台所から、母の声がした。
「今日は焦がしてないわよ」
「昨日も、おいしかったよ!」
結衣が答え、恵子が本当に、と笑った。
食卓には卵焼きがある。
美咲は手を洗って、三人分の箸を並べた。
*
年が明けて、恵子が肺炎で入院した。
いつものように三人分の湯飲みを出してから、美咲は一つを棚へ戻した。
母が家にいない。それだけで、夕方の時間の流れが変わってしまった。
仕事を終えて病院へ寄り、帰ってから夕飯を作る。
結衣の学校の予定も、母の病状を聞く時間も、同じ手帳に書いた。手帳を開かなければ、何か大事なことを忘れそうで落ち着かなかった。
「ゼリー、食べられそう?」
病室で尋ねると、恵子はゆっくり首を動かした。
「……あとで、もらうわ」
美咲は未開封のゼリーを引き寄せた。
母の好きな味を選んできた。食べられないのなら仕方ないのに、蓋の文字を見ていると、何も役に立っていない気がした。
「結衣は?」
「学校。土曜日、一緒に来るね」
「そう。じゃあ、ちょっと元気な顔、しておかないと」
美咲は笑いかけた。
「無理して笑わなくてもいいよ」
母は、わかっているわよ、と小さくうなずいた。
掛け布団の上の手に触れると、以前より細く感じられた。
*
土曜日の朝、医師から話を聞くことになった。
美咲は病院の廊下で、亮介に電話した。
別居してから、夫のほうから結衣の通学や体調を尋ねられたことは、ほとんどない。
それでも、娘の父親なのだ。結衣を病院へ連れてくることなら、頼めるのではないかと思った。
「母が入院したの。今度の土曜日、結衣を病院へ連れてきてもらえない?」
『何で俺?』
美咲は壁へ背をつけた。
「私、先に病院へ行きたくて。朝、先生のお話があるから」
『勝手に連れて出てったんだろ。そっちで何とかしろよ』
廊下を、配膳の台車が通っていった。
美咲は少し体を寄せ、車輪の音が遠ざかるのを聞いた。
「……結衣に会う気もないの?」
『お前が帰ってくれば、いつでも会えるじゃん』
娘に会うことまで、美咲が家へ戻る話にされてしまう。
『で、いつ帰ってくんの?』
「香織に頼む。もう、いい」
通話を終え、病室の扉を見た。
母にこんな話を聞かせずに済んだことだけが、せめてもの救いだった。
*
土曜日、香織に連れられて来た結衣は、折り紙の花を持っていた。
つぶれないよう、小さな箱に入れてある。
「ほら。おばあちゃんに教えてもらったやつ」
「上手にできたわねえ」
「葉っぱは、私が考えたの」
結衣が指さすと、恵子は顔を近づけた。
「うん。こっちの方が、本物みたい」
結衣がうれしそうに美咲を見る。
美咲はうなずき、窓辺の小さな棚に花を飾った。
病室にも、自分たちの物が一つ置かれた。
それだけで母が少し近くなった気がした。
結衣は、花びらの角を折るのが難しかったと話した。
恵子はうなずきながら聞いていた。途中で言葉を急がせることも、もっと上手な作り方を教えることもなかった。
最後まで話せた結衣が、満足した顔で母の隣に座る。美咲は、その小さな頭をそっとなでた。
「お母さん。お給料、入ったよ」
「あら、よかったじゃない」
「退院したら、何か食べに行こう。私がごちそうする」
恵子が目を細める。
「結衣も?」
「もちろん。三人で」
「じゃあ、お肉がいいわ」
美咲は驚いて、母の顔を見た。
「食べられる?」
「そのころには、食べられるわよ」
そう言われると、三人で食卓を囲む場面が浮かんだ。
結衣がメニューをのぞき、母がどれにしようかと迷う。今度は美咲が、好きな物にしていいよと言う。
「……うん。行こうね」
母は小さくうなずいた。
美咲は帰り道、結衣と店の話をした。どこがいいか、まだ決めないままでいる時間さえ、楽しみだった。
*
三日後の深夜、電話が鳴った。
枕元の画面に、病院の名前が出ている。
『お母さまの容体が急に変わりまして。すぐに来ていただけますか』
美咲は布団の上に起き上がった。
「はい。今、行きます」
隣では結衣が眠っていた。
娘を起こしかけ、手を止める。何を持っていくのかも、誰に連絡するのかも、一度には考えられなかった。
香織に電話すると、すぐ行く、と返ってきた。
待つ間にコートを着て、靴を履いた。鍵を持っているか何度も確かめた。
「結衣ちゃん、見てるから」
玄関に立った香織も、コートを羽織っていた。
「夜中に、ごめんね」
「いいから。タクシー、下で待ってる」
美咲はうなずいた。
車の中で、病院に着いたら言うことを考えた。来たよ、お母さん。結衣は香織が見てくれてるから。大丈夫だから。
病院の廊下で、医師が待っていた。
「お母さまは、先ほど亡くなられました」
美咲は立ち止まった。
「……え?」
何か説明を受けた。
うなずいたかどうかも、覚えていなかった。
病室で、母は目を閉じていた。
窓辺には、結衣が作った花がある。三日前と同じ場所に、同じ向きで置かれていた。
「お母さん」
手を握った。
美咲が両手を重ねても、母の指は握り返してこなかった。
「ごちそうするって、言ったじゃない」
お肉がいいと言った声を、こんなにはっきり覚えている。
店も決めていない。退院の日も、まだ聞いていない。
「まだ、何も返してないよ……」
美咲は母の手に顔を伏せた。
明日もまた会えると思っていた人に、明日はないのだと、どうしてもわからなかった。
*
葬儀を終えても、恵子の座椅子はそのままだった。
伏せられた本を、美咲は開けなかった。栞を挟んで片づければいいのに、読みかけの場所を変えることが、母の帰る場所を消すように思えた。
結衣は仏壇の前へ、折り紙の花を持っていった。
先に亡くなった祖父の写真の隣に、祖母の写真が並んでいる。
「ここで、いい?」
「うん。おばあちゃん、見えるね」
結衣が、美咲の服を握った。
「……もう、一緒に食べに行けないの?」
美咲は娘を抱き寄せた。
「……うん」
大丈夫だと付け足すことはできなかった。
結衣も、美咲も、約束の日を待っていた。なくなってしまった楽しみを、別の物で急いで埋めることはできなかった。
二人で仏壇の前に座った。
しばらくして結衣がおなかすいたと言い、美咲は、何か作ろう、と立ち上がった。
悲しいままでも、ご飯の時間は来る。
そういう日を重ねながら、四十九日が過ぎた。
*
相続の手続きで確認した預金は、一千八百六十万円あった。
実家について受け取った査定書には、一億八百万円と記されている。
その金額を見ても、美咲には大金を手にした実感がなかった。
家の中のどこを見ても、そこにいるはずの母が浮かんだ。庭の植木も、戸棚の湯飲みも、値段では考えられなかった。
「この家、どうするかは決めた?」
香織に聞かれ、美咲は首を振った。
「まだ。管理していけるか、いろいろ聞いてるところ」
結衣と二人で暮らすには広い。
修繕も、庭の手入れも、今まで母がどれだけ考えていたのか、調べるほどにわかってきた。
残したい気持ちだけで決めていいのか、それもわからない。
手続きを進めるため、母が残した書類の束を何度も開いた。
封筒に、丸い字で中身の名前が書いてある。これなら美咲にもわかるだろうと、母が考えてくれたのかもしれない。
もう質問できないことが、数字を読むたびに身にしみた。わからないところへ付箋を貼り、次に相談するときに持っていくことにした。
「……まだ、帰ってきそうでさ」
座椅子を見ながら言うと、香織は何も言わず隣に座ってくれた。
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