ケチ夫の処刑日~500円のワンピースを返品させた男の末路~ 作:桐山さくらこ
その週末、亮介が来た。
玄関で結衣に菓子の袋を差し出す。
「結衣、これ、好きだっただろ」
「……ありがとう」
「元気だった?」
娘は小さくうなずいた。
美咲は少し離れて見ていた。夫が娘に話しかけていることに、ほっとしてしまう自分がいた。
結衣が隣の部屋へ行ってから、亮介は居間に座った。
「少しは、落ち着いた?」
「……まだ、やることがあって」
「一人じゃ大変だろ。片づけとか、手伝うよ」
美咲は夫を見た。
「……手伝ってくれるの?」
「お前も、疲れてるだろ」
その一言が、弱っているところへ届いた。
誰かに、一つでも引き受けてほしかった。母の服をどこへしまうか、誰に返事をするか。小さなことを決めるにも、時間がかかっていた。
「うん。何から片づけたらいいか、わかんなくて」
「書類も。こういうの、慣れてないだろ」
美咲が答えかけると、亮介の目が机の端へ向いた。
「それ、この家の?」
査定書だった。
美咲は手元へ寄せた。
「売るかどうかも含めて、相談したの」
「一億……? 一億八百万? こんなにすんの?」
亮介が身を乗り出した。
「売れた金額じゃないよ。目安だって」
「何だよ。じゃあ、もう大丈夫じゃん」
美咲は紙から顔を上げた。
「……何が?」
「借金。返せるだろ、これなら」
今、何を言われたのか、一瞬わからなかった。
「会社から、返してもらうんじゃなかったの?」
「それは……今、話がややこしくなってて」
「あなたが、嘘ついてたから?」
「今、そういう話はいいだろ」
亮介の目が、銀行の書類へ移る。
「現金も、こんなにあるのか」
美咲は手を伸ばし、書類を押さえた。
「触らないで」
亮介が止まった。
「お母さんのお金だよ」
「だから、家族が困ってたら、使っていいだろ」
座椅子に、誰もいない。
あそこに母が座っていたら、今、どんな顔をしただろう。
「お義母さんだって、娘の家庭がうまくいく方がうれしいって」
美咲は亮介を見た。
「……土曜日、結衣を連れてきてって頼んだよね」
「何?」
「お母さんが入院してたとき」
亮介が口を結んだ。
「そっちで何とかしろって、言ったでしょう」
「それと、これは違うだろ」
涙が一滴、頬を伝った。
夫が手伝ってくれるのかもしれないと、さっき思った自分がつらかった。
「へえ、違うんだ……」
「美咲、落ち着けって」
「生きてたときは、何もしなかったのに」
亮介の眉が寄る。
「お金の話になったら、家族になるんだね」
亮介は黙り、それから心配して来たのに、と言った。
美咲は、もうその言葉を受け取れなかった。
「帰って」
「美咲」
「今日は、帰って」
戸口に結衣がいた。
美咲は書類を抱えて立ち上がった。これ以上、娘の前で母の残した物を値踏みしてほしくなかった。
玄関で亮介は、落ち着いたら連絡しろと言った。
美咲は返事をしなかった。
扉が閉まる。
手元の紙の角が、腕に当たっていた。
もう、戻らない。
誰かにそう言わされているのではなかった。
美咲は自分で決め、書類をしまうために、居間へ戻った。
*
法律事務所へ向かう朝、美咲は鞄の中を三度確かめた。
ホテルの写真。借入明細の写し。相談したいことを書いた紙。
紙のいちばん上には、離婚したい、と書いてある。
口に出す練習まではしなかった。
部屋へ入って椅子に座ると、名刺を受け取った手を膝に置き、顔を上げた。
「離婚したいです」
弁護士の中村由香は、美咲を見てうなずいた。
「ご主人には、もうお伝えしましたか」
「まだです。別々に暮らしています」
事情を話す途中、言葉に詰まることもあった。
中村は時間を確かめながら、必要なことを順番に聞いた。美咲は持参したメモへ目を戻し、話を続けた。
「娘の学校も、仕事も、今のまま続けたいんです」
「はい。そのために必要なことから、整理しましょう」
美咲は、息を少し長く吐いた。
結衣の生活のことを、最初に考えていいのだとわかった。
家を買うための預金についても話した。
「私が働いていたときに渡したお金も、そこに入っているはずなんです。でも、残高を見せてもらえなくて」
「それは、ご主人に資料を求めましょう」
「私から聞いても、信用してないのかって、怒るんです」
「連絡は、こちらを通すこともできます」
美咲は中村の顔を見た。
また自分一人で、夫の機嫌を見ながら頼み続けなければならないと思っていた。
「……お願いします」
相続した財産についても、資料を見てもらった。
何を分ける話になるのか、何が自分の物なのか。知らないまま、亮介に決められたくなかった。
相談を終えるころには、メモに書き足した文字が増えていた。
問題が消えたわけではない。それでも、次に何をするのかが、一つずつ決まった。
帰りに、娘の連絡帳に使う新しいペンを買った。
いつものように値札を見て、それから必要な色を選んだ。小さな用事を自分で済ませ、結衣が帰るまでに家へ戻る。
鞄の中の書類を見直すのは、娘が眠ってからにしようと思った。家にいる時間のすべてを、夫とのことだけに使いたくはなかった。
自分の一日が、夫からの電話を待つだけで終わらなくなっていた。
*
亮介の会社では、調査が続いていた。
過去の精算書、同席者の記録、支払いの履歴。追加の確認を求められるたび、亮介は説明を変えた。
日付の間違いでは通らなくなると、仕事につながる付き合いだったと言った。
その間も、借入先への返済日は来た。
亮介が眠る前に思い浮かべるのは、美咲の実家で見た査定額だった。
あれさえあれば、返せる。美咲が落ち着けば、話はつく。
調査結果を告げられた日、会議室の机には一覧が置かれていた。
過去三年分の精算記録。
私的利用分、四百八十万円。
高瀬が、亮介を見た。
「立て替えた接待費が戻っていないと、奥さんには言っていたそうだな」
亮介は一覧から目を上げられなかった。
「申請分は、すべて支払い済みだ。会社から君に返す金はない」
「……はい」
「二回だけでもなかった」
亮介は、顔を上げた。
「返します。返せるあてができたので」
そこを先に伝えれば、話を変えられると思った。
しかし、高瀬は静かに答えた。
「それは、返してもらう」
隣の人事担当者が、一枚の書面を置いた。
懲戒解雇通知書。
亮介は表題を見て、それから高瀬を見た。
「……解雇?」
「会社の決定だ」
「だから、返すって言ってるじゃないですか」
両手を机についた。
お金は用意できる。妻の実家の値段は、返還額よりずっと大きい。今ここで仕事を奪われる必要はないはずだった。
「返せば済むと思ってるのか」
「待ってください。俺が、どれだけ売ってきたか」
「知ってるよ」
高瀬は、すぐに答えた。
亮介はそこに望みを見た。
「だから、任せていたんだ」
「だったら……」
「その信用を、お前が金に換えたんだろ」
亮介の口が開いたまま止まった。
自分に任せておけば安心だと、高瀬は言っていた。その言葉を、面倒な確認をされない理由として使った。
田辺の名前も、仕事の実績も、領収書を通すために使った。
人事担当者が、返還請求について説明を続けた。
亮介は何度も高瀬を見たが、決定が変わることはなかった。
受付のトレーに、社員証を置いた。
私物を詰めた紙袋は、思っていたより軽かった。
*
その夜、亮介から美咲に電話がかかってきた。
『クビになった。これで満足か?』
美咲は目を閉じた。
会社の調査が続いていることは知っていた。何が判明するか、亮介が何を言うか、考えない日はなかった。
『お前が会社に言わなければ、こんなことにならなかったんだぞ』
「私のせいにするの?」
『他に誰がいるんだよ』
美咲は目を開けた。
机には、中村から受け取った書類がある。
「……会社のお金を使ったのは、私じゃない」
電話の向こうが静かになった。
「弁護士から連絡が行くから。これからのことは、そちらで話して」
『弁護士? 何の話だよ』
「離婚してください」
言い終わると、膝に置いていた手が震えた。
それでも、言葉を取り消そうとは思わなかった。
「私の気持ちは、もう決まってる。連絡先も送ります」
通話を終え、美咲は約束どおり連絡先を送った。
もう一度電話が鳴ったが、今度は出なかった。
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