ケチ夫の処刑日~500円のワンピースを返品させた男の末路~   作:桐山さくらこ

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残高、ゼロ円

買取店のトレーに、亮介の時計が置かれていた。

 腕につけていたときより小さく見えた。

 

「三十二万円でのお買取りになります」

 

 店員の声に、亮介は顔を上げた。

 

「八十八万したんだぞ」

「現在の相場と、状態を確認したうえでの金額です」

 

 亮介は時計を引き寄せかけた。

 これを買ったとき、店員はよく似合うと言った。営業で使う物だからと、自分でも納得していた。

 今も壊れていない。文字盤には傷もほとんどない。

 

「お持ち帰りいただいても大丈夫ですよ」

 

 責める声ではなかった。

 持ち帰っても構わない。亮介が決めればよかった。

 

 スマートフォンに、返済日を知らせる通知が出た。

 家賃も払わなければならない。次の給料を、これまでのように待つことはできなかった。

 

「……売る」

 

 申込書に署名した。

 店を出てから何度も、時計のあったところに指が触れた。

 

*

 

 翌週、玲奈と喫茶店で会った。

 店へ行く金がないとは言わず、外でゆっくり話したいと誘った。

 

「あれ、時計は?」

 

 向かいに座った玲奈は、すぐに気づいた。

 

「売った」

「……そうなんだ」

「家賃と、返済で消えたよ」

 

 玲奈がコーヒーへ目を落とす。

 以前なら、ここで大変だったねと腕に触れてくれた。亮介はその続きを待ち、来ないので自分から話した。

 

「会社にも、返さなきゃいけなくなって」

「会社に?」

「店で使った分。経費にしてたんだ」

 

 カップを持つ玲奈の手が止まった。

 

「……私と飲んだ分?」

「全部じゃないよ。自分の金も使ってる」

 

 亮介は急いで付け足した。

 みすぼらしい男だと思われたくなかった。今、少し困っているだけなのだと、わかってほしかった。

 

「でも、大丈夫なんだって。美咲の母親が亡くなって、遺産があるから」

「奥さんの、お母さんの?」

「家だけで一億以上。あいつ、離婚するって言ってるけど、金は分けるんだろ」

 

 玲奈は笑わなかった。

 亮介は身を乗り出した。

 

「それまで、二十万だけ貸してくれない?」

 

 この頼み方なら、難しくないと思った。

 戻ってくる金額に比べれば、二十万円はわずかだ。玲奈のためには、それ以上に使った夜もある。

 

「……無理」

「戻ってくるんだから。すぐ返すよ」

「貸せない」

 

 亮介の眉間にしわが寄った。

 

「俺が、今までいくら使ったと思ってんの?」

 

 玲奈がようやく、まっすぐ顔を見た。

 

「それ、返せってこと?」

「困ったときくらい、助けてくれてもいいだろ」

 

 玲奈はカップを置いた。

 亮介は返事を待った。借りる額を減らせばいいのか、そう聞こうとしたとき、彼女が鞄を持った。

 

「待てよ。俺のこと、好きだって言ってたじゃん」

「お金を出さなかったら、そうやって責めるんだ」

「責めてるんじゃない。頼んでるんだよ」

「もう、会うのはやめよう」

 

 玲奈は自分の飲食代を置いた。

 妻がいると知っていて会っていたくせに。そう言い返しかけた。

 だが、それを口にしたところで、貸せないという返事が変わるとは思えなかった。亮介が黙っている間に、玲奈は席を離れた。

 

 入口のベルが鳴る。

 向かいの席に残ったカップを見ながら、亮介は、自分のために使ってもらえる金がないことに腹を立てていた。

 

 店員が来て、玲奈のカップを下げていった。

 いつもなら追加を頼むところだった。今日は、空になった自分のカップもそのままにした。

 帰りの交通費と残りの現金を数えていると、さっき頼んだ二十万円が急に遠い額に思えた。彼女にもう一度連絡しかけ、断られたばかりの画面を閉じた。

 

*

 

 その夜、亮介は取引先だった田辺に電話した。

 転職先を探せば、まだ何とかなる。営業の実績ならある。自分に助けられた相手なら、それを知っているはずだった。

 

「どこか、人を探してるところ、ご存じじゃないですか」

 

 電話の向こうで、短い沈黙があった。

 

『三浦さん。それを僕に頼むの?』

「営業なら、すぐ動けます。実績もありますし」

『僕の名前を使って、会社に飲み代を払わせていたんだよね』

 

 亮介は目を伏せた。

 

「……申し訳ありませんでした」

『その人を、僕が誰かに紹介できると思う?』

 

 声を出そうとして、口の中が乾いていることに気づいた。

 納期を間に合わせた。急な注文にも応じた。田辺は何度も、助かったと言った。

 その記憶を持ち出しても、今度のことを消せないのだと、ようやくわかりかけた。

 

『力にはなれません』

 

 通話が終わった。

 亮介はソファへ沈み込んだ。夕飯を用意する物音も、娘が教科書を読む声もない。

 

 机に、離婚の話し合いの日程を知らせる書面があった。

 亮介はそれを引き寄せた。

 

 分ける金さえ、入れば。

 

 スマートフォンの電卓に、一億八百万円を打ち込む。

 二で割ると、五千四百万円になった。預金の分は別で、家だけでもこれだけある。

 査定額だと言われたことは、頭から抜け落ちていた。

 

 これなら、仕事を急いで決めなくてもいい。

 借金を返して、少し休んでから立て直せる。

 

 亮介は法律事務所への返信を打った。

 

〈伺います。財産分与の話もお願いします〉

 

 送信すると、ようやく息がつけた。

 美咲が相続したものを自分も受け取れるのか、調べようとはしなかった。

 

*

 

 話し合いの朝、美咲は結衣を送り出してから、鞄にハンカチを入れた。

 母の物ではなく、自分で昔買った物を選んだ。今日は何かにすがるより、自分の手で持っていられる物がよかった。

 

 法律事務所へ行く道は、もう知っている。

 最初は入口を通り過ぎてしまいそうになった。今は看板を見て、迷わず扉を開けられた。

 

 中村と事前に確認したのは、夫を言い負かすための言葉ではなかった。

 結衣の暮らし、仕事、必要な資料。何を決めたいのか、途中で話がそれても戻れるよう、順番に確かめた。

 

 向かいに座った亮介は、美咲が思っていたより落ち着いていた。

 

「離婚でいいよ」

 

 美咲は顔を上げた。

 

「そこまで言うなら、仕方ないだろ」

「……うん」

「結衣は、お前と暮らすんだな」

「今の学校に通いながら、私と暮らす」

「わかった。じゃあ、金の話をしよう」

 

 結衣が最近何をしているか、学校を楽しんでいるか。亮介は聞かなかった。

 美咲は膝の上で指を重ね、今は自分が娘の生活を話すために来たのだと、気持ちを戻した。

 

 中村が口座の資料を求めると、亮介は封筒を置いた。

 

「全部、そこに入ってます」

 

 ようやく、見せてもらえる。

 そのことに一瞬安心してから、美咲は明細を受け取った。

 

 住宅購入用に使っていた口座。

 残高、〇円。

 

 美咲は行を一つずつ確かめた。

 別の欄を見ているのではないかと思った。口座番号も、名義も合っている。

 

「……ないんだ」

 

 亮介は、別の書類を見ていた。

 

「私が渡してた分も、全部?」

「だから、入れてあったって」

「今は、ないよ」

「あとで戻すつもりだったんだよ」

 

 出金の記録が並んでいる。

 美咲が今日知っただけで、お金は今日なくなったのではなかった。

 

「この間、見せてって言ったときも?」

 

 亮介は目を合わせなかった。

 家のために貯めていると言ったとき、何回言えばわかるのかと怒ったとき、この残高を知っていたのだ。

 

 美咲は紙を机に置いた。

 薄い紙なのに、持っているのがつらくなった。

 

 中村が、少し休みましょうかと尋ねた。

 美咲は首を横に振りかけてから、少しだけ、と答えた。用意された水を飲み、机の端を見つめる。

 亮介はその間、話し合いの書類をめくっていた。気まずそうではあっても、美咲が何を失ったのか聞こうとはしなかった。

 家の値段ではない。働いて渡したお金だけでもない。二人で楽しみにしていたと思っていた時間を、自分だけが抱えていたことがつらかった。

 

「……家なんか、買えなかったんだね」

「今、そんな話しても仕方ないだろ」

 

 美咲は目元を押さえた。

 泣けば、また感情的になったと思われるかもしれない。それでも今は、すぐに別の話へ移れなかった。

 

*

 

 結婚して間もないころ、二人で間取り図を見た。

 まだ具体的に買えるわけではなく、休日の食卓で、こういう家がいいと話しただけだった。

 

「子どもが生まれたら、この部屋かな」

「俺の書斎は?」

「自分の部屋も欲しいの?」

「欲しいだろ」

 

 美咲は笑った。

 

「じゃあ、いっぱい貯めなきゃね」

 

 その約束を覚えていたから、給料を渡すことに不満はなかった。

 何月までにいくらと、細かく確認しなくても、同じ場所へ向かっていると思っていた。

 

 結衣が生まれると、間取り図の空いていた部屋に名前を書いた。

 窓から明るい光が入る部屋を、娘にあげたかった。

 美咲が仕事を辞めたあとも、貯金が少しでも増えるように、生活費から削れるものを考えた。

 

 自分の服を後回しにした日々まで、すべて間違いだったとは思いたくない。

 家族で暮らす家を楽しみにしていた気持ちは、本当だった。




この作品の漫画版は、次の収録本でお読みいただけます。
『食い尽くし夫の処刑日~妻と娘の取り分まで奪った男の末路~【合本版】: 匿名希望の体験談【コミック】第10~12巻+「ケチ夫」「介護丸投げ夫」全5作品収録 (ヴァンクール出版)』
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