ケチ夫の処刑日~500円のワンピースを返品させた男の末路~   作:桐山さくらこ

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もう、許してもらわなくていい

「結衣に、自分のお部屋を作ってあげるって、話してたんだよ」

 

 亮介は、困ったように息を吐いた。

 

「だから、それは、これからだってできるじゃん」

 

 美咲が顔を上げる。

 

「お義母さんの家の分があるんだから」

 

 目元のハンカチを下ろした。

 

「……それで、いいんだ」

「何が」

「お母さんのお金が入れば、なくなった分は戻るって?」

「実際、そうだろ」

 

 亮介は本気で言っていた。

 不足した数字を別の数字で埋めれば、それまでのことも戻ると思っている。

 

「私は、あなたと住むつもりで、貯めてたの」

 

 亮介が初めて、紙から目を離した。

 

「あなたも、同じだと思ってた」

 

 涙が頬を伝う。

 亮介は何も答えなかった。

 美咲は拭って、紙を中村のほうへ戻した。何に使ったか、どう扱うか、確認を続けてもらう必要があった。

 泣いたから終わりにはしたくなかった。

 

 亮介は中村の示した財産の一覧を見た。

 顔を近づけ、もう一度上から読む。

 

「……先生。これ、母親の分が入ってないですよね」

 

 中村はうなずいた。

 

「はい。美咲さんの相続財産は、今回の財産分与には含めていません」

「どうしてですか?」

「相続で受け継いだ財産は、ご夫婦で築いた財産とは別です」

 

 亮介の指が、一覧の上で止まった。

 

「今回確認した相続財産を、亮介さんに半分渡す義務はありません」

 

 部屋が静かになった。

 亮介は紙と中村の顔を、交互に見た。

 

「……実家を売った金も?」

「はい」

 

 亮介の口元から、余裕が消えた。

 美咲が握っているハンカチには目も向けず、もう一度、一覧にあるはずの金を探した。

 

*

 

「お前、知ってたのか」

 

 亮介が美咲を見た。

 責めるような声だった。

 

「先生に確認した」

 

 美咲は短く答えた。

 相談に来てよかったと、あらためて思った。知らなければ、この場でも、夫の言葉が正しいのかと迷っていたかもしれない。

 

「じゃあ、俺には、何も入らないってこと?」

「相続財産からの分与はありません」

 

 中村が答えると、亮介は持参した書類を引き寄せた。

 会社からの返還請求書。請求額は四百八十万円。

 

「待ってよ。それじゃ、これ、どうすんだよ」

 

 美咲は紙を見た。

 夫が働いて得た給料とは別に、会社から受け取って使ったお金だった。

 そこに、結衣の靴代も、美咲の服代も入っていない。

 

「借金だってあるんだぞ。わかってるだろ」

「あなたが返して」

「仕事もないんだよ!」

 

 声が大きくなった。

 美咲の肩が反射的にこわばる。足元を一度見て、両足が床についているのを確かめた。

 隣には中村がいる。ここで、慌てて答えを変える必要はない。

 

「私が、働きたいって言ったとき、何て言った?」

 

 亮介は答えなかった。

 

「私には、働く意味もないって言ったよね」

「……それは」

「今は、働いてる。少しずつだけど、自分のお金が入る」

 

 大きな額ではない。

 勤務できる日も限られている。それでも、初めて入った給料を見た日のことを、美咲は覚えていた。

 母に、ごちそうすると言えた。結衣に、仕事でありがとうと言われた話ができた。

 

 亮介は机に両手を置いた。

 

「わかった。お前も頑張ってるのはわかったから」

 

 美咲は続きを待った。

 

「離婚、やめよう」

 

 その言葉に、昔の自分なら喜んだかもしれない。

 家へ戻ってきてほしいと言われたのだと思い、話を聞こうとしただろう。

 

「俺も、仕事探す。だから、それまで……」

「お金を出してほしいの?」

 

 亮介は口をつぐみ、すぐに言い直した。

 

「夫婦なんだから、こういうときは助け合うだろ」

 

 美咲の視線が、机の上の手首へ向いた。

 時計がなくなっている。

 あの時計を見せながら、亮介は仕事には必要だと言った。美咲が友達に会う服は、誰も金を払ってくれないから要らないと言った。

 

「……あの服、本当に、五百円だったんだよ」

「また、その話かよ」

 

 言ってから、亮介は口を閉じた。

 美咲は夫の目を見た。

 

「やっぱり、そう思ってるんだね」

「違う。今のは……」

 

 美咲はハンカチを開き、折り目を合わせた。

 言いたいことは、たくさんあったはずだった。今は、あの夕方のことがいちばんはっきり浮かんだ。

 

「あなたに似合うって言ってほしくて、着て待ってた」

 

 新しい服を見せたかった。

 安く買えたことを一緒に喜んでほしかった。娘もかわいいと言ってくれたのだと、笑いながら話したかった。

 

「着替えたあと、結衣が、似合ってたよって言ってくれた」

 

 声が揺れた。

 美咲は少し待ってから、続きを言った。

 

「私が泣いてたから。あの子が、慰めてくれたんだよ」

 

 亮介は視線を落とした。

 

「もう、あんな思い、させたくない」

 

 結衣に母をかばわせたくなかった。

 自分が欲しい物や必要な物を、誰かを怒らせる理由だと思わせたくなかった。

 

「……悪かった。服くらい、好きに買っていいから」

 

 美咲は顔を上げた。

 亮介は譲歩したつもりなのだと、その表情からわかった。

 買ってもいいと言えば、自分が取り上げたものを返せると思っている。

 

 結婚前、ネックレスをもらって泣いた日のことを思い出した。

 あれは高価だったから、うれしかったのではない。欲しそうにしていた自分を、覚えていてくれたからだ。

 同じ人なのだから、話せば思い出してくれる。何度もそう期待した。今も目の前の夫は、美咲の返事を待っている。だが、その手元には返還請求書があり、視線は何度も金額へ戻る。

 美咲はそこから目をそらさず、今の夫が何を求めているかを受け止めた。

 

「もう、あなたに許してもらわなくていい」

 

 口にすると、胸の奥が少しほどけた。

 大きな声は出なかった。それでも、亮介には届いた。

 

 伸びてきた夫の手を、美咲は取らなかった。

 

「待って。全部じゃない。返す分だけ、貸してくれよ」

「貸さない」

「お義母さんだって、娘の家族が――」

「お母さんを、言い訳にしないで」

 

 母の声を、都合よく作らせたくなかった。

 母は美咲に、帰ってきたんでしょうと言ってくれた。泣いた娘を家へ戻そうとはしなかった。

 

 美咲は鞄を持った。

 

「結衣と私のお金を、もうあなたには渡さない」

「待てよ、美咲」

 

 中村が、今後の条件は続きを伺うと亮介に伝えた。

 この場の言葉だけで、すべてが終わるわけではない。資料の確認も、取り決めも残っている。

 それでも、美咲が自分の意思を伝えるためにここにいる時間は、もう終わっていた。

 

 扉の前で振り返った。

 

「私は、別れます」

 

 亮介は椅子に座ったまま、美咲を見ていた。

 

 廊下へ出て、扉を閉める。

 美咲はすぐには歩けなかった。壁の前で立ち止まり、息を吐いた。

 

 手のひらには、鞄の持ち手の跡が残っている。

 指を一本ずつ開き、もう一度持ち直した。

 

 結衣が帰る時間には、家にいられる。

 今日の夕飯を考えながら、美咲はエレベーターのボタンを押した。

 

*

 

 話し合いを終えた翌日も、美咲は仕事へ行った。

 娘を送り出し、食器を洗い、時間に間に合うよう家を出る。

 昨日、大きなことを言ったからといって、朝の支度が誰かの手で済むわけではなかった。

 

 けれど、手を動かしながら考えることが変わっていた。

 亮介を怒らせずに済む言い方ではなく、結衣と自分が続けていける暮らしのことを考えた。

 

 弁護士を通したやり取りは、その後も続いた。

 追加の資料を確かめ、条件を読み、わからないところを尋ねる。返事を待つ日には落ち着かず、決めたはずなのに疲れて泣く夜もあった。

 

 そんなときも、美咲は家へ戻りたいとは思わなかった。

 あの相談室で伝えたことを、何度も言い直さずに済むよう、中村に連絡を任せた。

 

 慰謝料の分割払い。養育費。結衣の生活に関する取り決め。

 署名する前に、一つずつ説明を聞いた。

 

 以前はお金の書類を見ると、自分にはわからないからと引いてしまった。

 今も得意ではない。だからこそ、わかるまで質問した。

 結衣の暮らしに関わるものを、見ないまま任せたくなかった。

 

 数か月後、中村から連絡が届いた。

 

〈離婚届の受理を確認しました〉

 

 美咲はスマートフォンを両手で持った。

 文字を読み終えても、すぐには画面を閉じられなかった。

 

「……終わった」

 

 椅子の背にもたれ、目を閉じた。

 うれしい、と言うには疲れすぎていた。けれど、体のどこかでずっと踏ん張っていた力が、ようやく抜けた。

 

 結衣が帰ってきたら、話そう。

 何もかも今日から別の暮らしになるわけではない。学校も、母と暮らすことも変わらない。そのことを、先に伝えようと思った。

 

 その夕方、結衣は話を聞いたあと、ランドセルの中から翌日の持ち物を書いた紙を出した。

 図工で使う空き箱が要るという。

 美咲は娘と戸棚を探し、ちょうどよい箱を見つけた。結衣は袋に入れ、玄関に置いた。

 話を全部わかったのか、美咲にはわからない。何か聞きたくなったらいつでも聞いていいと伝えると、娘はうなずいた。美咲はその横で、翌朝持たせる物を一緒に確かめた。




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