介護丸投げ夫の処刑日~妻を「もう用済み」と捨てた夫の末路~ 作:桐山さくらこ
この家に来たばかりのころ。
夜の高瀬家で、台所のテーブルに一人分の食事があり、修一が鍋の前に立っていた。仕事帰りの高瀬奈緒は鞄を肩にかけたまま、入り口にいる。
奈緒には、仕事の疲れが残っていた。
「ただいま帰りました。遅くなって、すみません」
「おかえり。ちょうど温まったよ」
「あっ、私、やります」
「いいから、座りなさい」
「でも、達也さんがまだ……」
「先に食べなさい。腹が減ってると、ろくなこと考えんから」
奈緒は目を丸くした。
「……顔に出てました?」
「何かあったか?」
奈緒はうつむいた。
「仕事で、ちょっと失敗しちゃって」
「そうか。まあ、まず食べよう」
奈緒の前に、湯気の立つ汁椀があった。
「いただきます」
「どうだ?」
奈緒の顔が明るくなった。
「おいしいです。……あったかい」
澄江がダイニングに入ってきた。
「奈緒さん、おかえりなさい。あら、お父さんが温めてくれたの?」
「それくらいできるよ」
「明日もお願いしようかしら」
「鍋ならできるぞ」
「また白菜だらけの?」
奈緒は思わず笑った。
「ふふ、私、白菜好きですよ」
「じゃあ、奈緒さんと二人で食べるか」
「私を数から外さないでよ」
三人で笑っていた。
この家に来たばかりの奈緒は、まだ台所の戸棚のどこに何があるかも知らなかった。役に立たなければと肩に力を入れていたのに、食事を用意して待っていてくれた人がいる。温かい汁を飲むうちに、仕事で失敗したことをもう一度話してみようと思えた。家に帰るとは、こういうことなのかもしれない。
寝室で、帰宅した達也の上着が椅子にかけられていた。
「親父とずっと話してたの?」
「うん。ご飯まで温めてもらっちゃった」
「へえ。仲よくなったね」
「明日はお鍋にしてくれるって」
「じゃあ、肉は俺が買ってくるよ。親父に任せると白菜ばっかりだから」
奈緒が、口元を押さえて笑っていた。
「お義母さんも同じこと言ってた」
「だろ?」
「でも、おいしかったよ。今日のお味噌汁」
「それ、言ってあげな。喜ぶから」
「うん。明日、また言おう」
奈緒が、達也に笑いかけていた。
仏壇に澄江の遺影が飾られていた。
*
数年後、澄江が亡くなると、修一は庭にいることが増えた。
庭の鉢植えの前に、修一と奈緒がしゃがんでいた。
「これもお水、あげますか?」
「それは、もうやった」
「じゃあ、こっち」
「そっちはまだ」
「札が欲しいな。水やった、って」
「札をつけるのを忘れそうだ」
二人は顔を見合わせて笑った。
「それじゃ駄目ですね」
小さな鉢に、一輪だけ花が咲いていた。
「これ、かわいい。お父さんが買ったんですか?」
「澄江がな。大きくなるぞと言っても、欲しいって」
修一が、寂しそうに花を見つめていた。
「この色、好きでしたもんね」
「ああ」
「来年も咲きます?」
「世話をすればな」
奈緒が、修一の顔をのぞき込んで微笑んでいた。
「じゃあ私も、この鉢のことは覚えておきます」
修一の口元に、小さな笑みがあった。
*
翌日、奈緒は病院の廊下で、鞄を胸に抱えて病室の扉を見ていた。達也が隣に立っていた。
「脳梗塞なんて……。昨日も普通にお庭にいたのに」
「意識はあるって。会えるって言ってたから」
「うん」
病室で、修一の左腕にクッションが添えられていた。奈緒がベッドのそばに座っていた。
「驚かせたな」
奈緒が、目に涙を浮かべて修一を見ていた。
「お父さん。痛いところ、ないですか?」
「痛くはないんだ。こっちが、うまく動かん」
奈緒が、クッションに載った修一の左手を見つめていた。
「リハビリ、頑張らないとな」
「そうだな」
「お庭のお水は、やってきました」
「あの、小さい鉢も?」
「はい。お義母さんのお花ですよね」
修一が、安心した顔で微笑んでいた。
「そうか。ありがとう」
「戻ってくるまで、枯らしませんから」
「頼むよ」
退院前の相談室で、ケアマネジャーの森田典子が、通所サービスの予定表を広げていた。
「ご自宅での移動には、まだ付き添いが必要です。お二人で教わった方法を、もう一度確認しておきましょう」
「トイレも、毎回ですよね」
「はい。一人で急いで立とうとされると危ないので」
「俺は平日、仕事なんですけど」
奈緒が、戸惑った顔で達也を見ていた。
「私も、日中は会社に……」
「通いのサービスを使う日と、ご家族で対応する日を組んでみましょうか」
「休みの日は俺が代わるよ。ずっとお前一人じゃ大変だし」
奈緒が、安堵した顔で達也にうなずいていた。
「うん。お願いね」
「二人とも、無理はせんでくれ」
「まずはおうちに帰りましょう。お父さんの部屋、ちゃんと空けてあります」
「廊下の荷物も片づけた。これで通れると思う」
「ありがとう」
自宅の台所では、通勤鞄を肩にかけた奈緒が、電話をしていた。
「おはようございます。高瀬です。今日、出勤が遅れそうで……」
『どうしたの?』
「義父を病院へ連れていくことになってしまって。申し訳ありませんが、午後からの出勤でもよろしいでしょうか」
『分かった。何時ごろ来られるか、また連絡して』
奈緒が、申し訳なさそうに眉を下げていた。
「ありがとうございます。分かり次第、ご連絡します」
奈緒のスマートフォンに、達也とのメッセージが表示されていた。達也の顔が表示されていた。
奈緒からのメッセージには、こう書かれていた。
〈午前中だけ代われない? 今日は私も休みにくいの〉
達也からのメッセージには、こう書かれていた。
〈今日会議だから無理〉
奈緒が眉を下げ、電話を耳に当てていた。
夜の食卓。奈緒の前に、勤務日を書いた手帳が開かれていた。
「また、ほかの人に代わってもらっちゃった」
「時間、減らしたんじゃなかった?」
「減らしたよ。でも、急に病院に行く日は……」
「じゃあ、いったん仕事辞めたら?」
奈緒が、驚いた顔で達也を見ていた。
「……辞めたくないよ。せっかく、時間を減らしてもらったのに」
「でも、休むたびに頭下げるのも、しんどいだろ?」
奈緒が、勤務日の書かれた手帳に目を落としていた。
「あなたは、もう少し休めない?」
「今、大事な時期なんだよ。担当を外されたら、給料もどうなるか分かんないし」
奈緒の手帳には、勤務日を取り消した線がいくつもある。
「私だって、また働けるか分からないし」
「生活は俺が何とかするから。そんなに心配するなって」
達也は気楽そうに椅子にもたれていた。
奈緒は手帳に目を落とし、唇を結んでいた。
そういう問題じゃ…
*
数か月後、奈緒は職場から持ち帰った紙袋を玄関に置いた。修一の車椅子の横で、大きな花束を抱えていた。
「今日で仕事終わりだったのか」
奈緒が花束を胸に抱え、少し無理をした笑顔を見せていた。
「はい。こんなに大きいの、もらっちゃいました」
「俺のために、すまんな」
修一が、膝に目を落としていた。
「お父さんが謝らないでください」
「だが……」
「花瓶、あの大きいのを借りてもいいですか?」
「ああ。みんなに見えるところに飾ろう」
花束を抱く奈緒の目が潤んでいた。
「……はい」
少し落ち着いたら、また働こう。
そのつもりだった…
辞めたのは、一生働かないと決めたからではなかった。退院したばかりの修一の暮らしを整える間だけ。夫と相談しながら戻れると思っていた。その「少し」がいつまでなのか、誰とも決めないまま、花束の水だけを替え続けた。
*
介護が始まって、六年目。
棚に「介護記録 一年目」から「五年目」のノートが並んでいた。
机に「六年目」のノートが開かれていた。
修一の部屋にも、夜の静けさが満ちていた。
寝室のデジタル時計は、午前二時五分を示していた。
修一の部屋で、修一の指が、枕元の呼び出しボタンを押していた。
夫婦の寝室では、枕元の受信機が鳴っていた。
呼び出し音が響いた。
奈緒は目を覚ました。
「……お義父さんだ」
奈緒が、枕に頭をつけたまま額を押さえていた。
気持ち悪い……。起きられない。
隣で眠る達也の肩に、奈緒の手がかかっていた。
「ねえ、達也……起きて」
達也が、眠そうに薄目を開けていた。
「……何?」
「お義父さんが呼んでる。私、気持ち悪くて……代わりに行ってくれない?」
「明日朝早いんだよ。」
奈緒が、苦しそうな顔で達也の肩に手を添えていた。
「お願い。今、起きるのもしんどいの。今夜だけ……」
達也が、面倒くさそうに眉を寄せていた。
「お前は昼間寝ればいいだろ。俺まで寝られなかったらどうするんだ」
奈緒が、傷ついた顔で達也を見つめていた。
この作品の漫画版は、次の収録本でお読みいただけます。
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