介護丸投げ夫の処刑日~妻を「もう用済み」と捨てた夫の末路~   作:桐山さくらこ

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朝ご飯のおいしい宿

「分かった」

 

 梨花は会議室を出た。

 

 会社の外階段で、梨花が、険しい顔で電話をしていた。

 

 スマートフォンの通話画面に、達也の顔と「高瀬課長」が表示されていた。

 

「私に任せてたって、どういうこと?」

 

『入力は任せてたって言っただけだよ』

 

「文面、送ってきたじゃない。あのとおりに出したんだよ」

 

『少し、話を合わせてくれないかな。日付を間違えたって言えば……』

 

 梨花の眉が、つり上がっていた。

 

「やっぱり、私のせいにするんじゃない」

 

『俺まで処分されたら、二人とも困るだろ』

 

 梨花が、手すりを強く握っていた。

 

『俺が課長でいれば、お前のことも何とかできるから』

 

「……じゃあ、私だけなら、処分されてもいいんだ」

 

『そういう言い方するなよ。俺も考えて……』

 

「もういい」

 

 電話が切れると、部屋は急に静かになった。

 

 梨花が、涙をためた目で画面を見ていた。

 

 達也との業務メッセージには「8月7日」の日付があった。

 

 達也からのメッセージには、こう書かれていた。

 

〈今日の日報はこれで。東川商事訪問。見積提出、条件確認。同行:高瀬〉

 

 梨花からのメッセージには、こう書かれていた。

 

〈了解です〉

 

「8月14日」の履歴にも、達也から訪問報告の文面が届いていた。

 

 梨花が、唇を結んでメッセージを見つめていた。

 

 会議室で、梨花が、印刷したメッセージを大沢に差し出していた。

 

「このとおりに書くように言われました。両方とも、高瀬課長からです」

 

「ほかの日にも、あった?」

 

「……はい。残っている分は、持ってきました」

 

「訪問していないと知っていて、出したんだね」

 

 梨花の返信「了解です」が、印刷の中にある。

 

 梨花が、うつむいていた。

 

「はい。分かっていて、出しました」

 

 梨花は、印刷した自分の返信を見た。指示されて従ったことと、自分には責任がないことは同じではなかった。達也に守ってもらえると思っていた。その約束も、彼が自分を守るためなら外されるのだと、今はわかった。

 

*

 

 数週間後。

 

 会議室で、大沢が、達也に辞令を差し出していた。

 

「来月から、西支店の営業担当になる。課長職は外れる」

 

 達也が、焦った顔で身を乗り出していた。

 

「待ってください。報告書は、小西が……」

 

「そのことは全部小西さんから聞いたよ……」

 

 達也は、辞令を持ったままうつむいていた。

 

「君には期待していたんだがね……」

 

 達也は辞令から顔を上げられなかった。

 

*

 

 その夜。

 

 喫茶店で、達也と梨花が、向かい合って座っていた。

 

「……メッセージ、渡したんだな」

 

「私一人でやったことには、されたくなかったから」

 

「悪かった。あのときは、俺も焦ってたんだ」

 

 梨花は、表情を緩めずに達也を見ていた。

 

「奥さんへの慰謝料は、私も弁護士さんに相談してる」

 

「そんなの、先に俺に言ってくれれば」

 

「言ったら、どうしてくれたの?」

 

 達也が、目を伏せていた。

 

「もう、会わない」

 

 達也が、顔を上げていた。

 

「待って。支店は変わるけど、会えなくなるわけじゃ……」

 

「会いたくないの」

 

 達也が、言葉を失っていた。

 

 梨花は、鞄を持って椅子の横に立っていた。

 

「もう連絡しないで」

 

「……梨花」

 

 達也の向かいに、空いた椅子と飲み残されたコーヒーがあった。

 

 達也が、空いた椅子を呆然と見ていた。

 

*

 

 帰宅後。

 

 居間で、達也が、一人でソファに座っていた。

 

 スマートフォンに、梨花へ送った「もう一度話したい」が表示されていた。返信はない。

 

 廊下で、達也が、奈緒の部屋の前に立っていた。

 

「奈緒。少し、話せないか」

 

 閉じたドアの向こうに、奈緒が立っていた。

 

「離婚のことなら、先生に話して」

 

 達也が、ドアに手をついたままうつむいていた。

 

*

 

 数か月後。

 

 坂井法律事務所で、奈緒と坂井が、書面を挟んで向かい合っていた。

 

「相続の精算についても、合意ができました。達也さんの遺留分は、預金から金銭で支払う形になります」

 

「家は、売らなくていいんですね」

 

「はい。奈緒さんが受け取れます」

 

 奈緒が、ほっとした顔でうなずいていた。

 

「……よかった」

 

「離婚の財産分与と慰謝料は、こちらです。小西さんとの合意書も、そろいました」

 

 奈緒が、書面に目を落としていた。

 

「達也が出ていく日は……」

 

「今月末です。ご本人も同意しています」

 

「本当に、決まったんですね」

 

「はい」

 

 奈緒が、目を潤ませて頭を下げていた。

 

「……ありがとうございました」

 

*

 

 後日。

 

 役所の窓口で、奈緒が、職員から書類を受け取っていた。

 

 書類に「離婚届受理証明書」と書かれていた。

 

 奈緒が、書類を胸元に持ち、息を吐いていた。

 

*

 

 引っ越しの日。

 

 玄関で、達也の足元に、旅行鞄があった。

 

「これで、全部だと思う」

 

「寝室の引き出しは?」

 

「空にした」

 

「分かった」

 

 達也は、靴を履かずに立っていた。

 

「奈緒。もう一度だけ、考えてくれないか」

 

 奈緒が、達也を見ていた。

 

「俺、全部間違えた。今度こそ、ちゃんとするから」

 

「……戻るつもりはないって、何度も言ったよ」

 

「一人になったら、困ることだってあるだろ。ここ、広いしさ」

 

 奈緒が、まっすぐ達也を見ていた。

 

「あなたがいても、困ったときは一人だったよ」

 

 達也は何かを言いかけた。奈緒は待ったが、夫の口から、自分が頼んだ夜のことは出てこなかった。家の広さの話をされても、これから困るかもしれないと脅かされても、今までの孤独をもう一度選ぶ理由にはならなかった。

 

「……じゃあ」

 

「さようなら」

 

 玄関の外では、達也が、閉じた扉の前に一人で立っていた。

 

 片手に旅行鞄、もう片方に充電器の袋があった。

 

 玄関の内側では、奈緒が、鍵を握ったまま扉にもたれていた。

 

 奈緒が、目を閉じて安堵の表情を浮かべていた。

 

 台所の窓際で、一人分のお茶と、どら焼きがあった。

 

 奈緒が、椅子に深く腰を下ろしていた。

 

「……やっと、静かになった」

 

 静かさを、空いた修一の部屋の寂しさと混同したくなかった。父を思えば悲しくなる。それでも、食卓で夫の機嫌を確かめなくてよいことには、ほっとしていた。奈緒は二つの気持ちを、そのまま持っていてよいと思った。

 

 窓の外に、修一と世話をしていた鉢植えが見える。

 

 奈緒が、どら焼きを一口食べていた。

 

「おいしい」

 

 湯飲みを両手で包む奈緒の顔に、穏やかな笑みがあった。

 

*

 

 仕事復帰。

 

 小さな会社の事務所で、奈緒の席の横に、同僚の前田朋子が立っていた。

 

「前田さん。入力、ここまで終わりました」

 

「ありがとうございます。一緒に確認しましょうか」

 

「お願いします」

 

 前田が、奈緒のパソコンの画面を見ていた。

 

「うん。大丈夫です」

 

 奈緒が、ほっとして笑っていた。

 

「よかった。まだ、途中で手が止まっちゃって」

 

「私も最初、同じことを何回も聞きましたよ」

 

「……そうだったんですか」

 

「ええ。分からなかったら、また呼んでください」

 

 奈緒が、うれしそうに笑っていた。

 

「はい。ありがとうございます」

 

 仕事に戻った奈緒は、質問したことを手帳に書き留めた。同じことを尋ねるのは気が引けたが、前田は画面を一緒に見てくれる。以前の自分にすぐ戻らなくてもよい。できることを今日一つ、明日もう一つ増やしていければよかった。

 

「そろそろ、お昼にしません?」

 

「はい。行きます」

 

*

 

 休日。

 

 自宅の庭で、奈緒が、澄江の鉢植えの前にしゃがんでいた。

 

 鉢に、小さなつぼみが付いていた。

 

 奈緒が、うれしそうにつぼみを見ていた。

 

「お父さん。また、咲きそうですよ」

 

 室内の棚に、庭で笑っていた修一と澄江の写真があった。

 

 喫茶店で、奈緒と理恵が、観光案内を挟んで座っていた。

 

 観光案内の表紙に「金沢」と書かれていた。

 

「このお店、よさそうじゃない?」

 

「わあ。おいしそう」

 

「お昼は、ここにしよう。美術館も行く?」

 

「行きたい。あと、お土産も、ゆっくり見たいな」

 

「盛りだくさんだね」

 

 奈緒が、楽しそうに観光案内を見ていた。

 

「……せっかくだし、一泊しない?」

 

 理恵が、目を輝かせて奈緒を見ていた。

 

「いいね! 夜も一緒にご飯食べられる」

 

「ふふ。朝もね」

 

「じゃあ、朝ご飯のおいしい宿、探そう」

 

「うん。私も、それがいい」

 

 帰る時間を先に考えずに、朝ご飯を選んでいた。奈緒はそのことに気づき、写真をもう一度大きくした。修一が手紙で言ってくれた「ゆっくり」が、ようやく予定になる。家を出る日は、花の水も忘れずにやろう。それから、友達と出かけよう。

 

 二人の前に置かれたスマートフォンに、ホテルの朝食の写真が表示されていた。

 

 奈緒と理恵が、顔を寄せて楽しそうに見ていた。




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