介護丸投げ夫の処刑日~妻を「もう用済み」と捨てた夫の末路~ 作:桐山さくらこ
着替えのあと。
修一が、清潔なズボン姿でベッドに座っていた。
奈緒は、濡れた衣類の入ったかごを持っていた。
「少し横になりますか?」
「うん。すまんな」
居間で、達也はゲームのコントローラーを握っていた。
濡れた衣類のかごを抱える奈緒が、険しい顔で達也を見ていた。
「お父さんに呼ばれてたんでしょ」
「だから、もうすぐお前が帰るって言ったんだよ」
「二時までお願いしたよね。まだ一時にもなってない」
「でも、もう帰ってきたじゃん」
奈緒の眉間にしわが寄っていた。
「お父さんから電話が来たから! ご飯も食べてないよ」
「そんなに気になるなら、出かけなきゃよかっただろ」
奈緒はかごを抱えたまま、傷ついた顔で達也を見つめていた。
「……何のために、お願いしたと思ってるの」
「終わったこと、そんなぐちぐちいつまでも怒るなよ」
達也はゲームを続けていた。
居間の開いたドアの向こうに、修一の部屋が見える。
「奈緒さん……」
「……はい。今、行きます」
修一の枕元では、奈緒が毛布の端を整えていた。
「俺が電話したせいで、けんかになって……」
奈緒が、はっとした顔で修一を見ていた。
「違います。お父さんのせいじゃないです」
「でも」
「困ったら、呼んでください。我慢しないで」
「……うん」
奈緒が、修一に微笑んでいた。
「理恵とは、また行きますから」
台所で、奈緒が、スマートフォンを見ていた。
理恵からのメッセージには、こう書かれていた。
〈また行こうね。いつでも付き合うよ〉
奈緒からのメッセージには、こう書かれていた。
〈ありがとう〉
奈緒の目に涙がにじんだ。
二時間だけだったのに。
それも、駄目なの?
断られたのなら、最初から服を選ばなかった。約束してもらえたから、友達に会えると思った。まだ食べていないオムライスを置いて席を立ったときの理恵の顔が浮かぶ。それでも帰らずにいられなかった自分を、奈緒は責めたくなかった。困っていたのは修一だった。
*
数日後。
高瀬家の食卓では、奈緒とケアマネジャーの森田が向かい合っていた。
「夫に頼んで出かけたんです。でも、すぐ帰ることになって……」
「ご主人は、ご自宅にいたんですよね?」
「はい。ゲームをしてました」
奈緒が、膝の上で手を握っていた。
「たった二時間、お願いしただけなのに」
「夜の介助は、どうされていますか?」
「私です。具合が悪くて頼んでも、代わってもらえなくて」
森田が、心配そうに奈緒を見ていた。
「一晩だけでも、ぐっすり眠りたいです……」
「それはつらいですね」
森田が、奈緒に資料を差し出していた。
表紙に「ショートステイのご案内」と書かれていた。
「もしよかったら短いお泊まりを使ってみませんか。その間、奈緒さんも休めますよ」
奈緒が、ためらうように資料を見ていた。
「お父さん、家が好きだから。嫌がるかも…」
「じゃあまず、お部屋を見てもらいましょうか。見学だけでもできますよ」
「わかりました……お父さんに、話してみます」
修一の部屋で、奈緒が、施設の資料を修一に見せていた。
「森田さんに、お泊まりを使ってみないかって勧められたんです」
「お泊まりか…」
修一は少し考え込んだ。
「家には、戻ってこられるのか?」
「はい。まず何日か泊まって、帰ってくるんです」
「……そうか」
「まだ、決めなくていいんです。見学だけでも」
「俺が夜中に起こすからだな」
修一はうつむき、右手で膝を握っていた。
「お父さん……」
「奈緒さん、この間も、顔色が悪かったからな」
奈緒は資料を握ったまま、うつむいていた。
修一が、奈緒の疲れた顔を心配そうに見ていた。
「……一度、見に行こうか」
奈緒は驚いて顔を上げた。
「いいんですか」
「ああ。どんなところか、見てみたい」
「ありがとうございます!」
*
その夜。
居間で、奈緒が、達也に施設の資料を見せていた。
「お父さんと、ここを見に行ってみようと思うの」
「施設?」
「うん。森田さんが、一度見てみませんかって」
達也が、眉をひそめて資料を見ていた。
「親父を施設に入れるつもり?」
「まだ、決めてないよ。まず見学だけ。お父さんも行ってみたいって」
「家で見てるのに、何でそんな話になるんだよ」
奈緒が、困った顔で達也を見ていた。
「見学、取り消しといて」
奈緒が、驚いた顔で達也を見ていた。
「どうして? お父さんとも話したよ」
「家があるのに施設って。親戚に何言われるか、分かんないだろ」
「だから、見に行くだけ。私も少し休みたいの」
「だったらデイサービスの日に寝ればいいじゃん」
奈緒が眉を寄せ、手元の施設の資料を握っていた。
「その日に買い物や病院の用事を済ませてるんだよ」
「じゃあ帰ってから、少し寝ればいいじゃん」
「洗濯も掃除もあるし。帰ってきたら、もうお父さんのお迎えの時間で……」
「でも、毎日そうじゃないだろ」
奈緒が、疲れた顔でうつむいていた。
「昼間に少し寝ても、夜はまた何度も起きるんだよ」
「一晩でいいから、朝まで寝たいの」
「だからって、施設に預けなくても」
奈緒が、達也の顔を見ていた。
「……じゃあ、一晩だけ代わってくれる?」
「あのさ、俺、朝から仕事なんだけど」
「休みの前の日でいいから」
達也が、顔をしかめていた。
「毎日仕事してるんだから、休みの日くらい、ゆっくり寝かせてよ」
奈緒が、言葉を失って達也を見つめていた。
「……私だって、ゆっくり寝たいよ」
達也は、奈緒から顔をそらしていた。
「とにかく、施設は駄目だからな」
奈緒の手が、施設の資料を握りしめていた。
*
澄江の法事。
仏壇に、澄江の遺影があった。
達也と奈緒が、仏壇の前に座っていた。
車椅子の修一が、遺影に向かって手を合わせていた。
その隣に、修一の妹の杉本和枝と、弟の高瀬勝彦がいる。
*
法要後。
修一の部屋で、奈緒が、車椅子の修一に付き添っていた。
「疲れたから、少し、横になるよ」
「お疲れさまでした。お食事、後で持ってきますね」
「奈緒さんは、先に食べてな」
会食の席では、勝彦と和枝が、達也と向かい合って座っていた。
奈緒が、料理を載せた盆を持って席へ来ていた。
「兄貴、また痩せたな」
「夜も何度も起きるからな。こっちも寝不足だよ」
「達也も大変ね。仕事があるのに」
「この間なんか二時に呼ばれて。トイレに連れてって、やっと寝たらまた呼ばれてさ」
奈緒が、信じられないという顔で達也を見ていた。
「それは、私が……」
「お前も大変なのは分かってるよ。だから俺も頑張ってるんじゃん」
奈緒が言いかけた口を開いたまま、達也を見つめていた。
「よくやってるよ。仕事して帰ったら、また世話じゃな」
「奈緒は、もう施設に入れたいって言ってるんだけどね」
和枝が、眉をひそめて奈緒を見ていた。
「施設に?」
「俺は、できれば家で見てやりたいんだ。親父が建てた家だし」
「お父さんとも相談して……」
「奈緒さんも疲れるだろうけど、達也もそこまでやってるんだから。二人で支えてやらないとな」
「そうね。もう少し、家で過ごさせてあげられたらね」
勝彦と和枝の視線が、奈緒に向いていた。
奈緒は盆を胸に寄せ、泣き出しそうな顔でうつむいていた。
*
親戚が帰ったあと。
台所の流しに、会食で使った食器が積まれていた。
奈緒が、居間へ向かう達也を呼び止めていた。
「二時に起きたの、私だよ」
「何?」
「さっきの話。私、具合が悪くて、あなたに代わってほしいって頼んだよね」
「そんな細かいこと、いちいち言わなくても」
奈緒が、眉を寄せて達也に向き合っていた。
「細かいことじゃないよ。どうして自分がやったみたいに言うの」
「うちで見てるのは事実だろ」
「でも、私ばかり楽をしようとしてるみたいに……。さっき、二人がどんな顔してたか見た?」
「誰もそんなこと言ってないじゃん。気にしすぎだって」
奈緒が、すがるような目で達也を見ていた。
「……言い直してくれないの?」
「今さら、わざわざ電話して言えって言うのか?」
背を向けた達也を、奈緒が見送っていた。唇は固く結ばれていた。
*
その夜。
奈緒が、食卓で介護記録を開いていた。
ノートに「2月8日 夜間のトイレ介助 奈緒」と書かれていた。
奈緒が、悔しそうにノートを見つめていた。
あの夜、ちゃんと起こして頼んだのに。
奈緒の手が、ペンを握っていた。
ノートの余白に「体調不良で達也に交代を頼む。『明日朝早い』と断られる」と書き添えてある。
この作品の漫画版は、次の収録本でお読みいただけます。
『食い尽くし夫の処刑日~妻と娘の取り分まで奪った男の末路~【合本版】: 匿名希望の体験談【コミック】第10~12巻+「ケチ夫」「介護丸投げ夫」全5作品収録 (ヴァンクール出版)』
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