介護丸投げ夫の処刑日~妻を「もう用済み」と捨てた夫の末路~ 作:桐山さくらこ
「……あの人、知ってたんだ」
「え?」
「私が誰か、知ってて。あんなふうに……」
奈緒の手が、口元を覆っていた。
「私、ありがとうって言ったんだよ」
「黙ってたのは、悪かったよ」
奈緒が、涙をためて達也をにらんでいた。
「そんな人を、お父さんのお葬式に……」
「だから、俺が呼んだわけじゃないって」
「そういうことじゃない!」
達也が、顔をしかめていた。
「今日はもういいよ。また話そう」
立ち上がった達也を、奈緒が見上げていた。
「待って。私、離婚するなんて言ってない」
「でも、俺の気持ちは変わらないから」
奈緒が、泣きそうな顔で達也を見ていた。
「あなたは、その人と暮らせばいいんでしょうけど……私は?」
「部屋が見つかるまでは、ここにいていいよ」
奈緒が、眉を寄せていた。
「部屋が見つかるまでって……」
「そういうことを聞いてるんじゃないよ……」
奈緒の目が、大きく見開かれていた。
「ねえ、ここを出ていくの、私なの?」
「親父の家だろ。俺が継ぐんだから」
奈緒が、食卓の縁を握っていた。
「私だって、ここでずっと暮らしてきたんだよ」
「だから、今すぐ出ていけとは言ってないだろ」
「そうじゃなくて……ここが、私の家だったのに」
修一が食事を温めてくれた台所も、澄江の花が咲く庭も、奈緒には帰る場所だった。六年間、誰かの家に雇われていたつもりはない。夫は同じ家を見ながら、引っ越しの荷物を置く場所としてしか話さなかった。
達也が、気まずそうに目をそらしていた。
「別れたら、いつまでも一緒には住めないだろ。分かってくれよ」
「……私、別れるって言ってない」
達也は、奈緒に背を向けていた。
「今日はもう寝る」
奈緒が、立ち去る達也へ手を伸ばしていた。
「待って……まだ、話してるのに」
廊下の奥では、寝室のドアが閉まっていた。
食卓に、奈緒が一人で座っていた。
向かいの椅子は空いていた。
奈緒が、両手で顔を覆っていた。
*
数日後。
食卓で、達也が、奈緒の前に離婚届を置いていた。
夫の署名欄に「高瀬達也」と書かれていた。妻の署名欄は空白。
「俺のところは書いたから。あとは、ここ」
奈緒は、離婚届を見つめていた。
「……これを書いて、出ていけばいいってこと?」
「引っ越し代くらいは出すよ」
「そのあと、私はどうすればいいの」
「また働けばいいだろ」
「何年も仕事をしてないんだよ。すぐに見つかるかどうか……」
「じゃあ、今から探せばいいじゃん」
奈緒が、膝の上で手を握っていた。
「仕事を辞めるとき、生活のことは心配するなって言ったよね」
「だから、今まで生活費は出してたろ」
「……今まで出したから、もう知らないってこと?」
「そんな言い方してないだろ」
「貯金だって、二人で暮らすためのお金だと思ってた」
「あれは俺が働いて貯めた金だよ。全部半分にしろとか、言わないでくれよ」
奈緒が、涙をためた目で達也を見ていた。
奈緒の手が、離婚届を達也の方へ押し返していた。
「今は、書かない」
「何で。もう話しただろ」
「あなたが言っただけだよ。私、何も決めてない」
「じゃあ、いつ決めるんだよ」
奈緒が、うつむいて額を押さえていた。
「……分からない。少し、一人にして」
*
夕方。
庭の鉢植えのそばに、奈緒が座っていた。
スマートフォンの連絡先に、理恵の顔と「石田理恵」の名前が表示されていた。
奈緒が、電話を耳に当てていた。
『もしもし。奈緒?』
「今、話せる?」
『うん。どうしたの?』
「達也が、ほかの人と……」
奈緒は口元を押さえ、涙をこぼしていた。
『奈緒?』
「お葬式の夜に、離婚しようって言われたの」
理恵の自宅では、理恵が、眉を寄せて電話を握っていた。
「……お父さんのお葬式の日に?」
庭で、奈緒が、うつむいていた。
「うん。私、この家も出なきゃいけないって……」
『今、一人?』
「うん」
『そっち、行こうか』
奈緒が、目元を手で覆っていた。
「……来てほしい」
*
そのあと。
奈緒の部屋で、理恵が、奈緒の隣に座っていた。
机に、夫の署名だけが入った離婚届があった。
「こんなの、すぐ書けって言われてもね……」
「うん」
理恵が、奈緒の横顔を見ていた。
「奈緒は、どうしたい?」
「……別れたい。顔を見ると、あの女の人の顔まで浮かぶの」
「相手の人、知ってるの?」
「お葬式に来てた。私、お礼まで言って……」
奈緒が、きつく唇をかんでいた。
「それは……つらいね」
「一緒にいたくない。でも、出ていって、生活できるのか分からない」
理恵が、机の離婚届に目を向けていた。
「引っ越し代だけって、本当にそれでいいのかな」
「達也は、自分が稼いだお金だからって」
「一度、弁護士さんに聞いてみようよ。言われたとおりにする前に」
奈緒が、不安そうに理恵を見ていた。
「私、ちゃんと話せるかな。思い出すと、泣いちゃいそう…」
「今、話してくれたじゃない」
理恵の手が、奈緒の手に重なっていた。
「私も一緒に行くよ」
奈緒が、目を潤ませてうなずいていた。
「……お願いしても、いい?」
「うん」
*
後日。
事務所の看板に「坂井法律事務所」と書かれていた。
相談机で、弁護士の坂井真由子の向かいに、奈緒と理恵が座っていた。
机の上に、離婚届と通帳があった。
「引っ越し代は出すけど、貯金は自分が働いて貯めたものだからって」
「奈緒さんには、分けるつもりがないということですね」
「はい。私は、お父さんの介護で仕事を辞めていて……」
奈緒が、膝の上の手を見つめていた。
「その間のお金は、何も言えないんでしょうか」
「働いていなかったからといって、分けてもらえないわけではありません」
奈緒が、顔を上げていた。
「そうなんですか?」
「はい。結婚してから、お二人で築いた財産を確認しましょう」
坂井が、離婚届に手を添えていた。
「条件が決まるまで、こちらに署名しなくて大丈夫です」
奈緒が、ほっとした顔で椅子にもたれていた。
「……よかった」
「お父様の介護は、どのくらい続けていらしたんですか」
「六年です。これに、毎日のことを……」
奈緒が、使い込んだノートを机に置いていた。
表紙に「介護記録」と書かれていた。
「ずっと書いてこられたんですね」
「病院の予定とか、薬とか。忘れないように」
「確認させていただきますね」
奈緒が、うなずいていた。
「ご主人の交際相手については、何か分かっていますか」
「会社の、小西梨花さんです。いつからなのかは、まだ……」
奈緒が、ハンカチを握っていた。
「お葬式の夜に、急に言われたので」
坂井が、眉を下げて奈緒を見ていた。
「お父様を亡くされたばかりのときに……」
「はい。どうして、あの日に言えたのか……」
奈緒の頬に、涙が落ちていた。
「すみません。少し、待ってください」
「はい。ゆっくりで大丈夫です」
坂井のペンが、机に置かれていた。
理恵が、奈緒のそばに座ったまま背中に手を添えていた。
*
その夜。
奈緒の部屋で、スマートフォンに、録音アプリの画面が開いていた。
奈緒が、閉じたドアを見つめていた。
また、何も言えなくなるかもしれない。
でも、聞かなきゃ。このまま、終わりにしたくない。
居間で、奈緒と達也が、向かい合って座っていた。
奈緒の足元に、口の開いた鞄があった。
鞄の中のスマートフォンに「録音中」と表示されていた。
「話って、部屋が決まったのか?」
「小西さんとは、いつからなの」
達也が、真顔で奈緒を見ていた。
「……一年くらい前」
「一年……」
奈緒が、膝の上で手を握りしめていた。
「じゃあ、どうして今になって言うの。お父さんが亡くなって、すぐに」
「それより前に別れたら、親父は誰が見たんだよ」
奈緒が、目を見開いていた。
「……え?」
「お前が出てったら、俺は仕事にも行けないだろ」
「……だから、私をここに置いてたの?」
「梨花に介護させるわけにもいかないし」
奈緒は、口を開いたまま達也を見ていた。
「……私は?」
「お前は、ずっとやってたじゃん」
奈緒の唇が、震えていた。
「お父さんが亡くなるまで、待ってたんだ…」
「俺だって、ずっと我慢してたんだよ」
「我慢……?」
「もう誰の世話もしなくていいんだから。お前だって、よかったじゃん」
奈緒が、怒りに顔を歪めていた。
「それを、私に言わないで!」
「だから、お前も自由に……」
「お父さんが亡くなって、よかったなんて思ってない!」
達也が、驚いた顔で口を閉じていた。
奈緒は、涙をこぼしながら立っていた。
「もう、話せないよ…」
奈緒の部屋で、奈緒が、閉じたドアを背に座り込んでいた。
スマートフォンに、保存済みの録音「達也との話し合い」が表示されていた。
私が、お父さんの退院を待ってるときも……
奈緒の手が、スマートフォンを握りしめていた。
あの人は、違うことを待ってたんだ。
退院したら庭でお茶を飲む。奈緒はその約束を支えに写真を撮り、枯らさないよう水をやった。その間、達也が待っていたのは、妻が要らなくなる日だった。介護が大変だったことと、修一を失って悲しいことは、奈緒の中で同時にある。片方だけを夫に消させたくなかった。
この作品の漫画版は、次の収録本でお読みいただけます。
『食い尽くし夫の処刑日~妻と娘の取り分まで奪った男の末路~【合本版】: 匿名希望の体験談【コミック】第10~12巻+「ケチ夫」「介護丸投げ夫」全5作品収録 (ヴァンクール出版)』
Amazonで漫画版を見る
漫画版はKindle Unlimited対象作品です。
Kindle Unlimited会員の方は、追加料金なしでお読みいただけます。