グリーン・スパイダー 作:みどりいろ
身体を覆う金属質の外殻が、周囲の景色を濃い緑に歪めて反射する。
木の葉の隙間から覗く灰色の曇り空。
苔や蔓草が覆う岩や朽ちかけた倒木。
泥と雨水に濡れた植物の陰に広がる菌類。
鳥類の、昆虫の、風の、
複雑な生態系が積み重なった深い森の中。
多様な要素が染み込んだ蒸し暑い空気を切り裂いて、深緑の異形が音もなく木々の隙間を縫うように移動していた。
──逃げなければ。
過剰に研ぎ澄まされた、生存本能と呼べる感覚に急かされ、突き動かされるように。
ソレは宛も無く、あるのかも知れない安全な場所を求めて、八つもある脚を忙しなく動かしている。
何処から逃れたのか、
何から逃げているのか、
ソレには何もかもが解らなかった。
判断するための情報が、ごっそりと抜け落ちていた。
──ここはどこだろう。
ソレの記憶は混濁している。
喪失したのか、元々持ち合わせがなかったのか。
その疑問に答えてくれるものはいない。
やがて森を抜けた。
視界の開けた、閑散とした土地。
それでも明らかに、ここは人の手の入ったものと判る。
何らかの作物が青々と繁る畑と、踏み固められた道。
遠くには人の住むだろう民家が見える。
そんな農村に踏み入る。
緑に紛れていたその姿が浮き彫りになるが、
それから間を置かず反射的に周囲に馴染むよう、外皮を燻んだ土草色に変色させた。
気が付くと、先ほどまで感じていた強烈な脅迫的な感覚が靄のように消えている。
逃げ切ったのか。
そもそも、何から逃げていたのかも不明だったソレにとっては、それくらいにしか判断できない。
それでも切迫していた危機感は安心感と達成感へと置換されると共に、それは別の思考をする余白を生んでいた。
──
ふと、視線を地面へと巡らせる。
雨の名残だろうぐずぐずにぬかるみ、濁った水たまりに、その姿が映り込んでいた。
それは、おおよそ人の子供の身の丈程もある巨大な蜘蛛の姿だった。
電源が落ちたように蜘蛛は硬直していた。
興味深そうに、まじまじと。
自身の姿を観察する。
「……」
蜘蛛は脚をたたんで姿勢を低くした。
八つもある複眼でもって周囲と自身を視界に入れたまま、重心を安定させる。
そうして、
ぱきり、と蜘蛛が鳴いた。
外殻が割れて、砕けている。
蜘蛛の中から何かが殻を割るように、
脱皮をしているように見えた。
中身が這い出るようにあらわになる。
殻の隙間から、まるで人間の子供のような、ツヤのある肌が外気に晒される。
指が殻を破り、腕でそれを割り開いた。
蜘蛛はやや時間を掛けて、すっかりヒトにしか見えない形状を
碧掛かった黒髪と、川底を切り取ったような水緑の瞳。
解けるようにバラバラに分かれた破片の一つ一つが小さな蜘蛛のように地を這い、糸を吐き、中身に纏わるように集合する。
それはまるで初めから衣服だったかのように連なって、
その場に残ったのは、ちょこんと地べたに座り込んだ、ただの少女だけだった。
夕暮れはすぐに訪れた。
雲が橙に染まり、紫から紺色へとグラデーションをかけて背後に夜を背負っている。
彼女は、ただただ時間が流れていくのを眺めていた。
畑を囲う柵に水色のトンボが止まっているところ。
曇り空が裂け、切れ間から日光が差し込んだところ。
用水路の水が流れる音が耳に響くこと。
時折吹く風が肌をなでたこと。
そんな情景が新鮮だった。
ざくざくと、土と砂利の混じった道の上を歩く音が近づいていた。
現れた二つ目の影が、小さな影に重なる。
それは女性だった。
今の彼女より、少しだけ身体が大きかったので、影に身体が隠される。
「君、どうかしたの?」
わからない。
座り込む彼女はただ本心から、自分がどうかしたのかを知る術がなかった。
けれど他人が踏み鳴らした音に安心を感じることが、少女にはとても不思議だった。
わからない。まだ。
「大丈夫?」
他人が発した声色に、やはり安心を覚えた。
それは誰でも良かったのか、それとも、この人の声の響きに安心感を持ったのか、
それもこれも、その時の彼女にはわからなかったかも知れないけれど。
「名前は言える?」
──たしか、
「オズ、ワカバ」
小さな彼女の中には、そんな名前だけが残っていた。