監視夫の処刑日~妻を見張る夫の、見られたくない秘密~ 作:桐山さくらこ
新婚のころ。雨の降る駅前で、村瀬祐介が、閉じた傘を二本持って改札の前に立っていた。改札を出た妻の村瀬香織が、目を丸くしていた。
「祐介! どうしたの?」
「迎えに来た。傘、忘れただろ」
「あ……玄関に置いたままだった」
「ほら」
香織が、差し出された傘を受け取っていた。
「ありがとう。雨、やむまで待とうと思ってたの」
「待ってたら、いつになるかわからないぞ」
「うん。来てくれて、よかった」
香織が、うれしそうに祐介の腕に手を添えていた。
「何?」
「別に。うれしいなって」
祐介は少し照れた顔をした。
「……帰ろう」
「うん!」
駅から続く歩道で、二本の傘を差した二人が、並んで歩いていた。このときはまだ、気づいていなかった。夫の迎えを、怖いと思う日が来るなんて。あのとき差し出された傘は、困っている自分のためだった。香織はそのことを、あとになっても否定できなかった。優しかった場面を一つずつ思い出すから、嫌だと言うたびに、自分が恩を忘れたような気持ちになった。
*
数週間後。
駅のホームで、電光掲示板に「運転見合わせ」と表示されていた。
香織が、スマートフォンを耳に当てていた。
「まだ動かないみたい。先にご飯、食べてて」
『わかった。遅くなるなら、駅まで迎えに行くよ』
「ありがとう。でも、まだ家にいてね。動いたら連絡するから」
*
一時間後。自宅へ続く歩道で、香織が、祐介と並んでいた。
「遅くなっちゃった。待った?」
「いや。けど、さっき電話したんだぞ」
「ごめん。電車、混んでて気づかなかった」
「動いたって聞いてから、また連絡がないからさ」
「また止まっちゃって。私も、いつ着くかわからなくて……」
祐介は少し考えた。
「なあ、位置情報、見られるようにしとこうか」
「位置情報?」
「スマホで、香織がどこにいるかわかるんだよ。それなら、何回も電話しなくて済むし」
香織が、祐介を見ていた。
「……ずっと、わかるの?」
「大丈夫だよ。見るのなんか、迎えに行くときくらいだから」
「連絡がつかないと、事故にでも遭ったかって心配になるだろ」
「そっか。じゃあ、お願いしようかな」
自宅のテーブルで、祐介のスマートフォンを、香織がのぞき込んでいた。
地図の画面に、香織の顔のアイコンと「自宅」が表示されていた。
「本当だ。ここにいる」
「これなら安心だろ」
香織は笑ってうなずいた。
「じゃあ、またお迎えよろしくね」
「まかしとけって」
二人は笑った。
*
結婚して一年。書店で、買い物袋を腕に掛けた香織が、一冊の小説を手にしていた。
表紙には「坂道の先へ 下巻」と書かれていた。
あ、続きが出てる。香織はうれしそうに本を開いた。スマートフォンに、祐介からメッセージが届いていた。祐介からのメッセージには、こう書かれていた。
〈スーパーじゃなかったの?〉
香織が、驚いた顔で本棚の向こうを見ていた。……祐介、いるの?香織からのメッセージには、こう書かれていた。
〈近くにいるの?〉
祐介からのメッセージには、こう書かれていた。
〈家だよ。位置情報を見たら、本屋にいたから〉
香織の笑顔が消えていた。位置情報……香織は画面を見つめたまま、本を胸元に抱えた。香織からのメッセージには、こう書かれていた。
〈買い物は終わったよ。読みたかった本があったから〉
祐介からのメッセージには、こう書かれていた。
〈寄るなら言ってよ〉
祐介からのメッセージには、こう書かれていた。
〈何時に帰る?〉
香織が、手に持った本へ目を落としていた。ちょっと、本を見てただけなのに……香織は本を棚に戻した。上巻の最後を読んだ夜、続きを楽しみにしていた。下巻の表紙を見た瞬間は、夫へ報告することなど考えなかった。本屋に数分寄った。その数分が、何か説明の要る時間へ変わってしまった。香織からのメッセージには、こう書かれていた。
〈もう帰るね〉
*
帰宅後。台所で、香織が、買い物袋をテーブルに置いていた。
「おかえり」
「……ただいま」
香織が、祐介の顔をうかがっていた。
「ねえ。位置情報って、いつも見てるの?」
「いつもじゃないよ。たまに」
香織が、眉を寄せていた。
「今日だけじゃないんだ」
「何してるかなって、気になることくらいあるだろ」
「でも、迎えに来るときだけって、言ってたから……」
祐介が、不思議そうに香織を見ていた。
「見ちゃ駄目なの?」
「駄目っていうか……急に、本屋にいるってメッセージ来たから。びっくりしたの」
祐介は不服そうに眉を寄せた。
「スーパーに行くって言ってたのに、違うところにいたら気になるよ」
香織が、買い物袋の持ち手を握っていた。
「本屋に寄るくらいでも?」
「一言くれればいいんだって。そしたら、俺も心配しないから」
香織は、口を開きかけたまま夫を見ていた。
「次から、そうしてね」
「……うん」
リビングで、祐介が、ソファでテレビを見ていた。台所に残った香織が、スマートフォンを見つめていた。
画面には「家だよ。位置情報を見たら、本屋にいたから」とある。
香織が、落ち着かない顔でリビングへ目を向けていた。今までも、こうやって見てたのかな……?
*
休日。カフェで、香織と千夏の前に、オムライスとパスタが並んでいた。
「おいしそう。ここ、来てみたかったんだ」
「デザートもおすすめなんだよ」
「そうなんだ」
香織は笑顔でスプーンを持った。
「そういえば、うちの店長、来月から別の店に行くんだって」
「えっ、ずっといた店長さん?」
「うん。昨日聞いたばっかりで、まだ信じられなくて」
「急だね。寂しくなるね」
「そうなの。私が入ったころから、ずっと――」
「ちょっとごめん」
香織のスマートフォンに、祐介からメッセージが届いていた。祐介からのメッセージには、こう書かれていた。
〈今、何してる?〉
「ごめん。祐介からだ」
香織からのメッセージには、こう書かれていた。
〈千夏とご飯。前に話したカフェだよ〉
祐介からのメッセージには、こう書かれていた。
〈写真送って〉
香織が、眉を寄せて画面を見ていた。香織からのメッセージには、こう書かれていた。
〈……写真?〉
祐介からのメッセージには、こう書かれていた。
〈うん〉
「どうしたの?」
「祐介が写真見たいって。ちょっと撮らせてね」
「うん。まだ食べてないから、きれいに撮れるよ」
スマートフォンの画面に、オムライスとパスタの写真があった。祐介からのメッセージには、こう書かれていた。
〈千夏さんは?〉
香織の笑顔が消えていた。香織からのメッセージには、こう書かれていた。
〈向かいにいるよ〉
祐介からのメッセージには、こう書かれていた。
〈千夏さんも写して〉
香織が、画面から千夏へ目を向けていた。
「ん?」
「……千夏の顔も、入れてほしいって」
「私の顔? 何で?」
「う〜ん、なんでだろ?……」
千夏が、フォークを置いていた。
「もしかして本当に私といるか、確かめたいってことだったり」
「……まさか?」
香織が、眉を寄せてスマートフォンを見ていた。香織からのメッセージには、こう書かれていた。
〈どうして千夏の顔も?〉
祐介からのメッセージには、こう書かれていた。
〈千夏さんと一緒だってわかれば、安心するから〉
画面を見つめたまま、香織が口を結んでいた。
「……何て?」
「千夏と一緒だってわかれば、安心するんだって」
千夏が、困ったように眉を下げていた。
「そっか……。それは、なんか嫌だね」
「うん。私が言うだけじゃ、駄目なのかな…」
目の前の友人は、香織と話しに来てくれた。夫へ存在を証明するために席に座っているのではない。そう思うのに、写真を送らなければ、このあともずっと通知を気にすることになる。香織は迷った末、友人へ頼んだ。香織の前に、まだ手をつけていないオムライスがあった。
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