監視夫の処刑日~妻を見張る夫の、見られたくない秘密~   作:桐山さくらこ

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もう、自分で決めている

千夏の家で、香織のスマートフォンに、祐介からメッセージが届いていた。祐介からのメッセージには、こう書かれていた。

 

〈日曜日、家で話せないか〉

 

 テーブルには、大島から受け取った書類と封筒があった。

 

「日曜日、話をしてくる」

 

「祐介さんと?」

 

「うん」

 

 香織の返信には、こう書かれていた。

 

〈午後に行きます〉

 

 香織は顔を上げた。

 

*

 

 日曜日。村瀬家のリビングで、テーブルに、菓子店の箱があった。中には、チョコのシュークリームが二つ入っていた。

 

「駅前の店。好きだっただろ」

 

 香織は答えなかった。

 

「コーヒー、淹れようか」

 

「それより先に、話をしたい」

 

 祐介が、困ったように箱を見ていた。向かいの椅子に、香織がバッグを抱えて座っていた。

 

「最近、あんまり連絡してこないから……少し、安心してくれたのかと思って」

 

「安心?」

 

「ちゃんと帰ってるし、玲奈にも会ってない。部屋だって、見てたろ」

 

「……うん」

 

「もう一か月だぞ。そろそろ、戻ってこないか」

 

 香織が、祐介を見つめていた。

 

「戻らないよ」

 

 祐介の笑みが消えていた。

 

「まだ、信じてもらえない?」

 

「離婚したい気持ちは、変わってないよ」

 

 祐介が、テーブルの縁を握っていた。

 

「だったら、この一か月、何だったんだよ」

 

「私、離婚をやめる約束はできないって、言ったよ」

 

「あれだけやったんだから、少しは考えてくれてると思うだろ! 見てくれただろ!」

 

 香織が、膝の上でバッグを握っていた。

 

「言われたことは全部やった。何回も写真撮って、返事して!」

 

 祐介は悔しそうにうつむいた。

 

「飯を食ってても、友達と話してても、ずっとスマホが気になって…」

 

 祐介が、椅子から立ち上がっていた。

 

「家で横になることもできないんだぞ! 何も悪いことなんかしてないのに!」

 

 香織が、座ったまま祐介を見上げていた。

 

「やましいことがないなら、見られても困らないんでしょ?」

 

「そういうことじゃない! 何もしてなくても、見られるのは嫌なんだよ!」

 

 香織の目に、涙が浮かんでいた。

 

「……私も、そう言ったよ」

 

 祐介の声が大きくなっても、香織は椅子を立たなかった。今の言葉を、聞いていたかった。何もしていなくても、見られるのは嫌。その通りだった。夫がようやく口にしたことは、自分が何度も伝えてきた気持ちだった。祐介の口が、開いたまま止まっていた。祐介が、青ざめた顔で香織を見ていた。

 

「……俺」

 

 香織は、祐介から目をそらさずにいる。

 

「こんなに嫌だって、思わなかった…」

 

「私言ったよ。何度も」

 

 祐介が、うつむいていた。

 

「……ごめん」

 

 床に膝をついた祐介が、香織を見上げていた。

 

「本当に、ごめん。戻ってきてくれたら、全部やめる。カメラも、写真も……」

 

 香織が、涙を浮かべたまま唇を結んでいた。

 

「帰る時間だって、香織が好きに決めていいから」

 

「もう、自分で決めてるよ」

 

 祐介が、言葉を失っていた。香織が、封筒をバッグから出していた。

 

 テーブルに「離婚届」と書かれた用紙があった。

 

 妻の欄に「村瀬香織」と記入されていた。

 

 その横に、書類「離婚条件について」と「弁護士 大島知佳」の名刺があった。

 

「弁護士……?」

 

「相談してる。慰謝料も、払ってもらいたい」

 

「そこまで、話してたのか?」

 

 祐介は驚いて目を見開いた。

 

「うん」

 

 祐介が、すがるように香織を見ていた。

 

「待ってくれよ。今、やっとわかったんだ。もう一回だけ……」

 

 香織が、苦しそうに顔を伏せていた。

 

「……もう、一緒には暮らせない」

 

 祐介が、焦った顔で身を乗り出していた。

 

「どこで暮らすんだよ。千夏さんにだって、いつまでも……」

 

「部屋を借りたよ」

 

「……借りた?」

 

「仕事も増やした。そこで暮らしていくつもり」

 

 祐介が、目を見開いていた。

 

「いつ、そんなこと決めたんだ」

 

「この前、忙しいって言った日。契約に行ってたの」

 

「俺が、ここで待ってた間に?」

 

「うん」

 

「俺には何も言わないで、勝手に……!」

 

 祐介が、テーブルの縁をつかんで立っていた。香織は、バッグを抱えたまま祐介を見上げていた。

 

「戻れないって、何度も話したよ」

 

 祐介が、口を開けたまま黙っていた。目の前の離婚届に、香織の名前があった。祐介が、用紙を香織のほうへ押し戻していた。

 

「書かない。俺は、離婚しないからな」

 

 香織が、押し戻された用紙を見ていた。

 

「わかった。先生に、そう伝える」

 

「香織!」

 

 香織はバッグを持って立った。

 

「この先の話は、先生を通して。私、もう行くね」

 

 祐介が、青ざめた顔で椅子に座っていた。向かいの席には、誰もいない。テーブルのシュークリームには、手がつけられていない。

 

*

 

 近くの喫茶店。千夏の向かいに、香織が座っていた。

 

「……お疲れさま」

 

「うん」

 

「帰ろうか」

 

「少しだけ、このままでもいい?」

 

 千夏は心配そうに香織を見た。

 

「もちろん」

 

 香織の頬に、涙が伝っていた。

 

「ちゃんと、好きだったのにな……」

 

 雨の駅へ来てくれた人も、好きなシュークリームを覚えている人も、祐介だった。その記憶まで嘘にしなければ別れられないわけではない。香織は悲しいまま、夫との暮らしを終えようとしている。それを千夏に聞いていてもらいたかった。千夏が、紙ナプキンを香織のそばへ寄せていた。

 

「……うん」

 

 香織が、ナプキンを目元に押し当てていた。

 

*

 

 数か月後。

 

 大島法律事務所で、机に「離婚に関する合意書」があった。

 

 香織と祐介の署名が並んでいた。役所の窓口で、香織が、提出書類を職員へ差し出していた。

 

*

 

 条件を話し合い、離婚が成立した。元の家の寝室で、香織が使っていたクローゼットが空になっていた。祐介が、その前に立っていた。リビングのソファで、祐介が、一人でスマートフォンを見ていた。

 

 地図アプリに「香織との位置情報の共有は停止されています」と表示されていた。

 

 メッセージの入力欄に「今、どこにいる?」とある。

 

 送信ボタンの手前で、祐介の指が止まっていた。棚のカメラのランプは消えていた。祐介が、スマートフォンを握ったまま絶望的な表情でうつむいていた。

 

*

 

 香織の新居。窓辺の小さなテーブルに、紅茶と一冊の小説があった。

 

 小説の表紙には「坂道の先へ 下巻」と書かれていた。

 

 香織が、椅子に座って本を開いていた。香織は夢中でページを見つめた。壁の時計を見た香織が、驚いた顔をしていた。

 

「……もう、こんな時間」

 

 香織はテーブルのスマートフォンに手を伸ばしかけた。香織が、はっとした顔をしていた。もう連絡しなくていいんだね。香織が、小さく笑って本を開いていた。

 

「あと、一章だけ……」

 

 書店で棚へ戻した続きが、今は自分の机にある。夕飯を少し遅くするのも、本をここで閉じるのも、自分で決められる。香織はしおりを手に取って、それからもう一枚、ページをめくった。

 

*

 

 休日。玄関で、千夏が、菓子の袋を持っていた。

 

「お邪魔しまーす」

 

「どうぞ! それ、クッキー?」

 

「当たり。食べたかったの、売ってたから」

 

「やった。お茶、淹れるね」

 

 テーブルに、開いたクッキーの箱があった。千夏の前に、花柄のカップが置かれていた。

 

「あれ。これ、私のとおそろい?」

 

「うん。選んでたとき、自分も欲しくなっちゃって」

 

「私も、今朝これで飲んできたよ」

 

「そんなに使ってくれてるんだ」

 

「うん。お気に入り」

 

 香織が、楽しそうに笑っていた。

 

「お店のほうは、どう?」

 

「今度、入口の売り場を任せてもらえるの」

 

「すごいじゃない」

 

「まだ、並べ方で悩んでる。やってみると、難しくて」

 

「できたら、見に行くね」

 

「うん。見てほしい」

 

 テーブルの端で、香織のスマートフォンが光っていた。美穂からのメッセージには、こう書かれていた。

 

〈今度、三人でご飯行かない?〉

 

 香織の顔に、笑みが広がっていた。

 

「美穂から。三人で会おうって」

 

「いいね。いつにする?」

 

「来週は? 木曜以外なら、夜、空いてる」

 

「私は金曜がいいな」

 

「じゃあ、聞いてみる」

 

 香織からのメッセージには、こう書かれていた。

 

〈行きたい! 金曜どう? お店、また私が予約するね〉

 

 送信してから、許してもらえたかどうかを確かめなかった。千夏と美穂が都合を返してくれたら、三人で店を決めよう。デザートまで同じ席で笑っていたい。窓辺のカップを片づけながら、香織は次の金曜日を楽しみにした。香織と千夏は向かい合っていた。




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