マチアプ夫の処刑日~待ち合わせに現れたのは、妻だった~ 作:桐山さくらこ
その夜。リビングで、彩乃の手に、三十八度八分を示す体温計があった。湊が泣いていた。
「湊……熱、上がってる。病院行かなきゃ」
彩乃が湊を抱き、スマートフォンを耳に当てていた。
「四か月です。夕方から熱が出て……」
「はい、お願いします。これから行きます」
テーブルに、母子手帳と財布を入れたバッグがあった。
彩乃は、拓也との会話画面を開いた。日付は「9月12日」。
彩乃からのメッセージには、こう書かれていた。
〈湊が熱を出した。今から病院に連れていく〉
彩乃からのメッセージには、こう書かれていた。
〈帰れそう?〉
泣いていた湊を抱いた彩乃が、画面を見つめていた。
「大丈夫だよ。すぐ診てもらおうね」
ホテルのラウンジで、拓也と絵里が隣り合って座っていた。テーブルのスマートフォンに通知が出ていた。拓也が手を伸ばしていた。
「誰?」
「会社。ちょっと待って」
拓也のスマートフォンに、彩乃からの二通のメッセージが表示されていた。拓也が、絵里から画面を隠すように持っていた。拓也からのメッセージには、こう書かれていた。
〈まだ仕事が終わらない。そっちは任せていい?〉
「大変だね。こんな時間まで」
「うん。もう大丈夫」
拓也がスマートフォンを伏せていた。絵里の手が、拓也の腕に触れていた。自宅の玄関で、彩乃が湊を抱き、肩にバッグを掛けていた。
彩乃のスマートフォンに「まだ仕事が終わらない。そっちは任せていい?」と表示されていた。
彩乃が、唇を結んでいた。……帰れないんだ。彩乃からのメッセージには、こう書かれていた。
〈わかった。診てもらったら連絡する〉
湊を抱く彩乃の腕に、力がこもっていた。
「行こうね。湊」
*
翌朝。
自宅のベビーベッドで、湊が眠っていた。そばのバッグから「診療明細書」と母子手帳が見えていた。
彩乃が、体温計を見ていた。目の下に、疲れが残っていた。……下がってきた。彩乃がベビーベッドの柵に手を添え、湊を見つめていた。
「よかった……」
*
それから、ひと月ほどして。夜の食卓。彩乃が二人分の汁物を並べていた。湊は隣の部屋で眠っていた。
「おかえり。今日は早かったね」
「……うん」
拓也は上着を脱がず、椅子に座っていた。膝の上に、角の折れた封筒があった。彩乃が、椀を置く手を止めて拓也を見ていた。
「どうしたの?」
「……二百万、払わなきゃならなくなって」
「二百万? 何があったの?」
「俺の貯金から出すから。生活費は、今までどおり入れるし」
「そうじゃなくて。何のお金なの?」
拓也は、膝の上の封筒を握っていた。彩乃が拓也の顔をのぞき込んでいた。
「……何があったの?」
拓也が、封筒から取り出した通知書をテーブルに置いていた。
「……これ」
彩乃が、通知書に目を落としていた。
そこには、「水野拓也様」「香坂絵里との不貞行為」「慰謝料 二百万円」と書かれていた。
彩乃の視線が、「不貞行為」で止まっていた。
「……何、これ?」
「もう、その人とは会ってないんだ」
彩乃が、拓也を見ていた。
「会ってないって……」
拓也がうつむいていた。
「……浮気、してたの?」
拓也は顔を上げない。
「……ごめん」
彩乃の手が、椅子の背をつかんでいた。椅子に腰を下ろした彩乃が、口をわずかに開いたまま拓也を見ていた。
「……誰なの、この人」
「アプリで、知り合って」
「アプリって……あのアプリ?」
拓也が、小さくうなずいていた。
「思い出が残ってるからって……言ってたよね」
「それも、本当だよ。彩乃とのやり取りは、消したくなかったし……」
彩乃が、眉を寄せて拓也を見ていた。
「私……それ、信じてたんだよ」
拓也の口が閉じていた。彩乃は拓也から目をそらし、通知書へ視線を落としていた。
「……この人、結婚してるの?」
「向こうの旦那に、見つかって」
「知ってて、会ってたの?」
「最初は、知らなかったんだ」
彩乃が、顔を上げていた。
「最初は?」
「途中で聞いた。でも、もう何度か会ってたし……」
「……それでも、会ってたんだ」
「本気じゃなかったんだよ。向こうも……」
「向こうの話じゃなくて」
拓也が黙っていた。
「あなた、私と結婚してるんだよね」
「……うん」
拓也が、通知書の金額に指を置いていた。
「もう、向こうとは終わってるんだ。あとは、お金を払えば……」
「終わってるって……私、今、聞いたんだよ」
「だから、ちゃんと話しておこうと思って」
「今まで、ずっと黙ってたのに?」
拓也の指が、通知書の上で止まっていた。彩乃は拓也を見ていた。
「……向こうの旦那が、彩乃にも知らせるって」
彩乃の眉が、苦しそうに寄っていた。
「……それで、言ったの?」
「そんなふうに聞かされるよりは、俺から……」
「言われなかったら、私には言わなかった?」
「いや、そういう……」
拓也は、彩乃から目をそらしていた。彩乃が、テーブルの封筒へ手を伸ばしていた。封筒の中に、写真が入っていた。
彩乃の手元には、ホテルへ入る拓也と絵里の写真があった。日付は「9月12日 21:08」。
彩乃の視線が、日付で止まっていた。
「九月十二日……」
彩乃が、自分のスマートフォンを持っていた。
画面には、拓也との会話があった。「9月12日」「湊が熱を出した。今から病院に連れていく」「まだ仕事が終わらない。そっちは任せていい?」と並んでいた。
「この日も、仕事じゃなかったの?」
拓也が画面を見て、目をそらしていた。
「湊が、熱を出した日」
病院へ持っていくものを探しながら、返事を待った夜だった。熱い頬に触れ、画面を確かめ、また湊を抱いた。その同じ時間が写真の日付になっている。今さら腕に力が入り、彩乃は手元から目を離せなくなった。
「……わかってる」
「連絡、読んでたよね」
「うん」
彩乃の目に涙がたまっていた。
「帰ってきてほしかったのに……」
「彩乃……」
「初めてあんなに熱が出て。私、どうしたらいいか、わかんなくて」
彩乃が写真を裏返していた。
「仕事なら仕方ないって……」
涙が、彩乃の手の甲に落ちていた。
「本当に、ごめん」
拓也が、彩乃の手に触れようとしていた。彩乃は、その手から自分の手を引いていた。
「……触らないで」
隣の部屋から、湊の泣き声がする。
「ふぇ……ああっ」
彩乃が、椅子の背に手をかけていた。
「俺が行くよ」
「いい。私が行く」
ベビーベッドのそばで、彩乃が湊を抱いていた。
「起きちゃったね。大丈夫だよ」
湊が、彩乃の肩に顔を寄せていた。彩乃の涙が、湊の服に落ちていた。湊が、彩乃の顔を見上げていた。
「……ごめんね。ママ、大丈夫だよ」
彩乃が、涙を拭いて湊へ笑いかけていた。部屋の入口に拓也が立っていた。
「お金は、結婚前の俺の貯金から払う。家のお金は使わないから」
彩乃が、拓也を見ていた。
「今、そんな話……」
「いや、違う。心配させたくなくて」
彩乃が、湊を抱く腕に顔を伏せていた。
「今は、もう……何も聞きたくない」
玄関で、彩乃の足元に、湊の着替えを入れたバッグがあった。
「どこ行くの?」
「お母さんのところ」
「今から? もう遅いよ」
「タクシーで行くから」
「送るよ」
「……一緒に、いたくない」
拓也が、玄関の壁に手をついていた。彩乃は湊を抱き、夫を見ずに立っていた。実家の玄関で、恵子が彩乃のバッグを受け取っていた。
「湊、寝た?」
「車で……」
「お布団、敷いてあるよ」
「ありがとう」
居間の布団で、湊が眠っていた。彩乃はそのそばに座っていた。
「拓也さんが、ほかの人と?」
彩乃が、うなずいていた。
「……いつから?」
「……まだ、ちゃんと聞けてない」
彩乃の手が、湊の掛け布団を握っていた。
「お金を払わなきゃって。最初に、それを言われて」
恵子の眉が寄っていた。
「相手の旦那さんが、私にも話すって言ったんだって」
恵子が、唇を結んでいた。
「それがなかったら、ずっと知らないままだったのかな」
恵子が彩乃の隣に座っていた。
「お母さん……」
「うん」
「湊が熱を出したときも、その人といたって」
恵子が、驚いた顔で彩乃を見ていた。恵子の手が、彩乃の背中に添えられていた。彩乃は両手で顔を覆っていた。深夜、実家の布団で、彩乃がスマートフォンを見ていた。
検索欄に「離婚 子ども 生活」と入力されていた。
私一人で、湊を……隣で眠る湊の、口元が少し動いていた。お金、いくらあれば足りるんだろう。スマートフォンに、拓也からのメッセージが届いていた。拓也からのメッセージには、こう書かれていた。
〈ごめん。会って、話せないかな〉
彩乃は画面を消し、顔を伏せていた。暗い布団の中で、彩乃の目は開いたままになっていた。
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