マチアプ夫の処刑日~待ち合わせに現れたのは、妻だった~ 作:桐山さくらこ
数日後。実家で、テーブルを挟み、拓也が彩乃と恵子の前に座っていた。
テーブルには、示談書と振込の控えがあった。控えに「香坂修平」「2,000,000円」と記されていた。
「相手のご主人とは、二百万円で話がまとまりました。昨日、振り込みました」
「相手とは、もう会いません。今は、連絡も取っていません」
「……私のこと、何て言ってたの」
「何て?」
「その人に、結婚してるって言ってた?」
拓也が黙っていた。
「独身って、言ってたんだ」
「……うん」
彩乃が、自分の膝に目を落としていた。
「湊も、いないことになってたんだね」
夫の恋愛相手に自分が隠されていた。そこまででも苦しかったのに、湊まで消されていた。抱けばこんなに重さがある。泣けば、眠っていても目が覚める。この子をいないことにして、拓也はどんな顔で会話をしていたのだろう。
「彩乃。本当に、もうしない」
拓也のスマートフォンに、アプリの削除確認が表示されていた。
「消すから。見てて」
拓也の指が「削除」に触れていた。
ホーム画面から、アプリのアイコンが消えていた。拓也がスマートフォンをテーブルに置いていた。
「……もう、いらない」
拓也が、彩乃の返事を待っていた。彩乃は、画面を見たまま黙っていた。恵子が、うつむく彩乃を見ていた。
「今日は、帰ってもらえる?」
「お義母さん。僕は……」
「彩乃、夜もあまり眠れてないの。今日は、休ませてあげたいの」
拓也が、彩乃の目の下を見ていた。
「……わかりました」
玄関へ向かう拓也の背中を、彩乃が見ていた。彩乃は何も言わず、また膝へ目を落としていた。
*
その夜。実家の寝室で、湊のそばに座る彩乃が、スマートフォンを見ていた。
里奈との会話画面で、以前送った、湊を抱く拓也の写真と、里奈からの「パパに似てきたね」という返信があった。
彩乃からのメッセージには、こう書かれていた。
〈今、少し電話してもいい?〉
里奈からのメッセージには、こう書かれていた。
〈うん。今なら大丈夫だよ〉
彩乃が、スマートフォンを耳に当てていた。
「……急にごめん」
自室の里奈が、スマートフォンを耳に当てていた。
*
電話の相手は、同じ会社の友人の里奈だった。
「いいよ。どうしたの?」
「夫が、浮気してたの」
里奈が、目を見開いていた。
「……え?」
「アプリで知り合った人と。今、湊と実家にいる」
「そうだったんだ……。彩乃、大丈夫?」
「……あんまり、眠れてなくて」
里奈が、眉を下げていた。
「今日、謝りに来てね。もうしないって、私の前でアプリも消したんだけど」
彩乃の手が、布団の端を握っていた。
「……消したからって、安心なんてできないよ」
ホーム画面の空いた場所を、彩乃は見た。なくなったことは目で確かめられる。でも、あの夜に戻れるわけではない。削除する一瞬と、また信じられるようになるまでの時間は、同じ長さではなかった。
「うん。すぐには、無理だよ」
「何て言っていいか、わかんなくなっちゃって」
「……うん。うまく話そうとしなくていいよ。聞いてるから」
「……うん」
彩乃が、目元を拭いながら電話を続けていた。
*
数日後。夜の実家。彩乃のスマートフォンに、拓也からメッセージが届いていた。拓也からのメッセージには、こう書かれていた。
〈明日、湊に会いに行ってもいいかな?〉
彩乃が、画面を見つめていた。隣で洗濯物を畳んでいた恵子が、彩乃に目を向けていた。
「拓也さん?」
「……うん。湊に会いたいって」
「彩乃は、どうしたい?」
「……わかんない。顔を見たら、また泣いちゃいそう」
「無理しなくていいんだよ」
「……うん」
返信欄に「明日はやめておく」と打たれていた。
彩乃の指が、送信ボタンの手前で止まっていた。メッセージの横にある、拓也の顔のアイコン。彩乃は唇を結び、スマートフォンを膝へ下ろしていた。恵子が、黙ってそばに座っていた。
「……お母さんも、いてくれる?」
「うん。いるよ」
彩乃が、スマートフォンを持ち直していた。
彩乃の指が、返信欄の「×」ボタンに触れていた。
返信欄が空になっていた。彩乃からのメッセージには、こう書かれていた。
〈明日の二時なら。長くは無理だから〉
拓也からのメッセージには、こう書かれていた。
〈わかった。ありがとう〉
彩乃はその返事を見つめたまま、黙っていた。
*
翌日。実家の玄関で、彩乃が湊を抱いて立っていた。
「……今日は、ありがとう」
彩乃は拓也の顔を見ず、廊下へ体を向けていた。
「上がって」
居間で、恵子がテーブルの端に湯飲みを置いていた。拓也は座布団に座り、彩乃に抱かれた湊を見ていた。
「……抱いてもいい?」
彩乃が、腕の中の湊に目を落としていた。
「……うん」
拓也が湊を受け取った。彩乃の手が、まだ湊の背中に添えられていた。
「大丈夫。支えてるよ」
彩乃が手を離していた。彩乃は少し間を空けて座った。恵子は、その隣にいた。
「湊。パパだよ」
湊が、拓也の顔をじっと見ていた。拓也が小さく笑い、湊の顔をのぞき込んでいた。湊の手が、拓也の服をつかんでいた。
「あ、引っ張ってる」
湊は、つかんだ服へ口を寄せた。
「だめだめ。それは食べられないぞ」
笑いながら服を押さえる拓也に、湊が声を上げて笑っていた。
「……ふふ」
彩乃が、湊を見て笑っていた。拓也が顔を上げ、彩乃を見ていた。その口元にも笑みがあった。二人の目が合っていた。彩乃の口元から、笑みが消えていた。彩乃は膝へ視線を落とし、手を重ねていた。拓也も黙り、腕の中の湊を見ていた。
「……今日は、もう帰ってもらっていい?」
拓也が、彩乃を見ていた。
「……うん」
彩乃が拓也のそばに膝をつき、湊へ両手を差し出していた。湊の手は、まだ拓也の服をつかんでいた。拓也が、その小さな手に指を添えていた。
「……帰ってきてほしい」
彩乃の手が止まっていた。
「また、三人で暮らしたい」
湊を抱く拓也の腕は、前と同じように見えた。湊も笑っていた。彩乃が欲しかった景色が、その場にある。嫌いになりきれたなら、もう少し簡単だったのかもしれない。笑い声を聞いてうれしくなる自分まで、今はつらかった。彩乃が、拓也の顔を見ていた。その目に、涙がたまっていた。
「……私も、いたかったよ」
拓也は、彩乃を見つめていた。
「三人で、普通に……」
彩乃の頬に涙が伝っていた。
「ごめん」
「何で、あんなことしちゃったの……」
拓也が、うつむいていた。
「……ごめん」
彩乃が湊を抱き取っていた。彩乃は湊を抱いたまま顔を伏せ、声をこらえた。恵子が、その背中に手を添えていた。拓也は、空いた両手を膝に置き、二人の前に座っていた。
*
その夜。実家の台所で、恵子が湯飲みに湯を注いでいた。彩乃が、その隣に立っていた。
「お母さん。私……帰ってみようかな」
恵子の手が止まっていた。
「……拓也さんのこと、許せそう?」
「ううん」
彩乃が、目を伏せていた。
「今でも、思い出すと腹が立つよ。何で私ばっかり、こんな思いしなきゃいけないんだろうって」
恵子が急須を置き、彩乃へ体を向けていた。
「でも……今日、湊、笑ってたでしょ」
「うん」
「拓也に抱っこされて、あんなに……」
彩乃が、隣の部屋へ目を向けていた。開いた戸の向こうで、湊が眠っていた。
「まだ、こんなに小さいのに。お父さんと離しちゃっていいのかなって」
恵子は、彩乃の横顔を見ていた。
「……それに私一人で、ちゃんと育てていけるのか不安だし」
「一人で抱えなくていいんだよ。お母さんもいるんだから」
「うん。でも、仕事に戻ったって、私の給料だけで……湊に我慢ばっかりさせることになったらって、考えちゃう」
彩乃の指が、湯飲みを包んでいた。
「ここ、出ていかなくていいんだよ。これからのことは、一緒に考えよう」
彩乃が、恵子を見ていた。
「……ありがとう」
恵子は彩乃のそばに立ったまま、返事を待っていた。
「でも、拓也も、あんなに謝ってたし……」
彩乃が、湯飲みの中へ目を落としていた。
「もうしないって言ってるんだから、今度はちゃんとしてくれるかもしれないし」
「……うん」
「もう一度だけ、やってみようかな」
恵子が、彩乃の肩に手を置いていた。
「……わかった。でも、つらくなったら戻っておいで」
彩乃が、恵子へ顔を向けていた。
「夜中でも、電話していいからね」
「……うん」
彩乃が湯飲みを置き、目元を拭っていた。
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