マチアプ夫の処刑日~待ち合わせに現れたのは、妻だった~   作:桐山さくらこ

3 / 8
三人で暮らしたかった

数日後。実家で、テーブルを挟み、拓也が彩乃と恵子の前に座っていた。

 

 テーブルには、示談書と振込の控えがあった。控えに「香坂修平」「2,000,000円」と記されていた。

 

「相手のご主人とは、二百万円で話がまとまりました。昨日、振り込みました」

 

「相手とは、もう会いません。今は、連絡も取っていません」

 

「……私のこと、何て言ってたの」

 

「何て?」

 

「その人に、結婚してるって言ってた?」

 

 拓也が黙っていた。

 

「独身って、言ってたんだ」

 

「……うん」

 

 彩乃が、自分の膝に目を落としていた。

 

「湊も、いないことになってたんだね」

 

 夫の恋愛相手に自分が隠されていた。そこまででも苦しかったのに、湊まで消されていた。抱けばこんなに重さがある。泣けば、眠っていても目が覚める。この子をいないことにして、拓也はどんな顔で会話をしていたのだろう。

 

「彩乃。本当に、もうしない」

 

 拓也のスマートフォンに、アプリの削除確認が表示されていた。

 

「消すから。見てて」

 

 拓也の指が「削除」に触れていた。

 

 ホーム画面から、アプリのアイコンが消えていた。拓也がスマートフォンをテーブルに置いていた。

 

「……もう、いらない」

 

 拓也が、彩乃の返事を待っていた。彩乃は、画面を見たまま黙っていた。恵子が、うつむく彩乃を見ていた。

 

「今日は、帰ってもらえる?」

 

「お義母さん。僕は……」

 

「彩乃、夜もあまり眠れてないの。今日は、休ませてあげたいの」

 

 拓也が、彩乃の目の下を見ていた。

 

「……わかりました」

 

 玄関へ向かう拓也の背中を、彩乃が見ていた。彩乃は何も言わず、また膝へ目を落としていた。

 

*

 

 その夜。実家の寝室で、湊のそばに座る彩乃が、スマートフォンを見ていた。

 

 里奈との会話画面で、以前送った、湊を抱く拓也の写真と、里奈からの「パパに似てきたね」という返信があった。

 

 彩乃からのメッセージには、こう書かれていた。

 

〈今、少し電話してもいい?〉

 

 里奈からのメッセージには、こう書かれていた。

 

〈うん。今なら大丈夫だよ〉

 

 彩乃が、スマートフォンを耳に当てていた。

 

「……急にごめん」

 

 自室の里奈が、スマートフォンを耳に当てていた。

 

*

 

 電話の相手は、同じ会社の友人の里奈だった。

 

「いいよ。どうしたの?」

 

「夫が、浮気してたの」

 

 里奈が、目を見開いていた。

 

「……え?」

 

「アプリで知り合った人と。今、湊と実家にいる」

 

「そうだったんだ……。彩乃、大丈夫?」

 

「……あんまり、眠れてなくて」

 

 里奈が、眉を下げていた。

 

「今日、謝りに来てね。もうしないって、私の前でアプリも消したんだけど」

 

 彩乃の手が、布団の端を握っていた。

 

「……消したからって、安心なんてできないよ」

 

 ホーム画面の空いた場所を、彩乃は見た。なくなったことは目で確かめられる。でも、あの夜に戻れるわけではない。削除する一瞬と、また信じられるようになるまでの時間は、同じ長さではなかった。

 

「うん。すぐには、無理だよ」

 

「何て言っていいか、わかんなくなっちゃって」

 

「……うん。うまく話そうとしなくていいよ。聞いてるから」

 

「……うん」

 

 彩乃が、目元を拭いながら電話を続けていた。

 

*

 

 数日後。夜の実家。彩乃のスマートフォンに、拓也からメッセージが届いていた。拓也からのメッセージには、こう書かれていた。

 

〈明日、湊に会いに行ってもいいかな?〉

 

 彩乃が、画面を見つめていた。隣で洗濯物を畳んでいた恵子が、彩乃に目を向けていた。

 

「拓也さん?」

 

「……うん。湊に会いたいって」

 

「彩乃は、どうしたい?」

 

「……わかんない。顔を見たら、また泣いちゃいそう」

 

「無理しなくていいんだよ」

 

「……うん」

 

 返信欄に「明日はやめておく」と打たれていた。

 

 彩乃の指が、送信ボタンの手前で止まっていた。メッセージの横にある、拓也の顔のアイコン。彩乃は唇を結び、スマートフォンを膝へ下ろしていた。恵子が、黙ってそばに座っていた。

 

「……お母さんも、いてくれる?」

 

「うん。いるよ」

 

 彩乃が、スマートフォンを持ち直していた。

 

 彩乃の指が、返信欄の「×」ボタンに触れていた。

 

 返信欄が空になっていた。彩乃からのメッセージには、こう書かれていた。

 

〈明日の二時なら。長くは無理だから〉

 

 拓也からのメッセージには、こう書かれていた。

 

〈わかった。ありがとう〉

 

 彩乃はその返事を見つめたまま、黙っていた。

 

*

 

 翌日。実家の玄関で、彩乃が湊を抱いて立っていた。

 

「……今日は、ありがとう」

 

 彩乃は拓也の顔を見ず、廊下へ体を向けていた。

 

「上がって」

 

 居間で、恵子がテーブルの端に湯飲みを置いていた。拓也は座布団に座り、彩乃に抱かれた湊を見ていた。

 

「……抱いてもいい?」

 

 彩乃が、腕の中の湊に目を落としていた。

 

「……うん」

 

 拓也が湊を受け取った。彩乃の手が、まだ湊の背中に添えられていた。

 

「大丈夫。支えてるよ」

 

 彩乃が手を離していた。彩乃は少し間を空けて座った。恵子は、その隣にいた。

 

「湊。パパだよ」

 

 湊が、拓也の顔をじっと見ていた。拓也が小さく笑い、湊の顔をのぞき込んでいた。湊の手が、拓也の服をつかんでいた。

 

「あ、引っ張ってる」

 

 湊は、つかんだ服へ口を寄せた。

 

「だめだめ。それは食べられないぞ」

 

 笑いながら服を押さえる拓也に、湊が声を上げて笑っていた。

 

「……ふふ」

 

 彩乃が、湊を見て笑っていた。拓也が顔を上げ、彩乃を見ていた。その口元にも笑みがあった。二人の目が合っていた。彩乃の口元から、笑みが消えていた。彩乃は膝へ視線を落とし、手を重ねていた。拓也も黙り、腕の中の湊を見ていた。

 

「……今日は、もう帰ってもらっていい?」

 

 拓也が、彩乃を見ていた。

 

「……うん」

 

 彩乃が拓也のそばに膝をつき、湊へ両手を差し出していた。湊の手は、まだ拓也の服をつかんでいた。拓也が、その小さな手に指を添えていた。

 

「……帰ってきてほしい」

 

 彩乃の手が止まっていた。

 

「また、三人で暮らしたい」

 

 湊を抱く拓也の腕は、前と同じように見えた。湊も笑っていた。彩乃が欲しかった景色が、その場にある。嫌いになりきれたなら、もう少し簡単だったのかもしれない。笑い声を聞いてうれしくなる自分まで、今はつらかった。彩乃が、拓也の顔を見ていた。その目に、涙がたまっていた。

 

「……私も、いたかったよ」

 

 拓也は、彩乃を見つめていた。

 

「三人で、普通に……」

 

 彩乃の頬に涙が伝っていた。

 

「ごめん」

 

「何で、あんなことしちゃったの……」

 

 拓也が、うつむいていた。

 

「……ごめん」

 

 彩乃が湊を抱き取っていた。彩乃は湊を抱いたまま顔を伏せ、声をこらえた。恵子が、その背中に手を添えていた。拓也は、空いた両手を膝に置き、二人の前に座っていた。

 

*

 

 その夜。実家の台所で、恵子が湯飲みに湯を注いでいた。彩乃が、その隣に立っていた。

 

「お母さん。私……帰ってみようかな」

 

 恵子の手が止まっていた。

 

「……拓也さんのこと、許せそう?」

 

「ううん」

 

 彩乃が、目を伏せていた。

 

「今でも、思い出すと腹が立つよ。何で私ばっかり、こんな思いしなきゃいけないんだろうって」

 

 恵子が急須を置き、彩乃へ体を向けていた。

 

「でも……今日、湊、笑ってたでしょ」

 

「うん」

 

「拓也に抱っこされて、あんなに……」

 

 彩乃が、隣の部屋へ目を向けていた。開いた戸の向こうで、湊が眠っていた。

 

「まだ、こんなに小さいのに。お父さんと離しちゃっていいのかなって」

 

 恵子は、彩乃の横顔を見ていた。

 

「……それに私一人で、ちゃんと育てていけるのか不安だし」

 

「一人で抱えなくていいんだよ。お母さんもいるんだから」

 

「うん。でも、仕事に戻ったって、私の給料だけで……湊に我慢ばっかりさせることになったらって、考えちゃう」

 

 彩乃の指が、湯飲みを包んでいた。

 

「ここ、出ていかなくていいんだよ。これからのことは、一緒に考えよう」

 

 彩乃が、恵子を見ていた。

 

「……ありがとう」

 

 恵子は彩乃のそばに立ったまま、返事を待っていた。

 

「でも、拓也も、あんなに謝ってたし……」

 

 彩乃が、湯飲みの中へ目を落としていた。

 

「もうしないって言ってるんだから、今度はちゃんとしてくれるかもしれないし」

 

「……うん」

 

「もう一度だけ、やってみようかな」

 

 恵子が、彩乃の肩に手を置いていた。

 

「……わかった。でも、つらくなったら戻っておいで」

 

 彩乃が、恵子へ顔を向けていた。

 

「夜中でも、電話していいからね」

 

「……うん」

 

 彩乃が湯飲みを置き、目元を拭っていた。




漫画版もお読みいただけます。
『マチアプ夫の処刑日~待ち合わせに現れたのは、妻だった~: 匿名希望の体験談⑯【コミック】 (ヴァンクール出版)』
Amazonで漫画版を見る

漫画版はKindle Unlimited対象作品です。
Kindle Unlimited会員の方は、追加料金なしでお読みいただけます。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。