マチアプ夫の処刑日~待ち合わせに現れたのは、妻だった~   作:桐山さくらこ

4 / 9
二冊のパンフレット

数日後。自宅の玄関で、ほっとした顔の拓也が、湊を抱いた彩乃を迎えていた。足元には湊のバッグがあった。

 

「おかえり」

 

「……ただいま」

 

「荷物、持つよ」

 

「拓也」

 

 拓也が彩乃を見ていた。

 

「帰ってきたけど、平気になったわけじゃないからね」

 

 玄関の床も、棚のパンフレットも、出ていった日から変わっていなかった。彩乃は、荷物を置く前に伝えた。戻ったことだけで、傷ついた日のことまで終わったと思ってほしくなかった。ここから暮らせるかを、もう一度確かめるために帰ってきた。拓也の顔から、笑みが消えていた。

 

「うん。わかってる」

 

「もう、嘘はつかないで」

 

「うん」

 

 彩乃が、拓也の顔を見つめていた。

 

「……お願い」

 

*

 

 家に戻って、数日後。夕方の居間で、風呂上がりの湊が、パジャマ姿でベビー布団に寝ていた。そばに座った拓也が、うちわで湊を扇いでいた。

 

「そんなに一生懸命、扇がなくても」

 

「え、強い?」

 

「うん。もう少し、ゆっくりでいいよ」

 

 拓也が、うちわをゆっくり動かしていた。

 

「これくらい?」

 

「うん」

 

「どうだ、湊。涼しいか?」

 

 湊が、うちわを見て笑っていた。

 

「あ、笑った」

 

「うちわ、見てるね」

 

 拓也が、うちわの陰から湊の顔をのぞいていた。

 

「パパもいるんだけどなあ」

 

「ふふ」

 

 笑う湊を見ながら、拓也がうちわを動かしていた。隣に座る彩乃の口元にも、小さな笑みがあった。夜の台所。彩乃のスマートフォンに、里奈との会話が開いていた。アイコンは里奈の顔。彩乃からのメッセージには、こう書かれていた。

 

〈この前は夫のこと、聞いてくれてありがとう。家に戻ったよ〉

 

 里奈からのメッセージには、こう書かれていた。

 

〈そっか。今、ちゃんと眠れてる?〉

 

 彩乃からのメッセージには、こう書かれていた。

 

〈うん。前よりは〉

 

 里奈からのメッセージには、こう書かれていた。

 

〈また話したくなったら連絡して〉

 

 彩乃からのメッセージには、こう書かれていた。

 

〈ありがとう〉

 

 リビングの入口に、拓也が立っていた。

 

「寝たよ」

 

「ありがとう。私、洗い物だけ……」

 

「それ、あとで俺がやるよ。ちょっと、座らない?」

 

 テーブルに、プリンが二つある。

 

「これ、駅前の?」

 

「うん。彩乃が好きなやつ」

 

「……買ってきてくれたの?」

 

「帰りに、まだ開いてたから」

 

 彩乃がスプーンを手に取っていた。

 

「いただきます」

 

 一口食べた彩乃が、目を細めていた。

 

「おいしい」

 

「よかった」

 

 彩乃の視線が、寝室のドアへ向いていた。

 

「泣いたら、俺が行くよ」

 

「……うん」

 

「最近、何か観た?」

 

「予告編ぐらい。一本観ようと思うと、なかなか」

 

「何の予告?」

 

「犬が出てくるやつ。前に話した……」

 

「ああ。最後、いなくなるんじゃないかって、彩乃が心配してた」

 

「だって、あの音楽だよ? 不安になるじゃない」

 

「犬、めちゃくちゃ元気に走ってたけど」

 

「元気だと、余計に怖いの」

 

「じゃあ、俺が先に観て、生きてるか報告する?」

 

「それだけ先に知るのも、何か違うんだよね」

 

 二人が笑っていた。彩乃のスプーンが、口元の手前で止まっていた。……笑っちゃった。

 

「彩乃?」

 

「ううん。何でもない」

 

 彩乃が、もう一口プリンを食べていた。

 

*

 

 後日。公園で、拓也が湊を抱き、彩乃がスマートフォンを高く持っていた。

 

「もうちょっと、こっち」

 

「俺?」

 

「うん。湊の顔も、ちゃんと入れたくて」

 

 画面の端で、拓也の頭が半分切れていた。

 

「俺、半分しかいないけど」

 

「あ。本当だ」

 

 拓也が、画面の自分を見て笑っていた。

 

「湊を優先しすぎだろ」

 

 そんな言い方に、今は笑えた。画面の中に、三人が収まる。あとで湊が大きくなったら、撮るのに苦労したんだよと話せるだろうか。彩乃は写真を保存し、もう一度眺めた。この日を、楽しかった日のまま残したかった。

 

「違うって。手が短いんだよ」

 

 拓也が、彩乃の肩に顔を寄せていた。

 

「これなら?」

 

「うん。ちょっと、そのまま」

 

 三人が収まった画面で、湊が彩乃の方へ手を伸ばしていた。

 

「湊、こっち見て」

 

「撮れた?」

 

「うん。……いい顔してる」

 

「俺も?」

 

「はいはい。拓也も」

 

 二人は写真をのぞき込んで笑った。拓也の腕の中で、湊がスマートフォンへ手を伸ばしていた。

 

*

 

 翌日。自宅の棚で、彩乃が、三人の写真を入れた小さな額を置いていた。

 

「それ、印刷したんだ」

 

「うん。飾りたくて」

 

「俺にも送って」

 

「送ったよ。昨日」

 

「あ、そうだった」

 

 彩乃が、額の傾きを直していた。また、増やしていけるかな。こういう写真。

 

*

 

 家に戻ってから、数か月。夜の自宅。時計は午後十一時を回っていた。拓也が上着を脱いでいた。

 

「おかえり」

 

「ただいま。疲れた」

 

「電話、したんだけど」

 

「客先にいて、出られなかった」

 

「そっか。今日、誰と……」

 

 拓也が、眉を寄せて彩乃を振り返っていた。

 

「まだ疑ってるの?」

 

「……聞いただけだよ」

 

「仕事だって。もう、ああいうことはしてない」

 

「うん……でも、遅かったから、心配で」

 

「帰ってきてまで、毎回こういう話?」

 

 彩乃が、湊の眠る寝室を気にしていた。

 

「……ご飯、温めるね」

 

 拓也がソファに座り、目を閉じていた。責めたいわけじゃ、ないんだけどな。

 

*

 

 翌日。電車で、拓也がスマートフォンを見ていた。

 

 仕事用の会話画面に、昨夜の訪問先から「遅くまでありがとうございました」と届いていた。

 

 昨日だって、本当に仕事だっただろ。拓也が、眉を寄せて画面を閉じていた。いつまで疑われるんだよ。ホーム画面を見たまま、拓也の指が止まっていた。拓也の脳裏に、絵里とやり取りしていたアプリの画面がよぎった。絵里からのメッセージには、こう書かれていた。

 

〈もう少し話してたいな〉

 

 その横に、笑顔の絵里のアイコンがあった。

 

 現在の電車で、拓也が、スマートフォンを持ち直していた。

 

 アプリのストア画面で、かつて使っていたマッチングアプリに「再インストール」と表示されていた。

 

 拓也が、見慣れたアイコンを見つめていた。……今、どんな人がいるんだろう。

 

 拓也の指が、「再インストール」の手前で止まっていた。

 

 戻ってきた日の彩乃のまなざしが、思い浮かんだ。

 

「もう、嘘はつかないで」

 

「……お願い」

 

 現在の電車で、拓也の指が、画面から離れていた。……駄目だろ。拓也が、唇を結んでいた。また、あんなことになったら……スマートフォンの画面が消えていた。拓也はそれを膝に置き、窓の外を見ていた。窓に拓也の顔が映った。視線が、膝の上のスマートフォンへ落ちていた。……会うわけじゃない。拓也の手が、スマートフォンに掛かっていた。誰かと話すくらいなら……画面が明るくなり、先ほどのアプリのページが表示されていた。拓也は、その画面を見つめていた。

 

 ……見るだけ。今日は、見るだけにしよう。

 

 拓也の指が、「再インストール」に触れていた。

 

 ダウンロードの進行を示す円が、半分ほど埋まっていた。拓也は、画面を見たまま待っていた。

 

 表示が「開く」に変わっていた。

 

 そのボタンに、拓也の指が触れていた。アプリの画面に、女性たちのプロフィール写真が並んでいた。拓也の指が、一人の写真の上で止まっていた。写真を見つめる拓也の口元が、わずかに緩んでいた。

 

*

 

 別の日の夜。夜の寝室で、彩乃と湊は眠っていた。リビングで、拓也がアプリのプロフィール編集画面を開いていた。

 

 古い顔写真の横に「写真を変更」と表示されていた。

 

 拓也が、公園で撮った三人の写真を選んでいた。これ、よく撮れてるな。写真を切り抜く枠の中には、拓也の顔だけがあった。枠の外に、彩乃と湊が写っていた。

 

 保存されたプロフィールには、「独身」「真剣にお付き合いできる方を探しています」と書かれていた。

 

 拓也が、自分の写真の写りを確かめていた。

 

*

 

 職場に戻る日が、近づいてきた頃。

 

 彩乃の前に「入所承諾通知書」があった。「水野湊」「4月1日入所」と印字されていた。

 

 彩乃が、母と電話をしていた。

 

「うん。坂の上の保育園に決まったよ」

 

「よかったね。あそこなら、うちからも行けるよ」

 

「最初、早く帰る日が続くんだって。仕事始まってから大丈夫かな」

 

 実家の恵子が、電話を耳に当ててカレンダーを見ていた。

 

「私も仕事の曜日、確認してみるね」

 

「ありがとう」

 

 電話を終えた彩乃のスマートフォンに、里奈からのメッセージが届いていた。里奈からのメッセージには、こう書かれていた。

 

〈今週、少し会える? 話したいことがある〉

 

 彩乃からのメッセージには、こう書かれていた。

 

〈湊も一緒でよければ。仕事の話?〉

 

 里奈からのメッセージには、こう書かれていた。

 

〈ううん。直接、話したくて〉

 

 彩乃が、スマートフォンを見つめていた。




漫画版もお読みいただけます。
『マチアプ夫の処刑日~待ち合わせに現れたのは、妻だった~: 匿名希望の体験談⑯【コミック】 (ヴァンクール出版)』
Amazonで漫画版を見る

漫画版はKindle Unlimited対象作品です。
Kindle Unlimited会員の方は、追加料金なしでお読みいただけます。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。