マチアプ夫の処刑日~待ち合わせに現れたのは、妻だった~ 作:桐山さくらこ
数日後。自宅の玄関で、ほっとした顔の拓也が、湊を抱いた彩乃を迎えていた。足元には湊のバッグがあった。
「おかえり」
「……ただいま」
「荷物、持つよ」
「拓也」
拓也が彩乃を見ていた。
「帰ってきたけど、平気になったわけじゃないからね」
玄関の床も、棚のパンフレットも、出ていった日から変わっていなかった。彩乃は、荷物を置く前に伝えた。戻ったことだけで、傷ついた日のことまで終わったと思ってほしくなかった。ここから暮らせるかを、もう一度確かめるために帰ってきた。拓也の顔から、笑みが消えていた。
「うん。わかってる」
「もう、嘘はつかないで」
「うん」
彩乃が、拓也の顔を見つめていた。
「……お願い」
*
家に戻って、数日後。夕方の居間で、風呂上がりの湊が、パジャマ姿でベビー布団に寝ていた。そばに座った拓也が、うちわで湊を扇いでいた。
「そんなに一生懸命、扇がなくても」
「え、強い?」
「うん。もう少し、ゆっくりでいいよ」
拓也が、うちわをゆっくり動かしていた。
「これくらい?」
「うん」
「どうだ、湊。涼しいか?」
湊が、うちわを見て笑っていた。
「あ、笑った」
「うちわ、見てるね」
拓也が、うちわの陰から湊の顔をのぞいていた。
「パパもいるんだけどなあ」
「ふふ」
笑う湊を見ながら、拓也がうちわを動かしていた。隣に座る彩乃の口元にも、小さな笑みがあった。夜の台所。彩乃のスマートフォンに、里奈との会話が開いていた。アイコンは里奈の顔。彩乃からのメッセージには、こう書かれていた。
〈この前は夫のこと、聞いてくれてありがとう。家に戻ったよ〉
里奈からのメッセージには、こう書かれていた。
〈そっか。今、ちゃんと眠れてる?〉
彩乃からのメッセージには、こう書かれていた。
〈うん。前よりは〉
里奈からのメッセージには、こう書かれていた。
〈また話したくなったら連絡して〉
彩乃からのメッセージには、こう書かれていた。
〈ありがとう〉
リビングの入口に、拓也が立っていた。
「寝たよ」
「ありがとう。私、洗い物だけ……」
「それ、あとで俺がやるよ。ちょっと、座らない?」
テーブルに、プリンが二つある。
「これ、駅前の?」
「うん。彩乃が好きなやつ」
「……買ってきてくれたの?」
「帰りに、まだ開いてたから」
彩乃がスプーンを手に取っていた。
「いただきます」
一口食べた彩乃が、目を細めていた。
「おいしい」
「よかった」
彩乃の視線が、寝室のドアへ向いていた。
「泣いたら、俺が行くよ」
「……うん」
「最近、何か観た?」
「予告編ぐらい。一本観ようと思うと、なかなか」
「何の予告?」
「犬が出てくるやつ。前に話した……」
「ああ。最後、いなくなるんじゃないかって、彩乃が心配してた」
「だって、あの音楽だよ? 不安になるじゃない」
「犬、めちゃくちゃ元気に走ってたけど」
「元気だと、余計に怖いの」
「じゃあ、俺が先に観て、生きてるか報告する?」
「それだけ先に知るのも、何か違うんだよね」
二人が笑っていた。彩乃のスプーンが、口元の手前で止まっていた。……笑っちゃった。
「彩乃?」
「ううん。何でもない」
彩乃が、もう一口プリンを食べていた。
*
後日。公園で、拓也が湊を抱き、彩乃がスマートフォンを高く持っていた。
「もうちょっと、こっち」
「俺?」
「うん。湊の顔も、ちゃんと入れたくて」
画面の端で、拓也の頭が半分切れていた。
「俺、半分しかいないけど」
「あ。本当だ」
拓也が、画面の自分を見て笑っていた。
「湊を優先しすぎだろ」
そんな言い方に、今は笑えた。画面の中に、三人が収まる。あとで湊が大きくなったら、撮るのに苦労したんだよと話せるだろうか。彩乃は写真を保存し、もう一度眺めた。この日を、楽しかった日のまま残したかった。
「違うって。手が短いんだよ」
拓也が、彩乃の肩に顔を寄せていた。
「これなら?」
「うん。ちょっと、そのまま」
三人が収まった画面で、湊が彩乃の方へ手を伸ばしていた。
「湊、こっち見て」
「撮れた?」
「うん。……いい顔してる」
「俺も?」
「はいはい。拓也も」
二人は写真をのぞき込んで笑った。拓也の腕の中で、湊がスマートフォンへ手を伸ばしていた。
*
翌日。自宅の棚で、彩乃が、三人の写真を入れた小さな額を置いていた。
「それ、印刷したんだ」
「うん。飾りたくて」
「俺にも送って」
「送ったよ。昨日」
「あ、そうだった」
彩乃が、額の傾きを直していた。また、増やしていけるかな。こういう写真。
*
家に戻ってから、数か月。夜の自宅。時計は午後十一時を回っていた。拓也が上着を脱いでいた。
「おかえり」
「ただいま。疲れた」
「電話、したんだけど」
「客先にいて、出られなかった」
「そっか。今日、誰と……」
拓也が、眉を寄せて彩乃を振り返っていた。
「まだ疑ってるの?」
「……聞いただけだよ」
「仕事だって。もう、ああいうことはしてない」
「うん……でも、遅かったから、心配で」
「帰ってきてまで、毎回こういう話?」
彩乃が、湊の眠る寝室を気にしていた。
「……ご飯、温めるね」
拓也がソファに座り、目を閉じていた。責めたいわけじゃ、ないんだけどな。
*
翌日。電車で、拓也がスマートフォンを見ていた。
仕事用の会話画面に、昨夜の訪問先から「遅くまでありがとうございました」と届いていた。
昨日だって、本当に仕事だっただろ。拓也が、眉を寄せて画面を閉じていた。いつまで疑われるんだよ。ホーム画面を見たまま、拓也の指が止まっていた。拓也の脳裏に、絵里とやり取りしていたアプリの画面がよぎった。絵里からのメッセージには、こう書かれていた。
〈もう少し話してたいな〉
その横に、笑顔の絵里のアイコンがあった。
現在の電車で、拓也が、スマートフォンを持ち直していた。
アプリのストア画面で、かつて使っていたマッチングアプリに「再インストール」と表示されていた。
拓也が、見慣れたアイコンを見つめていた。……今、どんな人がいるんだろう。
拓也の指が、「再インストール」の手前で止まっていた。
戻ってきた日の彩乃のまなざしが、思い浮かんだ。
「もう、嘘はつかないで」
「……お願い」
現在の電車で、拓也の指が、画面から離れていた。……駄目だろ。拓也が、唇を結んでいた。また、あんなことになったら……スマートフォンの画面が消えていた。拓也はそれを膝に置き、窓の外を見ていた。窓に拓也の顔が映った。視線が、膝の上のスマートフォンへ落ちていた。……会うわけじゃない。拓也の手が、スマートフォンに掛かっていた。誰かと話すくらいなら……画面が明るくなり、先ほどのアプリのページが表示されていた。拓也は、その画面を見つめていた。
……見るだけ。今日は、見るだけにしよう。
拓也の指が、「再インストール」に触れていた。
ダウンロードの進行を示す円が、半分ほど埋まっていた。拓也は、画面を見たまま待っていた。
表示が「開く」に変わっていた。
そのボタンに、拓也の指が触れていた。アプリの画面に、女性たちのプロフィール写真が並んでいた。拓也の指が、一人の写真の上で止まっていた。写真を見つめる拓也の口元が、わずかに緩んでいた。
*
別の日の夜。夜の寝室で、彩乃と湊は眠っていた。リビングで、拓也がアプリのプロフィール編集画面を開いていた。
古い顔写真の横に「写真を変更」と表示されていた。
拓也が、公園で撮った三人の写真を選んでいた。これ、よく撮れてるな。写真を切り抜く枠の中には、拓也の顔だけがあった。枠の外に、彩乃と湊が写っていた。
保存されたプロフィールには、「独身」「真剣にお付き合いできる方を探しています」と書かれていた。
拓也が、自分の写真の写りを確かめていた。
*
職場に戻る日が、近づいてきた頃。
彩乃の前に「入所承諾通知書」があった。「水野湊」「4月1日入所」と印字されていた。
彩乃が、母と電話をしていた。
「うん。坂の上の保育園に決まったよ」
「よかったね。あそこなら、うちからも行けるよ」
「最初、早く帰る日が続くんだって。仕事始まってから大丈夫かな」
実家の恵子が、電話を耳に当ててカレンダーを見ていた。
「私も仕事の曜日、確認してみるね」
「ありがとう」
電話を終えた彩乃のスマートフォンに、里奈からのメッセージが届いていた。里奈からのメッセージには、こう書かれていた。
〈今週、少し会える? 話したいことがある〉
彩乃からのメッセージには、こう書かれていた。
〈湊も一緒でよければ。仕事の話?〉
里奈からのメッセージには、こう書かれていた。
〈ううん。直接、話したくて〉
彩乃が、スマートフォンを見つめていた。
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