マチアプ夫の処刑日~待ち合わせに現れたのは、妻だった~ 作:桐山さくらこ
後日。実家の居間で、彩乃の前に、アプリの画面が開いたスマートフォンがあった。恵子が画面を見ていた。
「また、やってたの?」
「うん」
「……あんなに、もうしないって」
彩乃がうなずいていた。
「このナツっていうのが、彩乃なの?」
「そう。金曜に、この人に会うつもりで来るから」
「そこへ行くの?」
「うん」
恵子が、スマートフォンをテーブルに置いていた。
「一人で行って、大丈夫?」
「お店だし。私が来たら、何て言うか……聞きたい」
恵子が、彩乃の顔をしばらく見ていた。
「湊は、私が見てるから」
「ありがとう」
「帰り、遅くなったら泊まりなさい。湊も寝ちゃうだろうし」
「……うん」
*
約束の金曜日。朝の洗面台の前で、拓也が髪を整えていた。彩乃が廊下から、その横顔を見ていた。鏡越しに、拓也と彩乃の目が合っていた。
「ドライヤー、使う?」
「ううん」
「じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
玄関のドアが閉まっていた。私と初めて会った日も、こんなふうに支度してたのかな。夕方の実家で、彩乃が湊を恵子へ抱き渡していた。
「着替え、こっち。おむつは横のポケット」
「うん。大丈夫、わかってるよ」
湊が彩乃へ手を伸ばしていた。彩乃が、その小さな手に指を添えていた。
「……行ってくるね」
「彩乃。終わったら、連絡ちょうだいね」
「うん」
会社の建物の外で、拓也がスマートフォンを見ていた。時刻は「18:12」。
拓也からのメッセージには、こう書かれていた。
〈仕事、少し早く終わりました。先にお店に入ってますね〉
電車の中で、彩乃の手元に、そのメッセージが届いていた。彩乃は窓に映る自分の顔を見ていた。イタリアン・アトリの窓際で、拓也が二人掛けの席に座っていた。スマートフォンには、里奈の写真を使ったナツのプロフィール。何から話そうかな。拓也が、口元を緩めてメニューを開いていた。映画の話ばっかりでも、な。空いていた向かいの席に、グラスが一つ置かれていた。拓也が、窓に映る自分の髪を確かめていた。店の入口で、彩乃が、奥の席にいる拓也を見つめていた。……楽しそう。
彩乃の手が、バッグの持ち手を握っていた。イタリアン・アトリの窓際で、メニューを開いていた拓也が、顔を上げていた。向かいの席の横に、彩乃が立っていた。
「……彩乃?」
拓也の口元から、笑みが消えていた。彩乃はバッグの持ち手を握ったまま、拓也を見ていた。
「……ここ、来てみたかったんだ」
「何で、ここに……。誰かと来たの?」
「一人だよ」
彩乃が、向かいの椅子に座っていた。
「いや、そこ……」
拓也の視線が、店の入口へ向いていた。
「今、人と待ち合わせてて」
彩乃は答えず、バッグからスマートフォンを取り出していた。彩乃が、短いメッセージを打ち込み、送信していた。ナツからのメッセージには、こう書かれていた。
〈着きました〉
拓也のスマートフォンに、ナツからの通知が出ていた。画面を見た拓也が、入口へ顔を向けていた。
「拓也」
彩乃が、スマートフォンの画面を拓也へ向けていた。
画面には、拓也からの「仕事、少し早く終わりました。先にお店に入ってますね」と、ナツからの「着きました」が並んでいた。
拓也が、彩乃の画面を見つめていた。
「……え?」
拓也の視線が、自分のスマートフォンへ落ちていた。同じ二通のメッセージが、二台の画面に並んだ。
「ナツって……お前?」
「うん」
拓也が、ナツのプロフィールを開いていた。画面には、里奈の顔写真があった。
「でも、この写真……」
「友達に、借りたの」
拓也が、彩乃の顔を見ていた。
「じゃあ、やり取りしてたのは……」
「私。最初から」
拓也の手元に、ナツとの会話が開いていた。拓也からのメッセージには、こう書かれていた。
〈ナツさんとは、話してると時間を忘れます〉
拓也が、唇を結んでいた。耳が赤くなっていた。スマートフォンを伏せた拓也が、彩乃を見ていた。
「……ずっと、騙してたんだ」
彩乃は、膝の上で両手を重ねていた。
「俺が何も知らないで、送ってたの見て……」
拓也の眉が寄っていた。
「面白かった?」
彩乃が、目を見開いていた。
「……何で、そんなこと言うの」
「だって、そうだろ。こんなことしなくても、聞けばよかったじゃん」
「聞いたよ」
拓也の口が、わずかに開いていた。
「金曜、本当に仕事なのって」
拓也の視線が、彩乃から外れていた。
「嘘はついてないって、言ったよね」
「……あれは」
「心配させないように、前もって言ってるんだって……」
彩乃が、膝の上で両手を強く握り合わせていた。
「何で私が、責められなきゃいけないの」
拓也が、うつむいていた。彩乃は唇を結び、拓也を見ていた。
「……アプリ、また使ったのは悪かったよ」
彩乃は返事をしない。
「でも、話してただけなんだ。映画の話とか。お前も、わかってるだろ」
彩乃の眉が、苦しそうに寄っていた。
「……映画の話なら、私、家でもしたよ」
自宅で話しかけた声も、送信した文字も、彩乃のものだった。知らない女性だと思ったときだけ、拓也は続きを聞きたがった。画面を挟まないと届かないのなら、同じ部屋にいた時間は何だったのだろう。拓也が、顔を上げていた。
「『星の帰り道』の続き。出るんだって、見せようとしたでしょ」
拓也の手が、伏せたスマートフォンに掛かっていた。
「疲れてるから、あとでって」
「……うん」
「そのあと、ナツには自分から送ってきたよね」
拓也が、伏せたスマートフォンを見ていた。
「私の話、聞こえてたんだね」
「……ごめん」
彩乃が、自分のスマートフォンへ目を落としていた。
画面には、ナツに向けた拓也の「楽しみにしてます」というメッセージがあった。
彩乃の目に、涙がたまっていた。
「……返事が来ると、うれしかったんだよ」
怒りだけを伝えられたら、涙をこらえるのも簡単だったかもしれない。それでも、ここを黙ったまま終えたくなかった。うれしかった。だから余計に、家でもそうしてほしかった。彩乃は、恥ずかしさと悲しさを一緒に言葉へ押し出した。拓也が、彩乃を見ていた。
「私が送ったこと、ちゃんと読んでくれて。前みたいに……」
彩乃が、目元を指で拭っていた。
「浮気しようとしてるって、わかってるのにね」
「彩乃……」
「家でも、そうやって話してほしかった」
拓也の手が、テーブルの上で彩乃の方へ伸びていた。彩乃はスマートフォンを膝へ下ろし、画面を消していた。
「……ごめん。今日、ちゃんと話そう」
彩乃が、拓也を見ていた。
「湊は、お義母さんのところ?」
「うん」
拓也が、閉じていたメニューを彩乃の方へ向けていた。
「じゃあ、二人で食べようよ。ここ、来たかったんだろ」
彩乃は、差し出されたメニューを見ていた。手は、膝の上に置かれたままになっていた。
「……私と来るつもりじゃ、なかったでしょ」
拓也の手が止まっていた。
「それは……でも、来たのはお前じゃん」
待っていた相手が妻だったから、それまでの言葉まで変わるわけではない。今ここでメニューを開けば、来たかった店で二人で食べた夜にできるのだろうか。彩乃には、そうして帰ったあとの食卓を思い描けなかった。彩乃が、顔を上げていた。
「……だから?」
「誰とも会ってないんだよ。今回は、浮気したわけじゃないだろ」
彩乃の唇が、わずかに開いていた。
「……私だったから?」
「そうだよ。ずっとお前と話してたんだから」
拓也が、彩乃の顔をのぞき込み、ぎこちなく笑っていた。
「前のときとは、違うだろ?」
彩乃は、拓也を見つめたまま動かない。拓也の口元にあった笑みが、消えていた。
「……相手が、私じゃなかったら?」
「いや……ご飯を食べるだけだって」
彩乃が、目を伏せていた。
「何かするなんて、言ってないだろ」
彩乃は、返事をしない。拓也が、自分のスマートフォンを持っていた。
「もう使わないから。ここで消すよ」
彩乃の手が、バッグの持ち手に掛かっていた。
「彩乃。見てて」
「……もう、いい」
彩乃が、椅子の横に立っていた。拓也が、スマートフォンを持ったまま彩乃を見上げていた。
「待って。どこ行くの」
「湊のところ」
「じゃあ、俺も……」
「お母さんの家に、そのまま泊まるから」
拓也が、椅子から腰を浮かせていた。
「……また、家、出るの?」
彩乃が、バッグを肩に掛けていた。
「今夜は、一緒にいられない」
「ごめん。悪かった。ちゃんと話すから」
彩乃の目から、涙が落ちていた。
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