マチアプ夫の処刑日~待ち合わせに現れたのは、妻だった~ 作:桐山さくらこ
「……今日は、もう無理」
彩乃が、拓也に背を向けていた。
「彩乃」
彩乃は振り返らず、店の出口へ歩いていた。二人分のグラスと、開いたメニュー。拓也が、その席に一人で立っていた。実家の玄関で、恵子に抱かれた湊が、彩乃へ手を伸ばしていた。
「おかえり。湊、まだ起きてたよ」
「……ただいま」
彩乃が湊を抱いていた。湊の頬に、自分の頬を寄せていた。恵子が、彩乃の顔を見ていた。
「彩乃……」
「全部、私だってわかって」
彩乃の声が途切れていた。
「だったら、浮気してないじゃんって」
恵子が唇を結んでいた。
「私だったから、よかったって……」
彩乃の頬から涙が落ちていた。
「何しに行ったんだろう。私」
恵子が、湊ごと彩乃の肩を抱いていた。彩乃は目を閉じ、泣いていた。実家の布団で、湊が眠っていた。彩乃が、目元にハンカチを当てていた。彩乃からのメッセージには、こう書かれていた。
〈お母さんの家に着いた。あとで電話してもいい?〉
里奈からのメッセージには、こう書かれていた。
〈うん。待ってる〉
深夜の自宅で、拓也が玄関に立っていた。廊下もリビングも暗い。
「……ただいま」
食卓の上に、湊の小さなスプーンが一本ある。拓也が上着を椅子に掛け、スマートフォンを見ていた。拓也からのメッセージには、こう書かれていた。
〈着いた? 今日は、本当にごめん〉
画面に「既読」が付いていた。返事はない。
……怒ってるよな。彩乃との会話画面に、アプリのないホーム画面の画像が送られていた。拓也からのメッセージには、こう書かれていた。
〈アプリは消した。もう二度と使わないから〉
拓也はスマートフォンをテーブルに置き、その前に座っていた。
*
翌朝。実家の居間で、湊のそばで、彩乃が着替えを畳んでいた。スマートフォンの画面に、拓也からの通知。拓也からのメッセージには、こう書かれていた。
〈眠れた? 湊は元気?〉
彩乃が、眉を寄せて画面を見ていた。
「……何で、普通に聞けるんだろ」
恵子が、彩乃へ顔を向けていた。
「眠れた、って……」
彩乃が、スマートフォンを伏せていた。
「今は、返さなくていいよ」
彩乃は、畳みかけの服を膝に置いていた。
「……私ね。あの人から返事が来るの、楽しみにしてたんだよ」
母の前では、証拠を順番に説明しなくてもよかった。どの言葉がうれしくて、どの言葉が痛かったかを、途切れながら話せた。湊はそばで眠っている。恵子が急がせずに聞く間、彩乃はようやく肩から力を抜いた。恵子が、彩乃の隣に座っていた。
「アプリで。相手が私だって知らないから……あんなに優しくて」
彩乃の口元が、苦しそうにゆがんでいた。
「来たら、すぐ読んじゃって。次、何を話そうかなって」
「……うん」
「何やってたんだろう、私……」
彩乃が、膝の上の服へ顔を伏せていた。
「浮気しようとしてるって、わかってたのに。私、何で……」
恵子が、彩乃の背中に手を添えていた。彩乃の肩が震えていた。自宅の食卓で、拓也が、スマートフォンを見ていた。昨夜送った、アプリのないホーム画面の画像。
その下の「眠れた? 湊は元気?」に、返信はない。
拓也が、画像を開いていた。これ、見てないのかな……会話画面へ戻った拓也が、メッセージを打っていた。拓也からのメッセージには、こう書かれていた。
〈会って謝りたい。少しだけでも話せないかな〉
スマートフォンを置いた拓也が、向かいの空いた椅子を見ていた。テーブルの上の画面は、明るいままになっていた。
*
数日後。昼の実家で、テーブルに、保育園の案内と彩乃の手帳があった。恵子が湊を膝に座らせていた。
「お母さん。しばらく、湊とここに住ませてもらってもいい?」
「もちろん。いていいんだよ」
彩乃が、手帳の端を押さえていた。
「……もう、戻りたくない」
恵子が、彩乃の顔を見ていた。
「うん」
彩乃が、手帳を恵子の方へ向けていた。
「仕事復帰」「10時〜16時」と書かれていた。
「仕事が始まったら、普段のお迎えは私が行けると思うんだけど」
「私も曜日、確認したよ。火曜と木曜以外なら、迎えに行ける」
「本当?」
「うん。遅くなりそうな日は、連絡して」
「……ありがとう」
手帳の隣に、家計のメモがあった。
「復帰後の手取り見込み」「保育料」「おむつ・食事」「実家に入れる生活費」と、項目を書き出してあった。
彩乃が、電卓の数字を見ていた。
「家にこれだけ入れたら……ほとんど残らないね」
恵子が、メモをのぞき込んでいた。
「最初から、そんなに入れなくていいよ」
「でも、湊の分もあるし」
「うん。だから、食費から一緒に見てみよう。今、何にいくらかかってるか」
恵子の前に、家計簿が開かれていた。彩乃が、自分のメモに数字を書き込んでいた。
「……しばらく、助けてもらうことになるね」
「頼っていいんだよ」
彩乃がペンを置き、母を見ていた。
「うん。……ありがとう」
恵子の膝で、湊が手を伸ばしていた。彩乃が、その小さな手を握っていた。
「私……離婚する」
保育料や生活費は、考えたくないから消しておける数字ではなかった。手帳に書いて、母と相談し、仕事に戻る見通しを確かめた。不安がなくなったわけではない。それでも、何を準備すればいいかが見え始めていた。恵子は彩乃を見つめ、小さくうなずいていた。
*
その夜。自宅のソファで、拓也が、スマートフォンを手にしていた。彩乃との会話には、自分から送ったメッセージだけが並んでいた。拓也からのメッセージには、こう書かれていた。
〈電話だけでもできないかな〉
拓也からのメッセージには、こう書かれていた。
〈ちゃんと謝りたい〉
拓也が画面を消し、ソファの隣へスマートフォンを置いていた。拓也が、スマートフォンを持ち上げていた。彩乃からのメッセージには、こう書かれていた。
〈日曜に、私と湊の服を取りに行く。離婚の話もしたい〉
拓也の指が止まっていた。
「離婚の話もしたい」という文面。
「……離婚?」
拓也が、スマートフォンを耳に当てていた。実家で、彩乃のスマートフォンに着信があった。拓也の顔のアイコンが表示された。彩乃は、それを見つめていた。
「拓也さん?」
「うん」
彩乃が、鳴っていたスマートフォンを伏せていた。
「……電話では、話したくない」
恵子は、彩乃のそばに座っていた。自宅で、拓也が、耳からスマートフォンを離していた。画面には、彩乃からのメッセージがあった。
拓也の入力欄に「離婚はしたくない」と打たれていた。
拓也が、唇をかんでいた。入力欄の文字が消えていた。拓也からのメッセージには、こう書かれていた。
〈わかった。日曜、待ってる〉
拓也が、両手でスマートフォンを持っていた。……会って、ちゃんと謝れば。
*
日曜日。昼の実家の玄関で、彩乃が、大きなバッグを持っていた。恵子は湊を抱いて、そばに立っていた。
「湊は見てるからね」
「……うん」
彩乃の手が、バッグの持ち手を握っていた。
「彩乃……」
「大丈夫。……行ってくる」
自宅の玄関で、拓也がドアを開けていた。
「……来てくれて、ありがとう」
彩乃が、小さくうなずいていた。拓也は体を脇へ寄せ、彩乃を通していた。食卓で、二人は向かい合って座った。
「彩乃。あの店で、ひどいこと言った。ごめん」
彩乃は、膝に置いた両手を見ていた。
「俺、焦って……お前に、あんな言い方して」
「……うん」
拓也の顔が、少し明るくなっていた。
「帰りが遅くなるときは、必ず連絡する。家のことも、もっとやるから」
彩乃が、眉を寄せて顔を上げていた。拓也が、自分のスマートフォンをテーブルに置いていた。
「これも、いつでも見ていい。隠さないから」
ロックを解除した画面が、彩乃へ向けられていた。彩乃の手が、スマートフォンを拓也の方へ押し返していた。
「……もう、見たくない」
「いや、だから、何も隠してないって……」
「また、私が調べるの?」
拓也の口が止まっていた。
「誰と話してるのか、嘘じゃないかって?」
彩乃が、画面から目をそらしていた。
「……もう、あんなことしたくない!」
拓也が、スマートフォンを自分の前へ戻していた。
「わかった。そんなこと、させないから」
彩乃は、拓也を見ていた。
「もう一回だけ、信じてほしい」
彩乃の眉が、強く寄っていた。
「もう一回って……私、一度、帰ってきたよね」
拓也が、唇を結んでいた。
「今度は大丈夫だって。そう思おうとしたんだよ」
「……うん」
「帰ってきてよかったって、思ったこともあったのに……」
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