マチアプ夫の処刑日~待ち合わせに現れたのは、妻だった~ 作:桐山さくらこ
彩乃の目に涙がたまっていた。拓也は顔を上げかけ、また目を伏せていた。
「……湊と、離れたくない」
彩乃が、拓也を見ていた。
「まだ、あんなに小さいんだよ。三人でいた方が、湊にも……」
「私も、そう思って戻ったんだよ!」
彩乃が、涙のたまった目で拓也をにらんでいた。拓也の言葉が止まっていた。
「湊のこと、考えなかったわけじゃない」
彩乃が、手の甲で目元を拭いていた。
「でも、お金はどうするの……?」
「仕事、時短にするんだろ」
「うん。しばらく、お母さんのところにいさせてもらう」
「お義母さんだって、仕事あるじゃん」
「お迎えの曜日も、お金のことも、相談したよ」
拓也が、彩乃を見つめていた。
「……もう、そこまで話したの?」
「うん。仕事には、実家から通う」
拓也が、椅子の背にもたれていた。テーブルの上には、押し返されたスマートフォンがあった。
「……じゃあ、俺、何したらいいんだよ?」
彩乃は、膝の上で手を握っていた。
「何を変えたら……」
「もう、あなたと暮らしたくない!」
湊を大切に思うことと、拓也と暮らし続けることを、彩乃は何度も一緒に考えてきた。簡単に捨てて出てきたのではない。一度は戻った。その先も考えた。そうした時間ごと、今の言葉を受け止めてほしかった。拓也が、口を開いたまま彩乃を見ていた。彩乃の頬に、涙が伝っていた。
「……もう、無理なの」
拓也が、テーブルに両手をついていた。
「俺は、別れたくない」
彩乃が首を横に振っていた。
「彩乃」
「お願い。離婚の話を、させて」
拓也の視線が、テーブルへ落ちていた。彩乃がハンカチを目元に当てていた。二人の間に置かれたスマートフォンの画面が、暗くなっていた。
「彩乃……」
寝室で、彩乃が、仕事用の服をバッグに入れていた。拓也は、入口に立っていた。
「残りは、また日を決めて取りに来るね」
「……」
拓也が、うつむいていた。
「わかった……」
湊の引き出しから取り出した服が、バッグの中に重ねられていた。
リビングで、棚の前に立つ彩乃の手に、『星の帰り道』のパンフレットがあった。
同じ表紙のもう一冊が、棚に残っていた。拓也が、彩乃の手元を見ていた。彩乃はパンフレットをバッグへ入れ、ファスナーを閉じていた。玄関で、彩乃が靴を履き、バッグを肩に掛けていた。
「彩乃……!」
彩乃が、振り返っていた。拓也の口が動きかけ、そのまま閉じていた。彩乃がドアに手を掛けていた。閉まった玄関のドア。拓也が一人で立っていた。
*
後日。
法律事務所の相談室で、テーブルに「弁護士 白井千尋」の名刺があった。
彩乃の前に、最初の不倫の通知書と写真、アプリのやり取りの記録が置かれていた。
「最初のときは、やり直すつもりでした。でも、もう……」
「離婚するお気持ちは、固まっているんですね」
「はい。湊との生活のことも、きちんと決めたいです」
白井が項目を確かめる間、彩乃は湊の明日を思い浮かべた。朝に送る場所、迎えに行く時間、帰ってから食べるもの。夫婦の話を終えるための書類は、その毎日を続けるためにも必要だった。一つずつ、わからないことを尋ねた。白井が、彩乃の差し出した家計のメモを見ていた。
「では、必要な費用や希望を整理して、ご主人に伝えましょう」
「お願いします」
*
仕事復帰の日。朝の実家の玄関で、彩乃の肩に、保育園の荷物を入れたバッグがあった。
「忘れ物、ない?」
「着替えも、タオルも……あ、私の定期」
恵子が、彩乃の鞄を指していた。
「横のポケットは?」
彩乃の手に、定期券があった。
「あった。ありがとう」
恵子が笑っていた。彩乃の口元も、少し緩んでいた。
「じゃあ、行ってくるね」
湊を抱いた彩乃が、玄関に立っていた。会社のオフィスで、彩乃が、社員証を首から下げていた。上司の佐伯と里奈が、彩乃を迎えていた。
「今日から、またよろしくお願いします」
「おかえり。少しずつ思い出していこうね」
里奈が、隣の椅子を引いていた。
「ここ。空けてあるよ」
「ありがとう」
席に座った彩乃が、鞄から手帳とペンを出していた。
*
何度か、話し合いを重ねて。
法律事務所の相談室で、彩乃と拓也の前に「離婚協議書」があった。
「慰謝料 二百万円」「財産分与 百万円」「養育費」「親子交流」の項目。
「慰謝料と財産分与、合わせて三百万円は今月末まで。養育費は、来月から毎月末のお振り込みですね」
「……はい」
「彩乃さんも、この内容でよろしいですか」
「はい」
書類の署名欄に「水野彩乃」とある。
拓也が、空いた自分の署名欄を見ていた。ペンを持つ拓也の手が、書類の上で止まっていた。彩乃は、膝の上で鞄の持ち手を握っていた。拓也が、うつむいたまま署名をしていた。
「水野拓也」と書かれた署名欄。
彩乃が、小さく息を吐いていた。鞄の持ち手を握っていた指から、力が抜けていた。拓也が、その手元を見ていた。
*
後日。
役所の窓口で、彩乃が「離婚届」を差し出していた。
建物の外で、彩乃が、スマートフォンを持っていた。彩乃からのメッセージには、こう書かれていた。
〈今、届けを出してきたよ〉
里奈からのメッセージには、こう書かれていた。
〈お疲れさま。今日は何か好きなもの食べてね〉
彩乃が、目元を指でぬぐっていた。彩乃からのメッセージには、こう書かれていた。
〈うん。ありがとう〉
*
その月の末。
夜の拓也の部屋。スマートフォンに「振込受付完了」と表示されていた。
画面には、「振込金額 3,000,000円」「振込先 ミズノ アヤノ」と表示されていた。
テーブルには、離婚協議書の控えがあった。
「慰謝料 二百万円」「財産分与 百万円」と記されていた。
拓也がスマートフォンを置き、向かいの空いた椅子を見ていた。
*
翌日。実家で、彩乃が、スマートフォンで開いた銀行の入出金明細と、離婚協議書を見比べていた。
画面には、「振込入金 3,000,000円 ミズノ タクヤ」と表示されていた。
協議書の条件と入金を見比べ、彩乃はゆっくり息を吐いた。家を決める前に確認しておきたかった数字だった。これで何でもできるわけではない。初めに払う費用と、これから残しておく分を分けて考える。その作業は、もう自分たちの暮らしのためだった。
「振り込まれた?」
「うん。慰謝料も、貯金を分けた分も」
テーブルの端に、新居の「賃貸契約 初期費用明細書」があった。
「これで、部屋の契約のお金を払える」
恵子が、明細書の横の部屋の写真を見ていた。
「ここなら、私も歩いて行けるね」
「うん。近くて、よかった」
*
引っ越しの日。小さな新居で、彩乃と恵子が、段ボールを開けていた。湊が、畳んだタオルを一枚抱えていた。
「あ。それ、さっきしまったやつ」
湊のそばには、広がったタオルが二枚ある。
「あら、忙しいねえ」
彩乃が、湊を見て笑っていた。
「もう、あとで一緒にしまおうか」
棚に、湊の絵本が並んでいた。
その上に、彩乃の本と『星の帰り道』のパンフレットが一冊ある。
彩乃が、一歩下がって棚を見ていた。
「ちょうど収まったね」
「うん」
彩乃の口元に、笑みがあった。
*
夏。映画を観に行く日。実家の玄関の鏡で、彩乃が髪を整えていた。恵子が湊を抱いて、そばに立っていた。
「久しぶりに、その服見たね」
「うん。久しぶりに着たくなって」
彩乃が鏡の前で、襟元を整えていた。
「楽しんでおいで」
「ありがとう。湊、お願いね」
母に任せて出かける時間も、これからの暮らしの中にあっていい。帰ったら湊に会える。楽しかったことを話せる。彩乃は鏡をもう一度見て、襟元から手を離した。今日の映画の感想は、今日、一緒に観る人と話せるのだ。彩乃が、湊に笑いかけていた。
「行ってきます」
映画館のロビーで、里奈が、二枚のチケットを持っていた。
「取っておいたよ。真ん中の席」
「ありがとう!」
「昨日、前のやつ見返してきたよ」
「私も! 途中でやめようと思ってたのに、最後まで観ちゃった」
「わかる。私も、寝るの遅くなった」
二人が笑っていた。
彩乃が、『星の帰り道 2』のポスターを見ていた。
「ねえ、予告のノア、前と同じ傷があったんだよ」
「え、本当? どこ?」
彩乃が、ポスターのノアの腕を指していた。
「ここ。右の腕」
里奈が、ポスターをのぞき込んでいた。
「あ、本当だ! 気づかなかった」
「やっぱり、あのノアだよね」
「うん。ちゃんと続いてるんだね」
彩乃が、うれしそうにポスターを見ていた。
「早く観たいね」
「ね」
ロビーのモニターに「『星の帰り道 2』開場」と表示されていた。
「入れるって。行こうか」
「うん!」
チケットを手にした彩乃が、里奈と並んで上映室へ向かっていた。二人とも、笑顔になっていた。
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