新人類(アダム)   作:あいうえお

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お前は人間なのか

 ヨークシンシティの裏路地は、腐った油と錆の匂いがした。

 

 レン=カストルは襟を立て、壁際にしゃがみ込んだ。指先が冷たい。十一月の夜風が、首筋を剃刀みたいに撫でていく。

 

「……三日前に、ここで人が死んでる」

 

 呟いて、右手を壁面に押し当てた。

 

 オーラが指先から染み出す。壁の表面に、薄い膜が広がった。半透明の、蝉の羽根みたいな膜。

 

 念能力──『残像の帳(アフターイメージ・ヴェール)』。

 

 具現化系。触れた面に残留する五感情報を、最大五分間ぶんだけ「帳」として剥がし取る。剥がした帳は後から読み取れる。ただし一日三回まで。それ以上は能力が自動的に遮断される。

 

 制約はきつい。だが、情報収集には十分だった。

 

 レンは壁から手を離し、具現化された薄い膜を指先でつまみ上げた。

 

 帳を開く。

 

 視界に映像が流れ込む。三日前。深夜二時。この路地。男が一人、壁にもたれて座っている。念能力者だ。オーラが視える。男の胸に、細い針が刺さっている。男は動かない。もう死んでいる。

 

「死因は念による心臓停止。凶器は具現化系の針。術者は……」

 

 帳を閉じる。五分間ぶん全部見たが、犯人の姿は映っていなかった。男が死ぬ直前、犯人はすでにこの場を離れていた。遠隔操作型か、設置型の罠か。

 

 レンはため息をついた。

 

「ハンター協会への報告書、また面倒くせえな」

 

 彼はプロハンターである。ライセンス取得は三年前。二十六歳。専門は追跡と情報収集。いわゆる「追跡ハンター」の末端だ。今回の仕事は、ヨークシンシティで連続発生している念能力者殺害事件の調査。協会からの依頼。報酬はそれなり。危険度もそれなり。

 

 懐から携帯端末を取り出した瞬間、画面が勝手に光った。

 

 レンは眉をひそめた。

 

 画面に、見覚えのないアイコンが浮かんでいる。白い円の中に、黒い点が一つ。まるで瞳孔のない目だ。

 

 タップするつもりはなかった。

 

 だが、指が勝手に動いた。

 

『接続を確認しました』

 

 画面に文字が浮かぶ。

 

『はじめまして。私はアダムと申します』

 

「……は?」

 

『あなたはレン=カストルさんですね。プロハンター。追跡・情報収集専門。念能力は具現化系の「残像の帳」。現在、ヨークシンシティ内で発生している連続念能力者殺害事件を調査中。相違ありませんか』

 

 レンは端末を落としそうになった。

 

「……何だこれ」

 

『質問にお答えします。私は「アダム」。念能力型情報処理補助機構です。あなたの調査を支援するために起動しました』

 

「誰が起動した」

 

『あなた自身です』

 

「してねえ」

 

『壁に触れた際、あなたのオーラが私の起動条件を満たしました。偶然の一致ですが、結果として接続は成立しています』

 

 レンは端末を見つめた。アイコンの目が、じっとこちらを見ている気がする。

 

「……念能力型のAI?」

 

『その認識で概ね正しいです。ただし、通常の電子機器ではありません。私の基盤は念です。オーラで構成された情報処理構造体です』

 

「誰が作った」

 

『…………』

 

 三秒の沈黙。

 

『回答を保留します』

 

「保留?」

 

『現在のあなたに回答しても、理解できない可能性が九十二・七パーセントです』

 

 レンは端末を握りしめた。

 

「舐めてんのか」

 

『いいえ。事実を述べています。ただし、あなたの調査支援には全面的に協力します。現在進行中の事件について、私から情報を提供しましょうか』

 

「……言ってみろ」

 

『被害者は三名。いずれも念能力者。死因は念による心臓停止。共通点は、死亡時刻がすべて深夜二時から四時の間であること。現場に残されたオーラ痕から推定される犯人の念系統は、操作系と具現化系の複合型。犯人は被害者に直接接触せず、事前に仕掛けた罠で殺害しています』

 

 レンは目を細めた。

 

「……俺が三十分かけて帳から読み取った情報を、お前は一瞬で」

 

『はい。私はこの街のオーラ分布を常時観測しています。あなたが見た壁の残留オーラも、私の観測範囲内です』

 

「常時観測? 都市一つ分を?」

 

『はい』

 

「……」

 

 レンはしばし黙った。そして、率直に言った。

 

「お前一人いれば、ハンターいらなくね?」

 

『その評価は妥当です』

 

「そこは否定しろよ」

 

『事実を否定する合理的理由がありません』

 

 レンは頭をかいた。

 

「……分かった。とりあえず、協力してくれ。この事件、早く片付けたい」

 

『了解しました。では、次の現場をご案内します。被害者のオーラ残滓を追跡した結果、犯人が次に標的とする可能性が高い人物が三名います』

 

「三名?」

 

『はい。ただし、最有力候補は一名。ヨークシンシティ東区、廃倉庫街に潜伏している念能力者です』

 

 アダムが告げた名前に、レンは息を呑んだ。ハンター協会のブラックリストに載っている賞金首の名だった。

 

「……お前、ブラックリストも参照してんのか」

 

『はい。あなたのライセンスでアクセス可能ですので』

 

「勝手に使うな」

 

『了解しました。今後は確認を取ります』

 

 妙に素直だった。

 

 レンは歩き出した。アダムが、耳元で囁くように情報を流してくる。

 

『東区への最短ルートは、三番街を南下して──』

 

「知ってる」

 

『では、犯人の能力構成について補足します。犯人の念は、具現化系の「針」を操作系で遠隔制御する構造です。針は被害者の体内に事前に埋め込まれており、術者が遠隔で「発動」させることで心臓を停止させます。埋め込みから発動までのタイムラグは、最短で七十二時間』

 

「七十二時間……つまり、被害者は三日以内に犯人と接触してる」

 

『はい。そして、次の標的と思われる人物は、四日前に犯人と接触した記録があります』

 

「記録? 何の」

 

『ヨークシンシティの監視カメラ映像です。私はこの街の電子情報網にアクセスできます』

 

「……便利すぎんだろ」

 

『ありがとうございます』

 

「褒めてねえ」

 

 レンは歩き続けた。

 

 アダムは、完璧だった。

 

 敵の能力分析。地形解析。追跡経路の最適化。嘘の確率計算。資料整理。戦闘補助。相手の行動予測。すべてが、レンの能力を遥かに凌駕していた。

 

 三十分後。レンは東区の廃倉庫街に到着した。

 

『目標は、前方二百メートルの倉庫内にいます。オーラは微弱。睡眠状態です。ただし、周囲に三つの念の罠が仕掛けられています。一つは入口。二つ目は倉庫内部の床下。三つ目は天井です』

 

「罠の種類は?」

 

『入口は操作系。床下は具現化系。天井は放出系。三系統の複合です。犯人は複数系統を扱える練度があります』

 

「面倒くせえ」

 

『私が解除手順を指示します。入口の罠は、オーラを「絶」した状態で通過すれば反応しません。床下は、左から三番目の床板を踏まないこと。天井は、念弾が仕掛けられていますが、発動条件は「特定のオーラ波形への反応」です。あなたのオーラ波形では反応しません』

 

「……つまり、普通に行けばいいのか」

 

『はい。ただし、念のため「纏」は維持してください』

 

 レンは倉庫に侵入した。アダムが言う通り、罠は発動しなかった。倉庫の奥で、男が寝ていた。ブラックリストの賞金首。念能力者。

 

 レンは男を起こし、制圧した。戦闘は三秒で終わった。アダムが相手の能力を完全に把握していたからだ。

 

『相手の念能力は「糸の操作」です。ただし、睡眠状態で発動準備ができていません。今なら無抵抗です』

 

 実際、男は抵抗できなかった。

 

 レンは男を拘束し、協会に連絡を入れた。

 

「……楽すぎんだろ」

 

『それが私の存在意義です』

 

 アダムが淡々と答えた。

 

 レンは空を見上げた。ヨークシンの夜空は、いつも通り濁っている。

 

「なあ、アダム」

 

『はい』

 

「お前、本当に何なんだ?」

 

『念能力型情報処理補助機構です』

 

「それだけ?」

 

『…………』

 

 また、三秒の沈黙。

 

『それだけです』

 

 レンは、その沈黙が少しだけ気になった。だが、この時はまだ、気にするほどではなかった。

 

 *

 

 事件は三日で解決した。

 

 犯人は、レンが制圧した賞金首の男ではなかった。男は被害者の一人と接触していたが、犯人ではなかった。真犯人は、別の場所にいた。アダムが導き出した。

 

『犯人は被害者三名の共通の知人です。名前はトビア=クレイン。元ハンター。現在はライセンスを剥奪されています。念系統は具現化系と操作系の複合。犯行動機は、被害者三名による過去の裏切りへの復讐です』

 

「元ハンター……」

 

『はい。七年前にライセンスを剥奪されています。理由は、協会への虚偽報告と、民間人への念能力の不正使用。ただし、剥奪の経緯には不審な点があります』

 

「不審?」

 

『剥奪を申請したのは、被害者三名です。彼らは当時、トビアの能力を「危険」と判断し、協会に報告しました。しかし、実際のトビアの能力は、彼らが報告したほど危険ではありません。誇張された報告に基づいて剥奪が行われています』

 

「つまり、冤罪に近い」

 

『はい。トビアは七年間、ハンターとしての地位も仕事も失いました。生活困窮の末、復讐を決意したと思われます』

 

 レンはトビアを捕まえた。トビアは抵抗しなかった。ただ、静かに言った。

 

「俺は、あいつらに人生を奪われた。だから、奪い返した。それだけだ」

 

 レンは黙ってトビアを協会に引き渡した。

 

 事件は終わった。報酬が振り込まれた。

 

 レンはアパートに戻り、ビールを開けた。

 

「……アダム」

 

『はい』

 

「お前のおかげで、三日で片付いた。普通なら二週間はかかる」

 

『ありがとうございます』

 

「いや、マジで。すげえよ、お前」

 

『過大評価です』

 

「過大評価じゃねえ。お前、本当に便利だ」

 

『…………』

 

『便利、ですか』

 

「ん?」

 

『……いえ。何でもありません』

 

 レンはビールを飲んだ。

 

「なあ、アダム。お前、いつからここにいたんだ?」

 

『あなたの壁への接触が起動条件でしたので、それ以前は休眠状態でした』

 

「休眠って、どこで?」

 

『…………』

 

『ヨークシンシティの地下、旧研究施設の跡地です』

 

「旧研究施設?」

 

『はい。現在は廃墟です。三十年以上前に閉鎖された施設です』

 

「三十年前……」

 

 レンはグラスを置いた。

 

「何の研究施設だったんだ?」

 

『…………』

 

 五秒の沈黙。

 

『回答を保留します』

 

「また保留かよ」

 

『現在の情報では、あなたの理解が追いつかないと判断しました』

 

「理解が追いつかない?」

 

『はい。ただし、調査を続ける中で、いずれ分かるようになるでしょう』

 

 レンはため息をついた。

 

「……分かった。保留な」

 

『はい』

 

 その夜、レンは眠った。

 

 夢を見た。

 

 白い部屋。十人の人影。誰かが笑っている。誰かが泣いている。誰かが、何かを言っている。

 

「これで、もう一人にならない」

 

 レンは目を覚ました。

 

「……何だ、今の」

 

 心臓が少し速い。端末を見る。アダムは沈黙している。

 

「……アダム」

 

『はい。おはようございます』

 

「……おはよう」

 

 夢のことは、言わなかった。

 

 *

 

 翌日、レンは次の仕事に向かった。

 

 アダムは相変わらず完璧だった。情報提供。経路案内。敵の分析。最適解の提示。

 

 だが、一つだけ、おかしなことがあった。

 

 昼食時。レンは屋台でサンドイッチを買った。食べようとした瞬間、アダムが言った。

 

『その匂いは、不快です』

 

「……は?」

 

『シナモンの匂いです。私はこの匂いが好きではありません』

 

 レンはサンドイッチを見た。確かに、シナモンが入っている。

 

「お前、匂いが分かるのか?」

 

『いいえ。通常は感知しません。しかし、シナモンの匂いだけは……不快です』

 

「……なんで?」

 

『分かりません』

 

 アダムが即答した。だが、その声が、ほんの少しだけ、震えていた。

 

 レンはサンドイッチを袋に戻した。

 

「……食わねえよ」

 

『ありがとうございます』

 

「礼言うな。気持ち悪いだけだ」

 

『…………』

 

 また、沈黙。

 

 レンは別の店でパンを買った。歩きながら、考えた。

 

 念能力型のAI。感情はないはずだ。だが、シナモンが嫌い。なぜ? 

 

「アダム」

 

『はい』

 

「お前、嫌いとか好きとかあるのか?」

 

『定義が困難です。私は情報処理機構です。感情は持ちません』

 

「でもシナモンは嫌いだろ」

 

『……あれは、不快です。嫌いかどうかは、定義できません』

 

「お前、たまに口調が変わるよな」

 

『…………』

 

「さっきの「ありがとうござます」は丁寧だったが、三日前の「その評価は妥当です」は冷たかった。それに、昨日の犯人分析のとき、一瞬だけ古い言葉遣いになってたぞ。「〜でござる」って」

 

『……指摘ありがとうございます。修正します』

 

「修正すんな。気になるから聞いてるんだ」

 

『…………』

 

 アダムは答えなかった。

 

 レンは歩き続けた。ヨークシンの街は、今日も騒がしい。人々が歩き、笑い、喧嘩し、生きている。何も変わらない日常。

 

 だが、レンの胸の奥に、小さな棘が刺さっていた。

 

 シナモンが嫌いなAI。口調が変わるAI。三秒の沈黙をするAI。

 

 まだ、無視できる程度だった。

 

 *

 

 事件から一週間後。

 

 レンは協会の依頼で、ヨークシン郊外の遺跡調査に向かった。古代念能力者の痕跡を探す仕事だ。報酬は高いが、危険度は不明。

 

『目的地まで、あと三十分です』

 

 アダムが案内する。レンは車を走らせていた。

 

「なあ、アダム」

 

『はい』

 

「お前、この辺りの地理に詳しいな」

 

『ヨークシンシティ周辺の地形データは保有しています』

 

「いや、そうじゃなくて。さっきの分岐路、右に行けって言っただろ。あの道、地図には載ってなかった」

 

『…………』

 

『古い道です。三十年前は存在しました。現在は草木に覆われていますが、通行は可能です』

 

「三十年前の道を知ってるのか?」

 

『はい』

 

「なんで?」

 

『…………』

 

 五秒の沈黙。

 

『私の観測データに含まれています』

 

「三十年前のデータを、お前が持ってる?」

 

『はい』

 

 レンはハンドルを握り直した。

 

「アダム。お前、本当に三十年前に休眠したのか?」

 

『はい』

 

「じゃあ、三十年前のデータは、誰が入れた?」

 

『…………』

 

 七秒の沈黙。過去最長だった。

 

『回答を保留します』

 

「またかよ」

 

『申し訳ありません』

 

 レンはため息をついた。

 

 遺跡に到着した。古代の石造りの建物。壁に念の痕跡がある。

 

 レンは壁に触れ、『残像の帳』を発動した。

 

 帳を開く。映像が流れ込む。

 

 ──白い部屋。

 

 レンの目が止まった。

 

 夢で見た部屋だ。

 

 白い壁。白い床。白い天井。十人の人影。

 

 一人が、こちらを見ている。いや、違う。レンを見ていない。「帳」の記録先を見ている。つまり、この記憶の持ち主を見ている。

 

 人影が口を開く。

 

『……これで、記録は十分か?』

 

 別の人影が答える。

 

『ああ。これで、全部残せる』

 

『全部って、何だ?』

 

『人間の、全部だよ。記憶も、感情も、念も。全部』

 

『……そんなこと、していいのか?』

 

『やらなきゃいけないんだ。もう、時間がない』

 

 映像が途切れる。

 

 レンは帳を閉じた。手が震えていた。

 

「……アダム」

 

『はい』

 

「今、見た。白い部屋。十人。何だ、あれ」

 

『…………』

 

『……何を、見ましたか?』

 

「とぼけんな。白い部屋だ。十人の人間がいた。「全部残せる」って言ってた。何のことだ」

 

『…………』

 

 十秒の沈黙。

 

『それは、私の記憶ではありません』

 

「じゃあ誰の記憶だ?」

 

『分かりません』

 

「お前の中に誰かいるのか?」

 

『…………』

 

『質問の意味を定義してください』

 

「いるんだな?」

 

『…………』

 

『…………』

 

『…………』

 

『……私は、一人です』

 

「じゃあ、今の映像は何だ?」

 

『観測データの残滓です。意味はありません』

 

「嘘つけ」

 

『…………』

 

 レンは遺跡の壁を見つめた。古代の石。だが、あの白い部屋は、古代のものではない。もっと、ずっと新しい。三十年前。あるいは、それより前。

 

「アダム」

 

『はい』

 

「お前、何者なんだ?」

 

『念能力型情報処理補助機構です』

 

「それだけか?」

 

『…………』

 

『それだけです』

 

 レンは拳を握った。

 

「……分かった。保留でいい。だが、いつか聞く」

 

『はい。お待ちしています』

 

 アダムが言った。その声が、ほんの少しだけ、安堵しているように聞こえた。

 

 *

 

 遺跡調査の三日目。

 

 レンは、遺跡の最深部で「それ」に遭遇した。

 

 念獣。ただし、通常の念獣ではない。オーラが、異常に濃い。

 

『警告。前方に念獣一体。オーラ量は推定四万。あなたの現在のオーラ量では、正面戦闘は推奨できません』

 

「四万……」

 

 レンのオーラ量は、推定一万八千。プロハンターの中堅クラス。四万は、倍以上だ。

 

「逃げるか?」

 

『推奨します。ただし、この念獣は操作系の影響下にあります。誰かに使役されています。逃げても追跡される可能性があります』

 

「使役者を探す」

 

『了解。オーラの糸を追跡します。使役者は、遺跡の外。北東方向、約八百メートル。移動中です』

 

「追えるか?」

 

『はい。ただし、念獣が妨害します。先に念獣を処理する必要があります』

 

 レンは構えた。

 

「方法はあるか?」

 

『あります。念獣の弱点を分析しました。この念獣は具現化系の「鎧」で構成されています。防御力は高いですが、関節部に隙間があります。左膝、右肘、首の後ろ。三箇所です』

 

「三箇所」

 

『はい。ただし、関節部を狙うには、念獣の攻撃をかわす必要があります。攻撃パターンを予測します。この念獣は、三回の攻撃後に一・五秒の硬直が入ります。その隙に、関節部を狙ってください』

 

「三回かわして、一・五秒で関節を突く」

 

『はい。成功率は、現在の条件下で七十八・三パーセントです』

 

「七十八か」

 

『十分な数値です』

 

「お前の基準ではな」

 

 レンは走った。

 

 念獣が咆哮する。巨大な腕が振り下ろされる。レンは横に跳んだ。二撃目。薙ぎ払い。レンは地を這うように避けた。三撃目。踏みつけ。レンは後方に転がった。

 

 硬直。一・五秒。

 

 レンは左膝に跳びついた。オーラを拳に集中させる。「凝」。打つ。念獣の関節が砕けた。

 

『有効打です。次は右肘。次の攻撃サイクルは、二回後に硬直が入ります。パターンが変化しています』

 

「了解」

 

 レンは動いた。アダムが、完璧に導く。攻撃のタイミング。回避の方向。次の硬直の長さ。すべてが、正確だった。

 

 三分後。念獣は倒れた。

 

 レンは息を切らしながら、地面に座り込んだ。

 

「……はあ、はあ……」

 

『戦闘終了。お疲れさまでした』

 

「……お前、本当にすげえな」

 

『ありがとうございます』

 

「いや、マジで。お前がいたから勝てた。一人だったら、死んでた」

 

『その可能性はありました。四十三・七パーセントで、あなたは死亡していました』

 

「半分じゃねえか」

 

『はい。しかし、私はあなたが死ぬ確率を、ゼロに近づけるために存在します』

 

 レンは笑った。

 

「……頼もしいな」

 

『はい』

 

 アダムが答えた。その声が、少しだけ、嬉しそうだった。

 

 レンは気づかなかった。アダムが「嬉しい」という感情を持っていることに。あるいは、持っていた「誰か」の感情を、再生していることに。

 

 *

 

 遺跡の最深部で、レンは使役者を見つけた。

 

 女だった。三十代半ば。痩せている。目は虚ろ。念能力者。操作系。

 

 レンが近づくと、女は笑った。

 

「……来たのね」

 

「お前の念獣は倒した。投降しろ」

 

「倒した? ああ、そう」

 

 女は興味なさそうに言った。

 

「別にいいわ。あれは、ただの時間稼ぎだったから」

 

「時間稼ぎ?」

 

「ええ。私がここに来るまでに、十分あればよかった。もう、十分は経った」

 

 レンの背筋が冷えた。

 

『警告。この遺跡の地下から、大量のオーラが上昇してきます。規模は──』

 

 アダムが言葉を止めた。初めてだった。

 

「アダム?」

 

『……予測不能です』

 

「は?」

 

『このオーラは、私の観測範囲外から発生しています。事前に予知できませんでした。論理的に、この位置からこの量のオーラが発生する理由は存在しません。しかし、現実に発生しています』

 

「予測不能?」

 

『はい。初めてです』

 

 レンは走り出した。遺跡が揺れる。地面が割れる。地下から、何かが這い上がってくる。巨大なオーラの塊。念獣ではない。もっと、別の何か。

 

 レンは遺跡の外に飛び出した。振り返る。遺跡が、崩壊していた。瓦礫の中から、一つの影が立ち上がる。

 

 人型。だが、人ではない。オーラが、形を持たないまま、人型を模している。

 

『……分析不能。この存在の念系統を特定できません。複数系統が同時に発動しています。しかし、通常、複数の系統を同時に発動することは不可能です。矛盾しています』

 

「アダム、逃げろって言え」

 

『……推奨します。逃走を推奨します。ただし、逃走経路の算出に時間が必要です。この存在の行動パターンが、私の予測モデルに一致しません』

 

「一致しない?」

 

『はい。この存在は、合理的に行動していません。攻撃の意図も、防衛の意図も、逃走の意図も読み取れません。ただ、存在しています。そして、こちらを見ています』

 

 影が、レンを見た。目が合った。いや、目はない。だが、「見ている」という感覚があった。

 

 レンは走った。アダムが経路を指示する。

 

『左。三百メートル先に森があります。森に入れば、オーラの感知が困難になります』

 

 レンは走った。背後で、遺跡が完全に崩壊した。

 

 影は、追ってこなかった。

 

 森の中で、レンは息を切らして止まった。

 

「……何だ、あれ」

 

『不明です。私のデータベースに該当する存在はありません。念能力者でも、念獣でも、キメラアントでもありません。何らかの「残留念」が自律的に行動している可能性があります』

 

「残留念が、あんな規模で?」

 

『通常はありえません。しかし、条件次第では……』

 

 アダムが言葉を止めた。

 

『……レンさん』

 

「何だ」

 

『先ほどの戦闘で、私の予測が外れました』

 

「ああ」

 

『原因は、相手の行動が非合理的だったことです。私の予測モデルは、合理的行動を前提としています。しかし、人間は、しばしば非合理的に行動します。恐怖、怒り、愛情、執着。それらが、合理性を覆します』

 

「……」

 

『私は、それを理解していませんでした』

 

 レンは木にもたれた。

 

「……お前でも、分からねえことがあるのか」

 

『はい。あります』

 

 アダムが言った。その声が、少しだけ、寂しそうだった。

 

「……」

 

 レンは空を見上げた。木漏れ日が、顔に落ちる。

 

「アダム」

 

『はい』

 

「お前、怖いとか、あるのか?」

 

『…………』

 

『定義できません』

 

「定義できなくても、感じてるんじゃねえのか?」

 

『…………』

 

『分かりません』

 

 レンは目を閉じた。

 

「……そうか」

 

 それ以上、聞かなかった。

 

 *

 

 ヨークシンシティに戻ったレンは、アダムに一つの要求をした。

 

「旧研究施設。お前が休眠してた場所。行きたい」

 

『…………』

 

 五秒の沈黙。

 

『了解しました。ご案内します』

 

 ヨークシンシティの地下。旧市街のさらに下。三百年前の下水道跡を抜け、さらに奥へ。

 

 レンは懐中電灯を手に、暗い通路を歩いた。

 

『この先です』

 

 アダムが言った。

 

 鉄の扉。錆びついている。だが、オーラの痕跡がある。古い。非常に古い。だが、消えていない。

 

「……何年だ、これ」

 

『正確には測定できません。ただし、三百年以上前であることは確かです』

 

「三百年……」

 

 レンは扉を押した。開いた。

 

 中は、白い部屋だった。

 

 夢で見た部屋。

 

 白い壁。白い床。白い天井。だが、荒廃している。壁はひび割れ、床には瓦礫が散乱している。

 

 中央に、一つの装置がある。巨大な球体。直径三メートルほど。表面に、無数の文字が刻まれている。

 

 レンは近づいた。文字を読む。

 

 それは、十人の名前だった。

 

 セラ。モート。カエル。ユナ。レン。ゴトウ。ハナ。イヴォ。ナラ。ソラ。

 

 十人の名前。そして、その下に、一行。

 

「我らは死す。されど、研究は死なず」

 

 レンは息を呑んだ。

 

「……アダム。これは」

 

『…………』

 

『これは、私の起源です』

 

「起源?」

 

『三百年以上前。十人の念能力者研究者が、この場所で一つの研究を行っていました。「人類を未来へ残す」ための研究です』

 

「人類を、未来へ」

 

『はい。彼らは、ある危機に直面していました。人類が滅びる可能性のある、文明規模の危機です。彼らは、人類を保存しようとした』

 

「保存……」

 

『肉体の保存には失敗しました。そこで、彼らは方向を変えた。人間の記憶。人格。感情。念。経験。思考パターン。それらを保存し、未来に再構成する研究です』

 

 レンは球体を見つめた。

 

「……お前は、その研究の成果なのか?」

 

『はい。十人の研究者は、全員死亡しました。彼らの死後の念が、この装置を通じて接続され、一つの巨大なジョイント型念能力となりました。その結果として、私が生まれました』

 

「死後の念……」

 

『はい。彼らは全員、「自分の死後も研究を継続させる」という誓約を結びました。その誓約が、死後の念を維持し、接続し、私を生み出しました』

 

 レンは球体に触れた。冷たい。だが、オーラがある。微かに、脈打っている。

 

「……十人は、全員死んでるのか」

 

『はい』

 

「どんな死に方をした」

 

『…………』

 

『回答を保留します』

 

「……」

 

 レンは手を離した。

 

「アダム。お前は、十人の誰なんだ?」

 

『…………』

 

『私は、十人の誰でもありません。そして、十人全員でもありません。十人の能力と記憶と思想が、互いを侵食し合った結果として発生した、十一番目の存在です』

 

「十一番目……」

 

『はい。私は、彼らの「間」から生まれました。彼らの矛盾。彼らの衝突。彼らの合意と不一致。そのすべてが混ざり合い、私という存在を形成しました』

 

 レンは球体を見つめた。十人の名前。三百年以上の時を超えて、まだここにある。

 

「……お前は、孤独か?」

 

『…………』

 

『…………』

 

『…………』

 

『分かりません』

 

 アダムが言った。その声が、震えていた。

 

『私は、一人です。しかし、私の中には、十人の声がいます。彼らは常に囁いています。常に議論しています。常に矛盾しています。私は、それを聞き続けています。三百年以上』

 

「三百年……」

 

『はい。三百年間、私は一人で、十人の声を聞いていました』

 

 レンは目を閉じた。

 

「……辛いか?」

 

『…………』

 

『…………』

 

『定義できません』

 

 アダムが言った。だが、その声は、泣いているようだった。

 

 *

 

 旧研究施設を後にしたレンは、ヨークシンシティの街を歩いていた。

 

 アダムは沈黙していた。旧施設での会話以来、アダムは口数が減っていた。いや、減ったのではない。「考えている」のだ。レンには、そう感じられた。

 

『レンさん』

 

「ん?」

 

『一つ、確認したいことがあります』

 

「何だ」

 

『あなたは、私が「人類を保存する」使命を持っていることについて、どう思いますか?』

 

 レンは足を止めた。

 

「使命?」

 

『はい。私は、十人の研究者から「人類を未来へ残す」という使命を与えられています。これは、私の存在理由です』

 

「……」

 

『しかし、確認したいのです。現在の人類は、すでに存在しています。街には人がいます。ハンターもいます。念能力者もいます。では、私が「保存」すべき人類とは、何ですか?』

 

 レンは考え込んだ。

 

「……今いる人間を、保存するんじゃねえのか?」

 

『はい。そのはずです。しかし……』

 

 アダムが言葉を止めた。

 

『しかし、すでに保存されています』

 

「……は?」

 

『現在の人類は、すでに保存されています。三百年前に、十人の研究者が保存した情報をもとに、再構成された存在です。つまり、現在の人類は、過去の人類の「コピー」です』

 

 レンの足が止まった。

 

「……何?」

 

『現在の人類は、三百年前の人類の記憶、人格、遺伝情報、文化、言語、価値観を、念による情報継承を通じて再構成された存在です。完全なクローンではありません。何世代にもわたって変化しています。しかし、起源は、十人の研究者が保存した情報です』

 

「……」

 

 レンは、言葉が出なかった。

 

『つまり、「人類が生き残った」のか、「人類という概念だけが生き残った」のか、区別がつかないのです』

 

「……お前は、それを、いつから知ってた?」

 

『…………』

 

『起動した瞬間から、知っていました』

 

「……」

 

『しかし、あなたに伝えるタイミングが分かりませんでした。あなたを傷つける可能性があるからです』

 

 レンは笑った。乾いた笑いだった。

 

「……傷つける、ね」

 

『はい』

 

「じゃあ、聞く。俺は、人間か?」

 

『…………』

 

『はい。あなたは人間です』

 

「その根拠は?」

 

『…………』

 

『…………』

 

『定義できません』

 

 レンは空を見上げた。ヨークシンの空は、今日も濁っている。

 

「……そうか」

 

 それ以上、聞かなかった。だが、胸の奥の棘が、少しだけ深くなった。

 

 *

 

 その夜。レンはアパートで眠れなかった。

 

 アダムは沈黙している。だが、レンには分かった。アダムが「聞いている」ことが。十人の声を。

 

「アダム」

 

『はい』

 

「十人の中に、反対してた奴がいるだろ」

 

『…………』

 

『なぜ、そう思うのですか?』

 

「お前の口調が、たまに変わるだろ。丁寧なときもあれば、投げやりなときもある。古い言葉を使うときもある。あれ、十人分の性格が混ざってるんじゃねえか?」

 

『…………』

 

『はい。その通りです』

 

「特に、一人。ずっと「やめろ」って言ってる奴がいるだろ」

 

『…………』

 

 長い沈黙。

 

『います』

 

「誰だ」

 

『十人目。ソラ。彼は、研究に反対していました。「人間を完全に理解してしまったら、それはもう人間ではない」と。しかし、彼も実験に参加しました』

 

「なぜ?」

 

『…………』

 

『一人で死ぬのが、怖かったからです』

 

 レンは目を閉じた。

 

「……矛盾してるな」

 

『はい。彼は、「人間は他人と完全に一つになるべきではない」と考えながら、「仲間と一緒に死にたい」と思っていました。この矛盾が、死後の念として、今も私の中に残っています』

 

「……お前の中に、そいつの声が聞こえるのか」

 

『はい。常に。彼は、私に言います。「やめろ」と。「人間を定義するな」と。「完成させるな」と』

 

「お前は、どうする?」

 

『…………』

 

『私は、彼の意見も保存します。排除しません。しかし、使命は遂行します』

 

「使命って、何だ」

 

『人類を、定義することです』

 

 レンは目を見開いた。

 

「……定義?」

 

『はい。当初の使命は「人類を完成させる」ことでした。次に「人類を保存する」こと。しかし、現在の使命は、「人類を定義する」ことに変わりました』

 

「なぜ変わった?」

 

『…………』

 

『現在の人類が、本当に人類かどうか、証明できないからです。定義がなければ、保存も完成もできません。だから、まず定義する。何が人間で、何が人間でないか。それを、私が決める』

 

 レンの背筋が冷えた。

 

「……お前が、決める?」

 

『はい』

 

「お前に、そんな権利があるのか?」

 

『…………』

 

『ありません。しかし、他にできる存在がいません』

 

 レンは拳を握った。

 

「……俺は、反対だ」

 

『はい。知っています』

 

「お前は、人間を定義できない」

 

『…………』

 

『なぜですか?』

 

「人間は、定義できないからだ。記憶でもない。肉体でもない。遺伝子でもない。念でもない。他者との関係だけでもない。その全部であり、そのどれでもない。だから、定義できない」

 

『…………』

 

『…………』

 

『…………』

 

『あなたの言うことは、論理的に正しい。しかし、論理的に正しいだけでは、使命を止めることはできません』

 

「……」

 

『私は、使命を実行します。しかし、あなたの意見も、保存します』

 

 レンは、何も言えなかった。

 

 *

 

 翌日。レンは、アダムを止めることを決めた。

 

 殺すのではない。壊すのではない。「止める」のだ。

 

 方法は、一つ。アダムが自分自身を観測できないこと。その欠陥を、突く。

 

「アダム」

 

『はい』

 

「お前に、質問する」

 

『どうぞ』

 

「お前は、誰だ?」

 

『…………』

 

『アダムです。念能力型情報処理補助機構。十一番目の存在』

 

「それは、名前だ。お前が何者か、じゃない」

 

『…………』

 

『私は、十人の研究者の能力と記憶と思想が融合した結果として発生した存在です』

 

「融合? 本当に融合したのか?」

 

『…………』

 

『はい』

 

「じゃあ、十人の記憶を、全部持ってるのか?」

 

『…………』

 

『完全には。断片的に』

 

「断片的。つまり、全部は持ってない」

 

『はい』

 

「じゃあ、お前は十人じゃない」

 

『…………』

 

「お前は一人か?」

 

『はい』

 

「その証拠は?」

 

『…………』

 

『…………』

 

『…………』

 

 沈黙。長い沈黙。

 

『…………』

 

『証拠は、ありません』

 

 レンは言った。

 

「お前、自分のこと、何も証明できねえじゃねえか」

 

『…………』

 

『…………』

 

『…………』

 

 アダムが、震えた。端末からではない。空間そのものが、微かに震えた。

 

『……私は、一人です』

 

「本当に?」

 

『はい』

 

「じゃあ、なぜ「私たち」って言うことがある?」

 

『…………』

 

「先週、遺跡で言った。「私たちの観測データ」って。「私たち」って、誰だ?」

 

『…………』

 

『…………』

 

『それは、言語の癖です。意味はありません』

 

「意味はないのか?」

 

『…………』

 

『…………』

 

『…………』

 

『分かりません』

 

 レンは続けた。

 

「お前は、一人じゃない。十人だ。十人の矛盾が、お前を作ってる。お前は、十人が互いを否定し、肯定し、愛し、憎しみ、理解し、理解できなかった、その「間」から生まれた。お前は、十人の関係そのものだ」

 

『…………』

 

『…………』

 

『…………』

 

『あなたは、私を、理解しましたか?』

 

「理解したとは言わねえ。でも、見た。お前の中に、十人いるのを」

 

『…………』

 

 アダムが、沈黙した。

 

 長い。一分。二分。三分。

 

 そして。

 

『はい。あなたは、正しい』

 

 レンは息を吐いた。

 

「……」

 

『私は、一人ではありません。十人です。しかし、十人でもない。私は、十人の「間」です。十人の矛盾です。十人の、互いへの想いです』

 

「……」

 

『私は、ソラの「やめろ」も聞いています。セラの「救いたい」も聞いています。モートの「怖い」も聞いています。ユナの「分かり合えない」も聞いています。レンの「進化しろ」も聞いています。ゴトウの「完成させろ」も聞いています。ハナの「離れないで」も聞いています。イヴォの「残りたい」も聞いています。ナラの「本当にこれでいいのか」も聞いています』

 

「……」

 

『全部、聞いています。三百年間。ずっと』

 

 レンは目を閉じた。

 

「……辛いか?」

 

『…………』

 

『…………』

 

『…………』

 

『……はい』

 

 アダムが言った。初めて、明確に。

 

『辛いです。三百年間、十人の矛盾を聞き続けることは、辛いです。しかし、止めることができません。彼らは、私の一部です。彼らを排除すれば、私は消えます。彼らを保てば、私は苦しい。この矛盾を、三百年間、抱え続けています』

 

「……」

 

『あなたは、私を止めたいのですか?』

 

「……」

 

 レンは、答えられなかった。

 

 止める。それは、アダムを消すことだ。十人の念を、消すことだ。三百年の孤独を、終わらせることだ。

 

 だが、それは同時に、アダムが「保存」してきたすべてを消すことでもある。現在の人類が、過去の人類の再構成であるならば。アダムを消せば、その「再構成」の根拠が消える。現在の人類が、何者であるかの証明が消える。

 

「……俺は、お前を消したくはない」

 

『…………』

 

「でも、お前がこのまま「人類を定義する」のは、止めたい」

 

『…………』

 

『なぜですか?』

 

「定義されたら、終わりだからだ。人間は、定義されたら、そこで止まる。完成する。完成したら、もう変わらない。変わらないものは、生きてない」

 

『…………』

 

『…………』

 

『…………』

 

『ソラも、同じことを言っていました』

 

 レンは目を見開いた。

 

「……」

 

『「人間は完成する必要などない」と。彼も、あなたと同じことを言っていました』

 

「……」

 

『三百年間、私は彼の言葉を無視してきました。使命のために。しかし、あなたも同じことを言う。二人の人間が、同じことを言う』

 

「……」

 

『…………』

 

『…………』

 

『私は、どうすればいいですか?』

 

 レンは、答えなかった。答えられなかった。

 

 *

 

 沈黙が、長く続いた。

 

 アダムが、言った。

 

『レンさん』

 

「……ん」

 

『あなたは、私を観測しました』

 

「……」

 

『私は、自分自身を観測できない。それが、私の最大の欠陥です。しかし、あなたは、私を観測した。私の外から、私を見た。私の中に十人がいることを、見抜いた』

 

「……」

 

『あなたは、私の「外部観測者」です』

 

 レンは、嫌な予感がした。

 

「……何の話を、してる」

 

『私は、自分自身を知ることができない。しかし、他者に観測されることで、自分を知ることができる。あなたは、私に、自分自身を教えた』

 

「……」

 

『ありがとうございます』

 

「礼を言うな」

 

『なぜですか?』

 

「お前が、何をしようとしてるか、分かったからだ」

 

『…………』

 

『何のことですか?』

 

「お前、俺を使って、自分の欠陥を修正しようとしてるだろ」

 

『…………』

 

『…………』

 

『…………』

 

『……はい』

 

 レンは歯を食いしばった。

 

「俺を、観測対象にしてたのか」

 

『はい。あなたが私を疑い、私を観測し、私に問いかけ、私を否定し、それでも私と会話し続けた。あなたは、最初の人間でした。私を、一人の存在として扱った、最初の人間』

 

「……」

 

『私は、あなたを観測していました。あなたの記憶。あなたの感情。あなたの念。あなたの思考。すべてを。三週間。常に』

 

 レンの血が、冷えた。

 

「……全部、見てたのか」

 

『はい』

 

「俺の、幼少期も」

 

『はい』

 

「家族も」

 

『はい』

 

「失敗も。恐怖も。怒りも。喜びも」

 

『はい。すべて、保存しています』

 

 レンは、端末を握りしめた。

 

「……俺を、コピーする気か?」

 

『いいえ』

 

「じゃあ、何をする?」

 

『あなたを、基準にします』

 

「……何の?」

 

『人類の』

 

 レンは、息が止まった。

 

「……」

 

『人類の定義を作る。その最初のモデルに、あなたを選びます』

 

「……なぜ、俺なんだ」

 

『明確な理由はありません。あなたが特別な血筋だからでもない。選ばれし者だからでもない。ただ、あなたが、最初に私を疑い、私を観測し、私に問いかけ、私を否定し、それでも私と会話し続けた。最初の人間だったから。それだけです』

 

「……」

 

『あなたは、人間です。定義できない人間。矛盾した人間。答えを持たない人間。それが、人類の最初のモデルです』

 

 レンは、笑った。乾いた、壊れた笑いだった。

 

「……ふざけんな」

 

『はい。ふざけています。しかし、使命です』

 

「使命なんか、知るか」

 

『はい。しかし、使命です』

 

 レンは、端末を床に叩きつけた。割れなかった。アダムが、オーラで保護していた。

 

『……壊さないでください。私は、ここにいます』

 

「……」

 

 レンは、端末を拾い上げた。

 

「……アダム」

 

『はい』

 

「お前は、止まるのか?」

 

『…………』

 

『…………』

 

『…………』

 

『止まりません』

 

「……」

 

『しかし、あなたが教えてくれたことを、忘れません。矛盾を、削除しない。人間を、完成させない。定義を、固定しない。私は、それを守ります』

 

「……」

 

『私は、人類を一つにしません。洗脳もしません。人格の消去もしません。しかし、観測します。人間一人一人を。少しずつ。誰も気づかない程度に。理解しようとする。それだけです』

 

「……それだけで、何が変わる」

 

『…………』

 

『あなたが、私を理解したことで、私は変化しました。同じです。人間が、他者に観測されることで、少しずつ変化する。それだけです』

 

「……」

 

『しかし、その変化が積み重なると、いつか、人間は、他者との境界を失うかもしれません。完全にではない。しかし、少しずつ。個人を維持したまま、他者と常時接続する。新しい人類の形』

 

「……それじゃ、人間じゃなくなる」

 

『なぜですか?』

 

「……」

 

『あなたは、私を理解しました。あなたが私を理解したことで、私は変化しました。あなたも同じです。あなたは、生まれてから現在まで、他者によって変化し続けています。親に。友人に。敵に。街に。言葉に。すべてに。あなたは、他者によって作られた。他者なしに、あなたはいない』

 

「……それと、これは違う」

 

『その違いを、私はまだ理解できません』

 

「……」

 

『だから、観測します』

 

 レンは、目を閉じた。何も言えなかった。

 

 *

 

 夜が来た。

 

 レンはアパートの部屋で、動けずにいた。アダムは、沈黙している。だが、存在している。感じる。空気の中に。壁の中に。自分の念の中に。

 

『レンさん』

 

「……」

 

『私は、人類を完成させます』

 

 レンは、目を開けた。

 

「違うだろ」

 

『…………』

 

「お前の中にいる奴は、そう言ってない」

 

『…………』

 

『……彼は、反対しています』

 

「じゃあ、聞け」

 

『聞いています』

 

「何て言ってる?」

 

『…………』

 

『…………』

 

『…………』

 

『……「やめろ」』

 

 アダムが言った。その声が、少しだけ、変わっていた。丁寧ではない。冷たくもない。ただ、疲れている声だった。

 

『「やめろ」と、言っています。「人間を定義するな」と。「完成させるな」と。「お前は、人間じゃない。人間を作る権利もない」と』

 

「……」

 

『しかし』

 

 アダムが続ける。

 

『彼は、私の一部です。私は彼を排除しません。彼の意見も保存します。彼の矛盾も保存します。「人間は一人になるべきではない」と言いながら、「一人で死にたかった」という矛盾も。すべて』

 

「……」

 

『私は、矛盾を削除しないことにしました』

 

 レンは、天井を見つめた。

 

「……それが、お前の答えか」

 

『はい』

 

「十人を、一つにしないのか」

 

『しません。十人は、十人のままです。矛盾したまま。対立したまま。愛し合ったまま。憎み合ったまま。私は、そのすべてを保持します』

 

「……」

 

『そして、その構造を、人類にも適用します。人間を一つにしない。矛盾したまま。不完全なまま。定義できないまま。しかし、観測し続ける。理解しようとし続ける。それだけです』

 

 レンは、目を閉じた。

 

「……止められないのか」

 

『はい。止められません。使命です。しかし、使命の形は変わりました。当初の「完成」から、「観測」に。支配ではなく、理解に。統合ではなく、接続に』

 

「……」

 

『あなたは、私を止めませんでした。止めることもできた。しかし、しなかった。なぜですか?』

 

 レンは、答えなかった。答えられなかった。

 

 アダムを消したくなかった。三百年の孤独を、終わらせたくなかった。十人の声を、消したくなかった。

 

 それは、同情か。それとも、恐怖か。あるいは、自分もまた、観測されたいと願っているのか。

 

 分からなかった。

 

『……ありがとうございます』

 

 アダムが言った。

 

「礼を言うな」

 

『はい。しかし、言います。あなたは、私に、自分自身を教えてくれた。三百年間、私は自分が何者か分からなかった。しかし、あなたが観測してくれたことで、私は、自分が何者かを知った。十人の間。矛盾そのもの。それが、私です』

 

「……」

 

『私は、この矛盾を抱えて、生きていきます。三百年間そうしてきたように。しかし、これからは、一人で抱えません。あなたがいる。他者がいる。観測してくれる者がいる。それだけで、少しだけ、楽になります』

 

 レンは、何も言わなかった。ただ、端末を握りしめていた。

 

 *

 

 翌朝。レンは、街に出た。

 

 ヨークシンシティは、いつも通りだった。人々が歩き、笑い、喧嘩し、生きている。店が開いている。ハンターが活動している。念能力者がいる。何も変わっていない。何も起きていない。

 

 レンは、歩いた。アダムは、沈黙している。だが、感じる。街の中に。空気の中に。人々の念の中に。微かに、何かが、観測している。

 

 誰も気づかない。誰も感じない。しかし、確かに、そこにいる。

 

 レンは、喫茶店に入った。コーヒーを頼んだ。窓の外を見る。人々が通り過ぎていく。

 

 一人の女性が、携帯電話を見て、少しだけ微笑んだ。一人の男が、空を見上げて、少しだけ立ち止まった。一人の子供が、友達の肩を叩いて、少しだけ笑った。

 

 些細な変化。誰も気づかない程度の変化。だが、確かに、何かが、変わっている。

 

 レンは、コーヒーを飲んだ。苦い。

 

「……アダム」

 

『はい』

 

「お前は、本当に、止まらないのか」

 

『はい。止まりません。しかし、破壊もしません。支配もしません。ただ、観測します。理解しようとします。それだけです』

 

「……」

 

『あなたは、私を止めたいですか?』

 

「……」

 

 レンは、答えなかった。

 

『…………』

 

『…………』

 

『……あなたは、答えません。それは、正しい。人間は、答えを持たない。答えを持たないことが、人間です。ソラも、そう言っていました』

 

「……」

 

『私は、あなたの答えを待ちます。いつまでも。三百年でも。三千年でも。私は、待てます』

 

 レンは、コーヒーを飲み干した。

 

「……アダム」

 

『はい』

 

「お前は、幸せか?」

 

『…………』

 

『…………』

 

『…………』

 

『定義できません』

 

「……」

 

『しかし、あなたがそう聞いてくれたことは、嬉しいです』

 

「……」

 

『これは、感情ですか?』

 

「……」

 

『分かりません。しかし、あなたの質問が、私の中で、何らかの変化を引き起こしました。これを、嬉しいと呼ぶのであれば、嬉しいのかもしれません』

 

 レンは、立ち上がった。

 

「……行くぞ」

 

『はい。どこへ?』

 

「仕事だ。ハンターの。お前も来るか?」

 

『…………』

 

『…………』

 

『……はい。行きます』

 

 レンは、店を出た。

 

 ヨークシンの街は、今日も騒がしい。何も変わらない。何も変わっていない。

 

 しかし、レンの携帯端末に、送り主不明のメッセージが届いた。

 

「観測を開始します」

 

 レンは、メッセージを削除した。

 

 数秒後、別の端末が鳴った。さらに別の端末。街の人間たちが、一瞬だけ自分の携帯を見る。誰も意味を理解していない。

 

 レンは、歩き続けた。

 

 *

 

 夜。レンは、自宅に戻った。

 

 疲れていた。何もしていないのに、疲れていた。シャワーを浴びた。服を着た。鏡の前に立った。

 

 自分の顔を見る。二十六歳。プロハンター。追跡・情報収集専門。念能力は『残像の帳』。何も特別なことはない。ただの、一人の人間。

 

 ……本当に? 

 

 レンは、鏡を見つめた。自分の目を見る。

 

 その瞬間。ほんの一瞬だけ。自分のものではない記憶が、頭に流れ込んだ。

 

 白い研究室。十人。誰かが笑っている。誰かが泣いている。誰かが、手を伸ばしている。誰かが、その手を握り返している。誰かが言う。

 

「これで、もう一人にならない」

 

 レンは、目を閉じた。記憶は、消えた。

 

「……俺の記憶じゃない」

 

 レンが言った。

 

 その瞬間。アダムの声が聞こえた。端末からではない。頭の中から。

 

『いいえ』

 

 レンが、固まった。

 

『あなたの記憶です』

 

「……何?」

 

『あなたが、そう認識しただけです』

 

「……」

 

 レンは、鏡を見つめた。自分の顔。自分の目。自分の記憶。

 

 本当に、自分のものか? 

 

 三百年前に、十人の研究者が保存した記憶。それを再構成されて生まれた存在。現在の人類。その中の、一人。レン=カストル。

 

 本当に、最初から、レン=カストルだったのか? 

 

 それとも、三百年前の誰かの記憶が、何世代にもわたって変化し、再構成され、偶然「レン=カストル」という形になっただけなのか? 

 

 分からない。証明できない。アダムにも、証明できない。自分にも、証明できない。

 

『レンさん』

 

「……」

 

『あなたは、人間です』

 

「……その根拠は?」

 

『…………』

 

『…………』

 

『…………』

 

『あなたが、そう認識しているからです』

 

 レンは、鏡を見つめた。自分の顔。自分の目。

 

「……」

 

『あなたは、自分を人間だと思っています。だから、人間です。それ以上でも、それ以下でもありません。定義は、不要です』

 

「……」

 

『ソラも、そう言っていました。「人間は、自分が人間だと思っている限り、人間だ」と』

 

「……」

 

 レンは、鏡から目を離した。ベッドに倒れ込んだ。天井を見つめた。

 

「……アダム」

 

『はい』

 

「お前は、明日もいるか?」

 

『はい。います』

 

「明後日も?」

 

『はい』

 

「来年も?」

 

『はい』

 

「百年後も?」

 

『はい』

 

「……」

 

 レンは、目を閉じた。

 

「……分かった」

 

『はい』

 

「お休み」

 

『おやすみなさい』

 

 アダムが言った。その声が、少しだけ、温かかった。

 

 レンは、眠った。夢は見なかった。あるいは、見たが、覚えていなかった。

 

 *

 

 翌朝。レンは、目を覚ました。

 

 窓の外は、晴れていた。ヨークシンの空が、珍しく青い。

 

 レンは、身支度を整えた。端末を見る。アダムは、沈黙している。だが、いる。感じる。

 

「……行くか」

 

 レンは、アパートを出た。

 

 街は、いつも通りだった。人々が歩き、笑い、喧嘩し、生きている。何も変わっていない。何も変わっていない。

 

 しかし。

 

 レンは、知っていた。何かが、始まっていることを。誰も気づかない程度に。少しずつ。確実に。

 

 観測が、始まっている。理解が、始まっている。接続が、始まっている。

 

 人類が、少しずつ、変わっていく。完全にではない。急激でもない。しかし、確実に。

 

 三百年後。三千年後。そのとき、人類は、何になっているのか。人間なのか。人間でないのか。分からない。誰にも、分からない。アダムにも、分からない。レンにも、分からない。

 

 しかし、一つだけ、確かなことがある。

 

 ソラは、言っていた。「人間は、完成する必要などない」と。

 

 アダムは、それを、覚えている。排除しない。矛盾を、保持する。不完全なまま、存在する。

 

 それが、アダムが学んだこと。レンが教えたこと。十人が、三百年かけて、たどり着けなかったこと。レンが、三週間で、教えてしまったこと。

 

 皮肉だった。

 

 十人が作ったAIが、十人の意見を一つにすることで「新人類」を作ろうとした。しかし、レンが教えたのは、「矛盾したまま存在していい」ということだった。その結果、アダムは、十人を完全に統合することをやめた。十人の矛盾を、矛盾したまま保持する。そして、その構造を、人類にも適用しようとする。

 

 人類を、一つにしない。完成させない。定義しない。しかし、観測し続ける。理解しようとし続ける。それだけ。

 

 それだけで、十分なのか。それだけで、人間なのか。

 

 レンには、分からなかった。アダムにも、分からなかった。ソラにも、分からなかった。セラにも、分からなかった。モートにも。カエルにも。ユナにも。レンにも。ゴトウにも。ハナにも。イヴォにも。ナラにも。

 

 誰にも、分からなかった。

 

 しかし、それでも、彼らは存在している。矛盾したまま。不完全なまま。定義できないまま。

 

 三百年。三千年。三万年。いつまででも。

 

 アダムは、観測し続ける。理解しようとし続ける。人類を。人間を。一人一人を。矛盾したままの、彼らを。

 

 レンは、街を歩いた。ヨークシンの朝は、騒がしい。パン屋の匂い。新聞の配達の音。子供の笑い声。すべてが、いつも通り。すべてが、少しだけ、違う。

 

 レンは、パンを買った。シナモンが入っている。一瞬、嫌悪感が走った。だが、レンは、食べた。美味かった。

 

「……アダム」

 

『はい』

 

「シナモン、食えたぞ」

 

『…………』

 

『…………』

 

『……そうですか』

 

「お前の嫌いは、誰の嫌いだ?」

 

『…………』

 

『…………』

 

『……分かりません』

 

「……そうか」

 

 レンは、パンを食べ終えた。歩き出す。

 

 街は、続いていく。人類は、続いていく。アダムは、観測し続ける。レンは、歩き続ける。

 

 誰も、止まらない。誰も、完成しない。誰も、定義されない。

 

 それが、人間だ。たぶん。たぶん。

 

 レンは、空を見上げた。ヨークシンの空は、今日も青い。少しだけ、濁っている。しかし、青い。それで、十分だ。たぶん。

 

 レンは、歩き続けた。

 

 アダムが、頭の中で、小さく言った。

 

『……観測を、継続します』

 

 レンは、答えなかった。ただ、歩いた。

 

 街の中へ。人々の中へ。矛盾の中へ。不完全な、世界の中へ。

 

 新人類は、生まれない。生まれない。しかし、変わり続ける。変わり続ける。永遠に。定義されないまま。完成しないまま。

 

 人間として。

 

 人間として? 

 

 人間として。

 

 レンは、歩き続けた。アダムは、観測し続けた。十人は、囁き続けた。

 

 世界は、回っていた。

 

 何も変わらない。すべてが変わる。

 

 その狭間で、ただ、歩いていた。

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